いいかんじ

あきのななぐさ

第1話

窓の外を景色が流れていく。

明かりが一つ見えるたびに、そこに人の営みを感じる。


近くの明かりは一瞬で過ぎ去り、遠くの明かりはゆっくりと流れる。

瞬きをしている瞬間に、目の前の景色は変わっていく。

だんだん明かりが増えていき、殺風景な駅のホームが目の前に飛び込んでくる。


どこも同じつくり。

同じ色。

ただ違うのは、乗り降りする人の数。


そして、この時間、この駅にもなると、もはや乗る人はいないし、降りる人もまばらだ。

ふと、車内を見渡すと、あれだけいた人は、もうほとんどいなかった。


やがてドアが閉まり、また、景色は流れ出す。

だんだん明るさよりも暗さが視界を占めていく。


見える明かりが少なくなると、自然と視点は目の前のガラスをとらえる。

そこには、さえない表情の俺がいた。


明るい車内に、暗い顔。


「外の世界と真逆だな」

自嘲気味につぶやいた言葉は、誰も聞きはしない。

ただ、俺が聞いているだけだ。


そう、誰も聞いていない。

誰も関心を持っていない。

俺のいう事は、聞く価値もないと言うことだ。


「俺は正しい事を言っただけだ。何が悪い」

誰も聞いていない俺の言葉は、近くの景色のようにすぐ消えていく。

しかし、俺の晴れない気分は、遠くの景色のように、ゆっくりと流れていた。


そう、俺は正しい。

なぜ、それが理解できないんだ。



***


営業三課の全体会議。

四半期に一回の営業報告と戦略会議。


自由に活発な意見を求めるとの議事進行役は、冒頭にそう言っていた。

宣伝部から人事異動でこの部署に配属されてからというもの、この部署のやり方に文句がたくさんあった。


しかし、異動したばかりの俺は、それを言うのをためらわれていた。

だが、その我慢も限界だ。


度重なる足の引っ張り合い。

課長の顔色をうかがう同僚。

自分の価値観を押し付けてくる課長。


どいつもこいつも使えないゴミのような奴らだ。

いや、ゴミならひょっとするとリサイクルできるかもしれない。

こいつらは、ゴミ以下の奴らだ。


こんな奴らと仕事するのはもう限界だ。


宣伝部にいた俺は、この会社のイメージを作ってきた。


『お客様第一、職人気質』


従来のイメージに、さわやかなイメージをくわえることに成功したはずだ。

学生の就職志望の動機を見ればわかる。

確実に、俺はこの会社を作ってきた。


それがどうだ。

この営業三課。


まったく俺の努力が分かっていない。

企業の商品はイメージが重要なんだ。

それを古臭いやり方で、いつまでもちんたらと……。


勢い勇んで臨んだ全体会議。

だが、俺は思い知ってしまった……。

俺は何の力も持っていなかったのだと……。



「ああ? もう一回言ってみなよ、月野君。君のそのさわやかなイメージとやらは、いったいいくら儲かるのだね?」

俺の意見をさえぎる課長の一言。

それで会議は会議ではなくなった。


「君の営業成績、この課で一番下だけど、そのイメージとやらは、どう働いているのかね? 会社は慈善事業じゃないんだ、わかっているのかな?」

完全に人を見下した態度。

会議中にふんぞり返る姿勢はどうなんだ?


「まだ私の場合、二ヶ月しかたっていません。その評価はもう少し待っていただきたいです。それに、今までと同じやり方をしていたのでは、これ以上の発展は望めないでしょう。この会議は、そういう会議ではないのですか?」

営業三課課長、こいつが元凶だ。

こいつのせいで、この課全体が委縮してしまっている。


誰も意見をいう事のない、会議という名の独演会。

それが、この課の全体会議だと聞いていた。


「私は二ヶ月も待ったよ、月野君。君の成績、いってやろうか? 先月よりも、今月の方が悪いんだ。おかしいな。君の言うイメージとやらが働くのなら、先月よりもほんの少しでも伸びてないとおかしいのではないかね」

手元に資料をだしながら話しをつづけている。


「それにね、月野君。君、得意先からずいぶんと文句が出ているの知っているかね? 数字は間違う、頼み事は断る、挙句には、時間で区切って話をする。そりゃ、信頼も得られないだろう。いいかい月野君。わが社は、お客様第一なんだよ?わかってるのかな?」

資料を投げて、再びふんぞり返る。

最初から、俺を狙っていたのか?


