第40話「伊原真の追撃」
その日の夕方。
私は頭山と伊原と三人で食事をすることになった。
――転属前に散々面倒かけたんですから、飯と酒ぐらいおごってください。
と頭山が生意気にも言ってきたからだ。
そして、なんとなく予感はしていたが、頭山からメール。
『散々その気にさせたんですから、先輩としてちゃんと後始末して下さい』
それだけだった。
私はやっぱりそうかと、ため息をついた。
――責任ね。
若いふたりが一方的に
確かにケジメをつける必要はあるだろう。
十八時の約束。
待ち合わせ場所に現れた伊原の格好は、袖のないピンクをベースに細かい花模様がついているワンピースだった。
それはやや胸が強調され、そのの下からふんわり広がるような服。そして、化粧も自然な感じ、春よりもやや長めになった髪の毛の効果もあって、正直かわいいと思った。
「変ですか?」
彼女はおずおずと聞いてきた。
「いや、髪伸びたな、と思って」
私はつい、思っていることと別のことを口にした。
それ以上のことを言うと、また彼女を傷つけることになる。
頼もしい後輩だと思う。
彼女はやや過激だが仕事もできる。
やや過激だが性格もいい。
そしてプライベートではこれ。
正直、伊原は素敵な女性だ。
彼氏になった人間は幸せだろう。
いっぽう私は八分丈の綿のベージュのパンツに、半そでのポロシャツという格好だ。
まあ、なかなか不釣合いな格好だと苦笑するしかない。
その夜は
私たちは店に入り、個室に案内された。
予約など段取りは頭山がしていた。
はじめからおふたり様で。
当日予約でもコース料理を頼むことができたので、前菜が数種類出てきた。
「これはイタリア料理とどう違うんだろう?」
と私が軽口をたたく。
それに対し彼女は苦笑していた。
「たぶん、パエリアかパスタかの違いじゃないですか?」
料理は詳しくないのでよくわかりませんが、と。
暗い店内のせいもあるだろう。
彼女はとてもおとなびた感じ、それでいて魅力的な笑顔で答えた。
手に持っていたフォークを置き、紙ナプキンで唇を拭いてから、彼女はよくわからない名前の――お手ごろだった値段のを適当に頼んだ――赤ワインを口に含んだ後、私をじっと見つめた。
「好きです」
私も食事をやめて、フォークを置いた。
「待ってていいですか」
昼と同じく、彼女は瞳を潤ませる。
「それはだめだ」
向かい合ったアヒルを思わせる唇が震えている。
「私みたいなおっさんのために、君の貴重な時間を使っちゃだめなんだよ」
「ボクは使いたいと思っているんです」
じっと私を見つめる潤んだ瞳は弱々しくはない。
むしろ力強い芯のあるものだった。
「私はひとりの女性を大切にできるような人間じゃないんだ、欠陥品なんだよ……病気の事は知っているだろう……それで三和の母親とは別れたんだ……それだけじゃない、根本的に私は人を愛するということができないんだ」
「嘘です」
彼女はいつもと違って静かに、そしていつもと同じく力強く、そう言った。
「嘘じゃない」
私はそんなありふえれた返ししかできなかった。
「欠陥品とか、疾患とか、人を愛せないとか……言い訳じゃないですか」
「言い訳……?」
自分の唇が少し乾いたのがわかる。
「副長は……大切な人がいるのに、目を
私は耐え切れず目をそらしてしまった。
「嘘じゃない……もう、誰かを大切にしようなんて思えないんだ」
彼女は、少しため息をついた。
「嘘じゃない、なんて……ないです」
ないなんて、ない。
「そうじゃないと副長はこんなに人に優しくなれないし、こうやってちゃんとボクをふってくれませんよ」
――そんな荒んだ心を持った人だったらここにいません。
と彼女は呟く。
「よく……わからないんだ」
私の口からでた声は、思ったよりもかすれていた。
「すまない、伊原の気持ちに応えることはできないんだ」
自分で言ってて最低だと思う。
「頭山が言ってました」
彼女は目を伏せた。
「副長と山に行ったときに寝言でうなされては『待ってろ』って言っているって」
待ってろ……か。
「ボクも頭山も心配なんです」
「心配?」
「きっと笠原先生の方が詳しいと思いますが」
彼女はワインを口にする。
「死にたがっているようにしか見えないんです……ここ最近の副長は」
――死にたがっている。
私は戦場に行きたいだけだ。
行ってやり直したいんだ。
臆病者の私を。
でも私は……。
「……それは誤解だ、私はそんなことを……」
私はなぜか、言葉をそこで止めてしまった。
店を出て、彼女をタクシー乗り場まで送ろうとして、しばらく無言で夜の繁華街をふたりで歩いた。
人通りが少ない場所で彼女は立ち止まり、私の方を向いた。
そう思った途端に彼女は私に抱きついてきた。
ヒールのせいだけでなく彼女は私よりも少し背が高い。
間近に彼女のアヒル口が見えた。
「ボクはわがままなんですよ」
――あと、諦めも悪いんですと、濡れた唇が動く。
「気持ちよくふってもらえたし……」
彼女は意識して胸を押し付けているのかもしれない。
ただ、そういうことになれた女性に比べ、とてもぎこちなく、そしてワザとらしい感じがする。
なんとなく、私はそんな伊原の不器用さがあまりにいつも通りなので、少し安心してきた。
余裕ぶって、自分のペースで話しているつもりなのかも知れない。
だが、彼女の顔は羞恥で真っ赤になり、そして体は震えていた。
ただ、すごく火照っているのはわかる。
「死にたがっている副長を見るのは」
「……」
「ボクは嫌です」
「なあ、そんなに、見えるか?」
「ええ」
「どうして」
「とてもさっぱりした笑顔が最近でています」
さっぱりした笑顔。
「思い残すことはないという笑顔」
「そうかな」
彼女は涼しい顔から一変して、くしゃっとした泣き顔になる。
「だって……急に副長が遠くにいってしまったようで、頭山もボクも不安で……いつもの副長に戻ってきて欲しくて……」
――少しでも副長の思い出に残るようなことをすれば、少しでももっと近い存在になれば、未練を残して、戻って来てくれますか。
泣き声のようでもあり、いつも生意気を言って私に頼みごとをするような声でもる。
いや、彼女にはまったく似合わない淫猥な囁きのようにも聞こえた。
ただ、私はその声をこそばゆく感じ、背筋がブルッと震えてしまったことは確かだ。
「もう少しだけ、いっしょにいてもいいですか?」
それが意味することは十分承知している。
断るべきだというのもわかる。
だが私はその場では「わかった」と返事をしてしまった。
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