第39話「野中大尉の決心」

 あのことを話すべきか迷った。

 三和にちゃんと話すべきか……。

 まだ決まったことではない。

 それにまだ話すべきことじゃないし、なんというか、娘に仕事のことを話してもしょうがない気がした。

 しょうがないというのは、興味を持ってもらえないし、理解できないだろう……という意味だ。

 軍隊のことなんて一般人に話してもどうしよもない。

 戦場のことを私が絵里に話せなかったのと同じで。

 話しても伝わらないという諦めと、話して伝えてどうするという思い。

 なんというか、仕方がないことだった。

 もう少しちゃんと決まってから。

 ……転勤になってしまうかもしれない。

 そう伝えればいいと思った。

 もし私が行くことになったら、別のアパートで一人暮らしができるように物権を探せばいい。

 高校一年生でも、ひとりぐらしぐらいできるだろう。

 母親である絵里も県内にいるようだし、大丈夫。

 心配ない。

 ……いや、少し通学に手間がかかっても絵里の所に帰るのが一番かもしれない。

 そんな風に行くことを前提にして考えている自分に驚きつつも、そうなんだろうな、と納得する。

 同期の横尾から連絡があったあの日から、三日後、大隊長に呼ばれ転属の話をされた。

 大隊長はあくまで参謀本部からの『感触取り』であり、この件は組織の要求でもないから断るのは簡単だと説明された。

 そりゃそうだ、横尾の私的なオファーなんだから。

 そんなものを『参謀本部』を持ち出して、一介の中佐が遠隔操作できるんだから、横尾の力はすごいと素直に思った。

 電話でも話をしたが中央勤務も長い分、顔が効くらしい。

 さすが同期トップなだけある。

 何はともあれ大隊長はお前に任せる、ということだった。

 ぶっちゃけ、この学校で私の存在なんて窓際も窓際。

 いてもいなくても変わらないから、私という人材はタダで出せるんだろう。

 大隊長からは返事を一週間以内にしてくれ、と言われた。

 最近はロシア帝国周辺の話題でマスコミも盛んになっていた。

 ソヴィエト連邦の極東軍が西に向かっているとか、極東艦隊も縮小され、西に集中しているという噂。

 国境付近のロシア帝国の州政府がいくつか、ソヴィエトへの編入を望んで紛争が起きつつあるという話もでている。

 とにかく、ひと悶着ありそうな情勢。

 もちろん、東西に分裂した時から数十年間続いている小競り合いみたいの延長的なものなので『ああまたか』という意見もある。

 だが、それにしては軍が動き過ぎている気がする。

 それにポツリポツリとしか入らないが、ソヴィエト内で大規模な粛清があり、連邦政府の顔ぶれがほとんど変わったという話もある。

 それに、この国の動き。

 私たち庶民の知らないところで大きなうねりが起きている可能性は高い。

 やれやれ。

 いくさが近い、のかもしれない。

 そんな事を考えているうちに急に激しい頭痛に襲われた。

 大隊長室から退出して、そのまま逃げるように給湯室に入った。

 ――なあ、今度は置いて行くなよ。

 ――早く片付けないと、どんどん次の便も入ってくるんだ! 早くやってくれ!