周りを見ても誰も視線を合わそうとしない。


「数字を間違ったのは、一度だけです。頼み事は仕事の範囲を超えたこと。時間で区切っているのは、複数の打ち合わせがあったのと、これ以上話しても進展しないから日を改めただけです。先方もそれで納得していただはずです」

とんだ濡れ衣だ。

こんなことで査定を受けたのではたまらない。


「それは君の言い分だろう。でも、得意先のみなさまは、君にそういうイメージを持っているということだ。ああ、大切だね、イメージは。我々も気をつけなくてはならないな。そうだろ? 諸君」

課長の一言で、会議に参加している者は皆頷いていた。


なんだ?この連中。


同僚の小林をみる。

おまえ、俺の言い分知っているだろ?

お前がどうしても出られないと言うから、あの日俺が代わりに打ち合わせに出たんじゃないか。そのために、俺は俺の仕事を切り上げたんだぞ?


しかし、小林は俺を見ようとしなかった。


おい、金田。

おまえの転記ミスで、俺が数字を間違えたことになってるんだぞ?

おまえ、俺に謝ったよな?

なぜ、この場でそれを言わない?


おい、徳田。

あの時お前もいただろう。

あの頼み事は、ライバル社の製品と入れ替えるってやつだろうが。

お前も、俺の行動を支持したじゃないか。

勇気あるなって褒めてたじゃないか。


しかし、どいつもこいつも俺の顔を見ようとしなかった。

何なんだ、この連中……。


それから、何が起こったか覚えていない。

一方的になじられた気がする。


気が付くと、会議は終わっていた。

だれも、俺に声をかけない。

暗い会議室で、俺はいつまでも項垂れていた。



次の日から、俺は課長の標的だった。

明らかに俺のいう事が正しくても、いちいちそれをつぶしてくる。


営業成績は下がる一方。

誰も俺を助けてくれないし、下がった営業成績でまた課長が俺をやり玉に挙げてくる。

悪循環だった。



「俺は正しいことを言っている」

その呟きと共に、見知った光景が過ぎるのを見て、急速に意識を現実に戻す。


「しまった……。乗り過ごした……」

いくら嘆いても、電車は走り始めた以上、止まらない。


「一駅だし、あるこうか……」

次は乗り越さない。

俺は、このことだけを考えていた。



***



「この駅で降りたのは初めてだけど、本当に何もないな……」

俺の家のある駅から、さらに田舎に向かう駅。

その次が終点のこの駅は、駅前にも何もない駅だった。

終点前のこの時間で、この駅から都会方面に行く電車はもうない。

タクシーを拾おうとしたけど、それもいなかった。


それにしても、一応人は住んでいるのだろうが、駅前にコンビニすらないのはどうかと思う。

俺が使っている駅は、駅前に二軒あるのに。

しかも、駅の自販機はどれも売り切れていた。


よくよく考えると、ここは住宅街の為の駅じゃなく、歴史公園の駅だ。

こんな時間に降りる方が少ないのだろう。


初めての駅、初めての場所。

本当なら、もう少し緊張してもいいのかもしれないが、そんな気分にすらないほど落ち込んでいた。

それでも家に帰らなければならない。

帰っても誰もいないけど、明日も仕事に出なければならない。


(本当に?)


頭の中で、そう囁く声が聞こえていた。


バカな話だ。

頭を振って、幻聴をかき消す。

暗い道だが、街灯はある。

線路がるから、方向も分かる。


俺は線路沿いの道を歩き始めた。





歩き始めてどのくらいたったのだろう。

たった一駅がやけに長く感じられた。

疲れた体は、潤いを求める。


しかし、こんなところに自販機があるはずもない。


歴史公園のぐるりと迂回する形で、線路はつづいている。

道もそれに沿って作られていた。


「あー疲れた。のどが渇いた!」

誰もいない道だ。

ちょっとくらい大声で叫んでみてもいいだろう。


そう言いながら、緩やかな弧を描く道を歩いていくと、一軒の明かりが見えてきた。


「赤ちょうちん?」

遠目では居酒屋のような雰囲気。


こんな道で客なんて来るのだろうか?

