第2話

 ドゥルラナは自分が暮らす小屋に戻り、部屋の中のこまごまとしたものをすべて片側に寄せた。万が一のために、人よけの呪文を小屋の周り中に張り巡らせて、迂闊に人が寄ってこないように配慮した。一旦集中力が途切れれば失敗する呪いだからだ。何日もかかるかもしれない。そのあいだ、飲まず食わずで呪文を唱えなければならないし、薬草も途切れさせてはいけない。運がよく、大昔に収集した薬草のなかに二回ほど行えるには十分な薬草はあった。


 召喚するために使う薬草の中の一つは貴重なもので、量が少ない。一度で成功できなければ、命を捨てることになる。領土にはすでに生えていない香木だ。他の領土にいけばあるかもしれないが、イスキア族の雄が単独で他の領土に侵入すれば、容赦なく殺されてしまう可能性も否めない。


 その貴重な香木に火をつけて焚く。ゆらりと香ばしい匂いが小屋の内部に行き渡る。他の薬草にも火をつけて煙をいぶす。眠りを誘う煙だが、イスキア族には効かない。呼び出される者は眠りとともにやってくる。十分なわらをいぶされる薬草の中心に敷いた。後はゆっくりと、召喚の呪文を唱えるだけだ。


 他の者ではできない。特殊な能力を持つ、ドゥルラナだからこそできる呪いだ。異界の雌に呼びかけるときは神経を研ぎ澄ます。必ずしも呼び出される雌が、人の形をしているとは限らない。リョダリはそのことを承知しているはずがない。危険を伴うからこそ封印されてきた呪いなのだ。


 ユトラウスと異界をつなぐ糸は無数にある。その糸を一本一本確かめていく。その糸の先に目当ての雌がつながっているかを探っていく。その精査に時間が掛かる。あまりにも姿の違う者を選べば悲劇が起こるだろう。うっかりすれば、部族が滅ぶかもしれない。ドゥルラナは細く長い糸を手繰り寄せては離していった。感覚で見ていく。目で見るのではない。盲目のまま、暗闇の中、糸だけを頼りに探り、気配を確かめていくのだ。


 呪文を唱える声がかすれていく。


 水面に蜘蛛の糸が垂れるような波紋が広がる。目には見えない池が、わらの上にあるのだ。何千もの糸を、一本一本離していく。そのたびに、波紋が広がった。糸の向こうの花嫁は眠っている。眠りが異界との扉を繋ぎやすくする。壁を薄くするのだ。すっと手を伸ばせば、その体を掬うことができるほどに。


 朝も昼も夜も、ドゥルラナは呼びかけ続けた。ユトラウスで何日かかろうと、異界での時間はたった数時間。眠りの狭間はざまに糸を引く。かかった獲物は、ゆらりゆらりと異界の水の中を巡りながら、ユトラウスへと近づいてくる。糸が切れれば、多分異界の獲物は目を覚まさなくなるだろう。そして、異界の狭間で死を迎える。だから、糸は必ず離さなければいけない。目覚めさせるのも責任を伴う。たとえ、狙った獲物が見つかったとしても、慎重に手繰り寄せなければ、糸は切れてしまう。そうすれば、糸の切れた獲物は、異界の狭間で死んでしまうだろう。


 ドゥルラナは何日も呪文を唱え、見えない糸を手繰り続けた。離しては引きを繰り返していくうちに、糸は段々と少なくなっていく。それでも獲物が見つからなければ、リョダリに無駄だったと告げなければならない。そうすれば、即刻ドゥルラナは処刑される。糸が後数本になった時、それまで緩んでいた糸がピンと張り詰めた。


 ドゥルラナは、獲物の行く末を案じる前に安堵で歓喜した。


 その糸以外を手放し、その糸のみをゆっくりと回しながら手繰り寄せていく。くるくると、獲物は異界の狭間を回りながら引き寄せられてくる。眠りが異界の壁を薄くする。糸が切れないように、獲物が異界の奥底に落ちてしまわないように、慎重に呪文を唱えながら、呼びかけた。


「我が声に応じよ、花嫁よ……。呼びだされし花嫁よ……」


 獲物は弱々しく抗った。それでも糸は途切れなかった。よほどの縁があると見える。ドゥルラナは、糸を引き寄せ、片腕を水面に伸ばした。見えない池から、黒い髪がさらさらと流れ落ちてくる。白いおもてが見えた。幼い少女の顔だ。ドゥルラナは少女の腕を取り、呼びかけた。


「来たれ、花嫁よ。召喚に応じし、乙女よ……」


 水面から顔を出した少女が、ほうっと息を吐いたように見えた。




 異界の少女はなかなか目を覚まさなかった。眠り続け、わらに横たわっている。


 ドゥルラナはいぶしていた薬草を片付けた。貴重な香木もあと少しで燃え尽きてしまうところだった。後一回しか使えない貴重な呪いになってしまった。異界の者を呼ぶためと、異界に返すための二回のうち一回を使ってしまった。そこに考えいたって、初めてドゥルラナは少女を改めて見つめた。


 長い黒髪は肩先まで伸び、イスキア族よりも色が白い。見た目はイスキア族の雌にそっくりだった。一回り小柄で、愛玩動物のうさぎのようだった。服装は肌を隠すような布に覆われている。腰巻きではなく、両足を筒で覆っているのだ。見た目では何歳かわからないが、イスキア族の雌の年齢に換算すれば、三百歳ほどか。成人したばかりだろう。ユトラウスの部族は長命だ。三百歳か四百歳で成人し、その前後で発情する。仔をなせる歳になるまではもう少し、二百年ほど先だ。この雌は若すぎるし、何よりも小さい。花嫁にしてしまえば、仔をなした時に死んでしまうかもしれない。しかも、リョダリはわがままで猜疑心が強い。この雌が気に入らなければ、また呼び出すように命じる可能性も否めない。この雌は異界に取り残されたまま、死ぬまで生きることになる。しかも、保護なくユトラウス全域の部族に狙われたまま、放置されるのだ。


 若いと思っていた雌から、花ような馨しい芳香がし始めた。ドゥルラナは驚いた。もうこの雌は発情し始めている。おそらく、ドゥルラナのせいだろう。彼は成熟した雄だ。しかし、つがってはならない運命にある。番ってしまうと、呪いの力が弱くなってしまうからだ。それで、雌から遠ざけられるが、発情を抑える能力もあるため、雌たちの間を行き来できる貴重な雄でもある。


 しかし、目のまえに横たわっている雌の芳香は、他の雌に比べて強かった。ドゥルラナでさえクラクラとした。このままでは他の雄も寄ってくるだろう。争いが起こる可能性もある。ドゥルラナは自分と雌を守るために、雄よけのネックレスを探した。雌に頼まれてよく作るのだ。一つ、赤い石をはめ込んだものを見つけて、雌の首にかけた。


「ううん……」

 雌が高い声で唸った。


 ドゥルラナはビクリと手を離す。起こしてしまうのは可哀そうに感じた。無理に起こして混乱させるのは気の毒に思えたのだ。自然に目をますのを待つことにした。彼は雌が呪いの眠りから目を醒ますまで、そばで横になっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る