 語りかけてくる彼ら。

 ――逃げるな、臆病者。

 ――なんだ、あんた生きていたのか。

 ああ、まだ生きている。

 まだ。

 生きている。

 私は蛇口を目一杯ひねり、滝のように流れる水に頭をつける。

 ――なあ、今度は置いて……。

 ――るな、臆病者……。

 ああ。

 逃げない。

 やっといける機会がきたんだ。

 ――早くやってくれ……。

 ――だ、あんた生きてい……。

 まだ。

 ああ。

 もうすぐいく。

 垂れてきた水が鼻に入り、咳き込みそうになるようなツーンとした感覚に襲われる。

 ああ、もうすぐいく。

 私は蛇口を戻し、静かになったシンクに飛び散った水滴を見た。

 取り出した手ぬぐいで髪を拭き、顔をぬぐう。

 そうしていると、鼻に水が入ったせいでべっとりした粘膜が押し出されるようにして鼻から垂れた。

 耳の奥が膨れる感覚。

 それが痛く感じるぐらい思いっきり鼻をかんで水に流した。

 給湯室で鼻水を垂れ流すなんてマナー違反だよな、と思いつつ最後に手ぬぐいで鼻を拭くと、少しだけ血がついた。

 ふうっと息を吐いた。

 ああ。

 頭痛が消えた。

 いつのまにか頭痛は消えていた。

 私は踵を返し、そのまま大隊長室に戻ることにした。



 中隊長に転属の件を報告した。

 通常は中隊長から私にくるのがすじだが、将校の人事は大隊長が直接やるのが通例だった。

 そういうわけで、私は直属の上司に大隊長室であったことを話した。

「自分が言うことはありません」

 中隊長はそう言って立ち上がる。

「野中さんの意志で決めて頂ければいいと思います……ただ、行ってしまったら、伊原とか頭山とかいった若いものが寂しがるでしょうね」

 と、本人も寂しそうな顔をした。

 この律儀な上司にお世辞だとしても、そう言われたのは嬉しい。

「でも、ぶしつけですが、いち後輩という立場からものを言わせていただくと……野中さんが行けば、兵隊のためになるんじゃないかと思います」

 私の士官学校の後輩にあたることを気にしていつも遠慮がちな中隊長。

 だから、いつもと同じように敬語だった。

 もちろん着任した時は敬語を使わないようにお願いしたことがる。

 だがやめない。

 最近は逆に言い過ぎるはよくないと遠慮して「敬語はやめてください」ということも諦めている。

 彼はお辞儀の敬礼をしてきたので、私はそれを返すようにお辞儀した。

 転属の辞令は数日後にはでるらしい。

 異例のスピードなのだが。

 正式なものが出る前までに、中隊の後輩達には話す必要があると思い、その足で将校室へ向かった。

「転属するかもしれない」

 と将校室で小隊長たちに言うと、彼らはあっけに取られた顔をしていた。

 そして、すぐに頭山は真顔に戻る。

「遠征旅団の……第三混成大隊ですか?」

 カンが良い頭山が間髪を入れずに聞いてきたから「ああ」と言った。

「まだ、正式に決まったわけじゃないが」

 その言葉で将校室の空気が重く変わった。

 他の小隊長も神妙な顔つきになる。

「モスクワ行きですか」

 いつもと違うトーン――とても慎重な言葉とテンポ――で頭山が質問する。

「わからん、ただ可能性はあると思っている……向こうからは何も聞いていない」

 そうだとは言えない。

 すべて水面下の話なのだ。

「本当……ですか?」

 ガタっ。

 机に体をぶつけ、痛がりつつも慌てて立ち上がる伊原。

 いつものアニメ声よりもかすれた感じの声。

「……」

 私がいつものように「そうだ」と言おうとしたが、そのまま固まってしまった。

 兎のように目を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな伊原の顔を見てしまったから。

「……そんな、どうして」

「実戦経験のある将校が欲しいそうだ」

「……だって、まだ……傷が……病気があるじゃないですか」

 伊原は直接的な物言いをする。

「それでも欲しいって」

 私は笑顔を作っていた。

「三和ちゃんはどうするんですか……」

「母親のところに戻ってもらう」

 伊原が詰め寄る。

「断るべきです!」

「組織の……」

 私はなんとなくそこで言葉を止めた。

 きれいごとをこの子達に話したくはなかったから。

 組織の要求ではない。

 このオファーには強制力も何もない。

 別に私がいく必要もない。

 代わりはいくらでもいるはずだ。

 そうだ。

 正直になろう。

「私の意志だ」

 つい、腕を組んでしまう。

「向こうの大隊長が私を欲しいという……それに私も行きたい、だから決まった」

 ……そうだった。

 ああ、そうなんだ。

 私は戦場に行きたい。

 もう一度行ってやり直したい。

 給湯室で気付いたその気持ち。

 やり直したい。

 そんな自分の欲求のために、あの地獄にもう一度身を置きたい。

 だから私はちゃんとみんなに話すことにした。

「まだ早いが……みんなお世話になった、ありがとう」

 私は深々と頭を下げた。

 ……今の表情を誰にも見て欲しくなかったから。

 どんな顔をしているかわからない。

 でも。

 きっと心から軽蔑されるような。

 そんな表情をしているかもしれない。

 私は少し時間が経って、いつもの自分に戻っていることを確かめると、頭を上げた。


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