思わず周囲を見渡す。

街灯がまばらにあるだけの暗い道。

駅からも遠い。


そんな疑問を抱きながらも、俺の足はそこに向かっていた。


何か飲むものくらいあるだろう。

そう思うと、急いでその場所に駆け寄っていた。


『BAR KANJI』

それがその店の名前だった。

しかし、どう見ても赤提灯。


およそバーとは思えない店づくり。

怪しさ満点だったが、のどが渇いてしまっている。

一旦は我慢していたその欲望は、満たされることがわかると、一気に高まっていた。

結局、その誘惑には勝てなかった。


「いらっしゃい、おや、お客さんはじめてですね」

感じのよさそうなマスターが、俺を笑顔で迎えてくれていた。


外観とは違い、内装はおしゃれな雰囲気。


落ち着いた感じと、豪華な雰囲気。

薄暗い照明は決して暗くはなく、テーブルに置かれている色とりどりのロウソクの炎が、揺れる世界を作っている。


ほのかに鼻腔をくすぐる甘い香り。

花とフルーツの共演だ。


そんな空間が俺の目の前に広がっていた。


ただ、一つだけ場違いな掛け軸。

奥の壁にかかっているその掛け軸には、『漢字』とかいてあった。

確かに達筆だが、この場の雰囲気を根こそぎ否定するようなその掛け軸。

そこから目が離せなくなっていた。


「気に入ってもらえましたか」

俺の様子を勘違いしたのか、マスターはとても上機嫌な笑顔を浮かべていた。


いや、そうじゃないんだけど……。

その言葉は、マスターの笑顔には勝てなかった。


残念だ。


そこは見てはいけないものかもしれない。

視界の端にそっと追いやり、俺はこの空間の雰囲気をもう一度味わいなおしていた。



「メニューです」

マスターが広げて渡してくれたその手帳のようなメニューを見て、一気に脱力感に襲われた。


いやいや、これはないだろう。

ここ、バーだろ?


何なんだ、このメニュー。

『正:五百円』

『政:千円』

他にも、いろいろな漢字に値段が付いている。


しかも、その上には、『十分に味わってください』と書かれてある。

見上げると、マスターはあの笑顔で俺を見ていた。


「マスター、ここってバーだよね?」

尋ねずにはいられなかった。


「ええ、そうですよ」

相変わらず、グラスを磨きながら、マスターは笑顔だ。


「なんかこれ、通常のメニューと違うんだけど……」

メニューを見せながら、俺は尋ねる。

ただ、この『正』という字には、頼んでみたいと思う気持ちもあった。


「ええ、この店は、お客様の心理状態に合わせたものをお出しするようにしてますので、気になった漢字を選んでいただければ、十分ご満足のいく逸品をご用意いたします」

自信あふれるマスターの表情。


まあ、いいか。

話のタネにもなるかもしれない。

まずかったら、水だけもらって帰るとしよう。


五百円程度なら、この雰囲気を味わえただけでも、良しとしよう。


それに、この先、ここしか店はないだろう。

まだ、歩かないといけないだろうし……。

なにより、何となくこの漢字が気になっている。


「じゃあ、マスターこの『正』で」

メニューを指さし、マスターに注文する。


ゆっくりと頷いたマスターは、しっかりカクテルを作っていた。


まあ、一種のパフォーマンスかな。


この店の名前も『KANJI』だったし。

『和』のテイストを織り込んだと思えば、それはそれで趣があるのかもしれない。

俺の知らないカクテル言葉なのかもしれないしな。


俺には少し理解しかねる部分もあるけど……。

そっと掛け軸をみると、少し発光していた。


何かの演出か?

そう思う俺の目の前に出された一杯のカクテル。

その魅力に目を奪われていた。


「どうぞ」

マスターの言葉に、思わずそれを凝視した。


なんだこれ、こんなの見たことないぞ?


俺は決して酒を好んで飲むわけじゃない。

ただ、付き合いで色んな店のカクテルは知っているつもりだった。


琥珀色の液体は、ウイスキーをベースにしているのかもしれない。

しかし、その淵には白い粉がふってある。

塩?砂糖か……。


中に沈んでいる氷の中央には、フルーツトマトのような赤い果実。

あれはなんだ?

興味を駆られて、そのグラスを持ち、香りを楽しんだ。


揮発するアルコールにのせられて、頭の奥にまで届くような刺激感。

かつてない感覚に、俺の手はそれを口に運ぶ。


一口、舌の上で踊らせるように味わってみた。


「うまい」

そう言わずにはいられなかった。


口いっぱいに広がる甘さと苦さ。

後からやってくる清涼感はなんだろうか?

