最終話 横車を押す

「助けて! 助けてくれ!」思わず、梅平は叫んだ。「助けてくれえーっ!」

 警官は、しばらくして視線をCDに戻すと、ふうーっ、と息を吐いた後、歩き出した。

 そして、ディスクを、近くのごみ箱に捨てた。

(……え?)

 警官は、そのまま、交番の近くに停めてあった自転車に乗ると、いずこへと去ってしまった。

「……は、ははは……」

(あの女にしろ、あの警官にしろ……人間不信になっちまいそうだ……)

 しばらくの間、シートに凭れ、虚ろに笑っていた。再び、脱出手段を考える元気が出てきたのは、数十分が経ってからだった。

(ああもう……どうやったら外に出られるんだ……)ぼんやりと、リムジンの周囲を見回す。(こんな、閑静そうな住宅街じゃなあ……通行人も、あのむかつく女以外、全然いねえし。もっと人通りの多い場所だったらなあ……この車、動かせればいいんだが……)

 しかし、運転席・助手席と客席を繋ぐのがこの小さな穴しかない以上、どうやったって運転することはできない。

(……いや、待てよ? 「運転することはできない」……たしかにそうだが、しかし……)

 梅平は、しばらくの間、考えた。

 そして、あるアイデアを思いついた。

(そうだ! 運転はできなくても……リムジンを動かすことはできる! ここは坂道じゃないか……サイドブレーキを下ろせば、坂を下っていくはずだ!)

 そうと決まれば、さっそく行動だ。梅平はデジタルカメラの画像を見返した。

(サイドブレーキはレバータイプで、運転席と助手席の間にあるようだ……今は、床に対して垂直になっている。これを、床に対して平行になるまで倒せば、サイドブレーキは解除されるはずだ……よし!)

 梅平は、レバーのあるであろう場所めがけて、イヤホンの結びつけた靴を落とした。がん、と音がする。

 デジタルカメラで、運転席を撮影した。サイドブレーキは、少しだけ斜めになっていた。

 その後も梅平は、靴を落とし続けた。その回数は、数十に及んだ。

(ちくしょう……そろそろ解除されないか、サイドブレーキ……)

 次でレバーが下りないようなら、もう一度デジタルカメラで撮影してみよう。そう考え、イヤホンを手繰り寄せ、靴を引っ張り上げた。

 ぶち、と音がして、コードがちぎれた。

「うわっ……!」

 そのまま、靴は落下する。一秒も経たないうちに、がん、という音がした。

 途端に、リムジンがゆっくりと動き始めた。坂を下り始める。

(や……やったっ!)

 リアウインドウから、進行方向を眺める。ちょうど、後ろから軽自動車が上ってくるところだった。

(このまま、ぶつかれば……!)

 しかし、それは叶わなかった。軽自動車は、ひょい、とリムジンを避け、何事もなかったかのように坂を上っていった。

 ちくしょう、と呟き、顔を伏せる。車は、坂を下りた後、平坦な道をしばらく慣性で走ってから、停止した。

(いや……でもこれで、あの閑静そうな住宅街から脱出することには成功し──)

 その時、鼓膜に飛び込んできた、踏切の、かんかんかんかん、という音が、梅平の思考を遮った。

(──えっ?)

 顔を上げ、今、リムジンがどこにいるのか、を把握する。

 車は、踏切の上で停まっていた。奥と手前の二本ある線路のうち、奥のほうの上に、客席部分が位置している。

(ま……まずい)

 このままでは、客席のちょうどど真ん中に、電車が衝突してしまう。

(だ、誰か──助けてくれる人はいないかっ?!)

 梅平はリムジンの周囲を見回した。しかし、誰もいなかった。

 遮断機の棒が下りてくる。もっとも、奥のほうは、リムジンに引っ掛かり、下りきらない。

(せ──せめて、手前だ! 手前のほうの線路を、通ってくれっ!)梅平は手を組み、そう祈った。

 やがて、線路の向こう、リムジンの左のほうから、電車が姿を現した。

 電車は、奥のほうの線路を走っていた。

 ちくしょう、と叫び、電車が来るのとは反対側の壁に、へばりつく。できるだけ、運転席・助手席に近づくようにした。破片が散らばり、怪我をしないよう、ロックグラスやシャンパングラスはすべて、運転席・助手席の中に放り込んだ。

(落、落ち着け、少なくとも運転士はこちらに気づくはずだから、直前でブレーキをかけてくれるはずだ……)

 梅平はそう考えた。電車はぐんぐん近づいてくる。しかし、いっこうに減速する様子を見せなかった。

(なっ、なんだ、どういうことだ──)

 梅平は運転士を注視した。彼は目を瞑り、口を半開きにして、そこから涎を垂らしていた。

「クソが──寝てやがるっ!」

 そう彼が絶叫した次の瞬間、電車はトップスピードでリムジンに激突した。

 形容しがたい轟音が鼓膜を劈いた。車体が、ぐにゃり、と歪み、壁が列車に押されて膨らんだ。梅平は宙に浮いた。彼だけでなく、リムジンも宙に浮いていた。

 リムジンはその衝撃で、回転し始めた。遠心力で、梅平は前方に転がりそうになるが、シートを掴んで、必死に耐える。幸いにも、回転は四分の一強で止まった。

「うぐぐ……」

 梅平は呻きながら、上半身を起こした。体のあちこちを触る。幸い、怪我の類いはしていないようだった。

 ウインドウに目を遣る。ガラスは、電車の激突した衝撃で、粉々に砕け散っていた。

 梅平は、残った破片で怪我をしないよう、慎重に枠を掴むと、その窓をくぐった。

(や……やっと脱出できた……)

 全身から力が抜ける。砂利に構わず、その場にへたり込んだ。真っ青な顔の運転士が電車から降りてきて、梅平に近づいた。

「あっあの。あの。その」見るからに慌てている。「大丈夫ですか。大丈夫ですか」

「ああ。大丈夫だ」

「今すぐあの。警察。警察を呼びますんで。いや救急車か」

「救急車は要らないよ。俺は怪我をしていないから。……そうだ。一つだけ訊かせてくれ」

「は、はい」

「ここはどこだ? 何という都道府県の、何という市町村だ?」

「ここは、ええと……」運転手はしばらく辺りを見回してから言った。「茨城県白彩(しらあや)町です」

「茨城い?」梅平は語尾を上げた。「茨城って……千葉県のラジオ局の電波が拾えたんだぞ?」

「ここは千葉県に近いんで、ときどき拾えるらしいです」

「それじゃあ……あのヘリは?」梅平は、未だに遠くを飛んでいるテレビ局のヘリコプターを指さした。

「ああ。あれですか。何でも、ドラマの撮影らしいですよ」


   〈了〉

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監獄車輛脱出劇 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t

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