二
第1話
リンコ《・・・》は薄っすらと目を開いた。目のまえに、蹄があった。蹄は二又に分かれている。奈良の鹿に似ているから、鹿なのかもしれない。しかし、鹿ではないとなんとなく感じた。黒い斑紋がある。それも豹の斑紋のような、蛇の鱗のような不思議な斑紋だ。そんな模様の鹿を見たことがない。たくましい筋肉に引き締まった後ろ足。黒く長い尾。つややかで光沢がある。思わず触ってみたいと思ってしまう。腹には幾重にも宝石が象嵌された鎖が巻かれている。よほど大事にされている鹿なのだろう。
視線をずっと前に移す。黒い巻き毛のたてがみが見えた。まるで昔の少女漫画に出てくる、黒い巻き毛。外国の映画俳優のような髪だ。たてがみ、だけど……、とリンコは心のなかで訂正する。そのたてがみの間にも、宝石が施された銀色の鎖が見える。そこで、リンコの思考が止まった。
たてがみの間に、宝石の帯と肌色の腹が見えた。ミルクティーくらいの色の肌。腹筋の割れた逞しい腹。腕組みをして、頭を俯けた人の上半身。その頭には、二本の角があった。角は鹿の角に似ていた。俯いているので、その顔が人のものかわからない。もしかすると、鹿かもしれない。
リンコは口を手で押さえる。そうしないと、叫びだしてしまいそうだった。
自分は確かにベッドに横になって寝ていた。本当なら、見えているのは部屋の出入り口である扉と、本棚だ。それなのに、目の前には化物がいる。そっと視線を周りに移す。木の棚があった。そこに草や石が乗せられている。かごのようなものもある。目の前の化物さえいなければ、田舎の民家に眠っている間に移されたように思うだろう。けれど、どんなにまばたきをしても、目の前には鹿の体をした人がいる。
目眩はもうしていない。体を起こしてみた。首に銀の鎖の付いた赤い宝石のネックレスがかけられている。それを指で触れてみたが、本物のようだ。赤い宝石は五百円玉くらいの大きさで、とても綺麗だった。これは、目の前の化物がかけたものなのだろうか、とリンコは逡巡した。
周囲に出入り口らしきものはないが、布が垂れた四角い壁があった。もしかすると、あれは
リンコは思わず息を呑んだ。恐ろしさよりも、驚きに。
黒い巻き毛の間から覗く真っ青な瞳。けぶるようなまつげに、くっきりとした眉毛。すっと伸びた鼻梁、ふっくらとした唇。男らしく削げ落ちた頬。映画で見るどんな外国人の俳優よりもハンサムだった。ぽかんと口を開けたまま、リンコは目の前の半人半獣を見つめ続けていた。逃げ出すことすら頭からすっぽりと抜けてしまっていた。目の前のイケメンが、静かな低い声で話しかけてきた。その声を聞くだけで、背筋がゾクリとした。胸が勝手に高鳴っていき、顔が赤くなっていく。
「呼びだされし花嫁よ、目覚めたのですね」
リンコは呆然とした。目の前の半人半獣の花嫁として、自分は呼び出されたのだと思った。声も出せずにいると、半人半獣が立ち上がった。そびえるほどに大きい。顔や体つきも、人間より一回り違うのにリンコは気付いた。その半人半獣が、リンコの前に前脚を折って
「わたしの名前はドゥルラナと言います。花嫁の名はなんというのですか?」
半人半獣の言葉が分かるというよりも前に、特撮映画を見るような気持ちで、リンコは呆然としたまま、ドゥルラナと名乗る半人半獣を見つめた。
「まだ落ち着かれていないようですね……。茶を用意しましょう。それから少しずつお話をしましょう」
そう言うと、ドゥルラナは立ち上がり、部屋の隅に寄っていった。そこには石を組んだ
「さぁ、いくらか冷ましましたが、まだ熱いでしょう。気をつけて飲まれてください」
渡された茶からは、ハーブティーのような香りがした。リンコは息を吹きかけながら、言われるがままに茶を飲んだ。すると、ふんわりとした心地になってきた。気持ちが落ち着くというか、眠くなるような安堵感に包まれた。
「花嫁よ、あなたの名はなんというのですか?」
リンコは口にした。
「アカバネリンコ」
「アカバネリンコ?」
「リンコでいいよ」
「リンコというのですね?」
「うん……。ねぇ、これはどういうことなの? ここはどこなの? あなたはなんで体が半分鹿なの?」
半人半獣が困ったように笑った。
「急にこんな場所に呼び出されて戸惑うのは仕方ないですね。わたしでもなじめないでしょう。わたしの名はドゥルラナ。親しい者はラナと呼びます。ここはユトラウスのイスキア族の領土です。この小屋は私の家。あなたは花嫁として召喚されたのです。それから、わたしはシカというものではなく麒麟です」
「キリン……」
動物園のキリンではなく、ビールの標章になっている、あの麒麟なのだろうかとリンコは首を傾げた。茶を飲んでから、化物という抵抗感が薄れていた。それ以上に、何度も花嫁と呼ばれることが気になった。花嫁とは、このドゥルラナと名乗った麒麟の花嫁ということなのだろうか。そう思うと、とたんに心臓が口から飛び出すくらいに緊張した。こんなイケメンが自分のことを花嫁と呼んでいる。麒麟だという問題は残されているが、こんなイケメンは生まれて初めて見る。それが花嫁。自分が花嫁。なんで花嫁。頭が暴発しそうになった。
「は、花嫁って……、あなたの!?」
しかし、ドゥルラナの返答に、リンコは落胆した。
「いいえ、我がイスキア族の長の花嫁として、あなたは呼びだされたのです」
「……長……? 偉い人の? あなたじゃないの?」
「はい。わたしではありません」
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