喉をやけるような刺激感と共に、やんわりとつつむような味わいがやってくる。


喉も乾いていたこともあり、俺は一気に残りを飲み干していた。



***



「おい、おい」

脇腹を小突かれるような感覚で、俺の意識は覚醒した。


「どこだ?ここ」

目の前に広がる光景に、ここがどこかわからなくなった。

急いで周りの状況を確認する。


前の方では、偉そうに話す人間がいる。

残念ながら、よく聞き取れない。

ただ、昔の鎧のようなものをつけている。

あれはどこかで見たような……。


そうだ、兵馬俑の兵士だ。

周囲を見ると、同じ格好をしている。


そして俺もその恰好をしていた。


なんじゃこりゃ?

混乱する頭の隅で、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。

たしか、バーで飲んでたはず。


そこまではあったが、そこからはなかった。


「おい、隊長が見てる、ちゃんと聞いとけ」

さっき小突いた奴だろう。

確かに目の前の隊長らしき人物は、俺の方をにらんでる。


何がなんだかさっぱりわからん。


状況把握するためにも、隊長の話を聞くことにした。


しかし、大半が訳の分からないものだった。

何とかの神がどうとか。

神の裁きがどうかとか。

ただ、断片的には理解できた。


眼下に見える城壁に囲まれた街のようなもの。

あそこには、この人たちと違う神を崇めているらしい。


邪神がどうのとか言ってたっけ。

要するに、自分の神とは違うから攻めるのだということだった。


なんでそんなことで攻めるのかわからない。

信じる物は違ってもいいじゃないか。

まずは話し合いで。

折り合いがつかなければ、折り合いがつくようにすればいい。


そんなことを考えていたけど、全体に攻撃命令が出たようだった。

押し出されるように、俺もその街に向かっていた。



何なんだ……。

目の前で、戦闘が繰り広げられている。


城壁を上る人たち。

それを阻止する人たち。


弓矢で狙う城兵と、それを木の束で防ぐ攻める側の兵士たち。


怒鳴り声と狂気が交差している。


矢が飛び交うなか、攻める兵士が一人また一人と倒れていく。

俺の周りにも、矢が何本も刺さっていた。


しかし、中から手引きがあったのか、街の門が徐々にあいていく。

殺到する攻める側の人間たち。

いつしか矢も飛んでこなくなっていた。


「ほら、お前も突撃だ。ボーとしていると見方から殺されるぞ」

呆然と立ち尽くす俺の頭を、味方らしい兵士が声をかけて走り出していた。


冗談じゃない。


こんなことで死んでたまるか。


ゆっくりと俺はその街に入っていった。





中は焼けた臭いと、悲鳴、血の匂いであふれていた。

まだ焼けている住居もある。

道は死体であふれていた。


なんだ?

何で俺はこんなところにいるんだ?


これはなんだ?

夢か?

俺は夢を見ているのか?


想いっきり、頬をつねって見ても、痛さだけが残っている。


夢じゃないんだ……。


何なんだ……。

理解できない頭の中で、誰かが俺を呼んでいた。


(こっちだよ)

その声に導かれるように、おれは路地の奥に進んでいた。





俺の眼目の前で少年と少女が互いに体を寄せ合ってうずくまっていた。

目の前には一人の兵士。

ゆっくりと剣を持ち上げ、何やら少年たちに話しかけているようだった。


何している?

相手は子供だろう?

俺は思わず駆け出していた。



「ダメだ!」

そう叫びながら剣を抜く。

振り下ろされた剣は、確実に少年をとらえている。


「間に合え!」

そう叫びながら、抜き放った剣を相手の剣にぶつける。

けたたましい金属音と共に、兵士の剣ははじかれた。


「まにあった」

思わずそう言わずにはいられなかった。


意外な横槍に、距離を取る兵士。

少年と少女をかばうように、俺はその前に立っていた。


でも、なにしてんだ? 俺。


全く訳が分からない。

それは、相手も同じようだった。


苛立ったように、兜を脱ぎ捨てたそいつの顔は、いつも見慣れた顔だった。


「お前は何を考えている。そいつらは邪教の子供。唯一神の子供である我々は、こいつらに正しさを教えなくてはいけない。そいつらは今も邪神に祈りをささげている。正しい我々の神がそれを許すはずがないだろう。だから、その体を供物にするんだ。そしてこいつらは俺たちの正しさを理解するだろう」

俺の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。


再び少年たちに向けて、剣を突き出す俺に、何とか体当たりで阻止する。


俺の行動が分からない。

一体何がしたいんだ、俺は?


「お前は何がしたい。正しいことをするのに、なぜ邪魔する。お前も正されたいのか?」

狂ってる……。

自分の正しさを相手に要求する。

そのためには命をとることにもためらいがないだと?


全く理解できなかった。

標的を俺に変えた俺は、俺に対して剣を振るってきた。

俺はただ、俺の剣を打ち返すことしかできない。

壁際に押されつつ、俺は俺の声を聞いた。


「お前もここにいるんだ、正しいことをするためにここにいる……」

鈍い音と共に、目の前で崩れ落ちる俺。


そして、目の前には、少年が血の付いた石を持って立っていた。


「邪教徒め」

少年は崩れ落ちた俺の剣を拾って、俺に切りかかってきた。


「やめろ、俺はお前と争う理由がない」

必死に呼びかけるも、少年はただ邪教徒という言葉しか発してこなかった。

防戦一方の俺に対して、少年は俺を殺そうと剣を繰り出す。


なんなんだ。

俺はいったい何をしているんだ。

自問する俺の頭に、その声は再び俺に語りかけていた。


(俺たちは正しい)


少年が邪教徒といいながら俺の脇腹を刺した時、勝利を確信したような少年の言葉を聞き逃さなかった。


「神よ、僕の正しさが証明されました」


痛みと共に、俺の中で何かが外れていた。


気が付くと、少年の首は向こうの方で転がっている。

血まみれの俺は、思わず剣を落としていた。


俺がやったのか?

少年はまだ十歳かそこらだろう。

そんな子供の命を、俺はこの手で奪ったのか?

自らの罪の意識に、俺は跪いていた。


両手は血に染まっている。


俺が殺したのか……。


「なんてこ……」

俺の言葉はその剣で中断されてしまった。


喉から暑いものがこみ上げてくる。

ふと下を見ると、胸には剣先が見えていた。


ああ、刺されたのか……。

急速に意識がなくなる時に、俺はその声を聞いていた。


愛らしい声とともに、その言葉は俺の耳からついて離れなかった。


「神よ、私の正しさが証明されました」



***



「お客さん」

誰かが呼ぶ声がして、一気に目を覚ました。


たしか、俺は死んだはず……。

ここはあの世なのか?


慌ててあたりを見渡すと、あの掛け軸が目に入った。


「大丈夫ですか? お客さん」

心配そうなマスターの声に、俺は思わず時計を見た。


まだ、五分もたっていない。

カクテルの氷もそのままだ。


なんだ、夢だったんだ……。

それにしても不思議な夢だった。


「夢でも見られましたか?」

マスターのその言葉に、俺はかなり驚いた。

そして、俺自身もその答えを返している事にも驚いていた。


「ああ、不思議な夢を見たよ」

本当に不思議な夢だった。


でも、正しいということが、何となくわかる気がしていた。

正しさというのは、人それぞれにある。

それを振りかざしている以上、争いは起こるのだということを。


「たまに、お客さんのような方がいるんですよ」

マスターは楽しそうに笑っていた。


信じられないだろう。

信じてほしいとも思わなかった。


そんな俺を見て、マスターは再びメニュー表を開いて見せた。


「お客さんの選んだ『正』という漢字。これは国を目指して、足を進めることからできた漢字です」

マスターが指し示したその文字が、夢の出来事と重なっていく。


「国を目指して足を進めるのは侵略ですね、その国を力でねじ伏せて、言うことを聞かす。すなわち、こちらのいう事に正すという意味なんですよ」

にっこりと笑いながら告げる漢字の成り立ち。

それは俺が理解したことに似ていた。


「当然争いが起こるでしょうね。だから、正しいという漢字は、もともとは勝利したものが使えるものだったんですよ」

にっこりほほ笑むマスターは、俺の心を見通したかのようだった。


正しいか、正しくないかで争うと、勝利したものが正しいものになる。

それが、歴史というものだ。


そして、正しさとは人それぞれに存在するものだ。

だからぶつけ合うと、争わなくてはならない。


正しさは、証明するためにあるのではなく、己の心にあればいいのだ。

そして、それを証明したければ、力を持つ必要がある。

まずは正しいか正しくないかでこだわるよりも、自分の考えで最善を尽くす。

相手の正しさという価値観についても認める。

そして、自分の正しさを誇れるような強さを身につける。


まずはそこから始めよう。

思わず握りしめた拳をまえに、にっこりほほ笑むマスターは、優しく俺に問いかけてきた。


「どうでしたか? 『正』はお口に合いましたか?」

すっかり喉の渇きも癒え、気分も晴れやかになった。

いわゆる爽快な気分だ。


俺はにっこりほほ笑むと、掛け軸をみてマスターに答えた。


「ああ、いいかんじだったよ」

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