第三話 泥車瓦狗
梅平は、フィーチャーホンを取り出した。「110」と入力し、発信する。
しばらくの間、プルルルル、という音が鳴った後、繋がった。「こちら110番です。事故ですか? 事件ですか?」
「事件です! あの、実は──」
ぶちり、と音がした。携帯電話の画面を見る。
真っ暗になっていた。
センターキーを連打する。何の反応もない。
「クソっ……電池、切れやがったっ!」
梅平はそう絶叫した。携帯電話を、リアウインドウめがけて投げつける。がん、と音がして窓に命中し、画面が割れ、破片が少しばかり飛び散った。
L字型のシートに、だらしなく凭れる。「ああ、ちくしょう……どこかに、俺を助けてくれる女神はいねえものか……」と呟いた。
窓の外を、坂の下から、女性が通りかかった。壮年の、買い物帰りの主婦然とした女性だった。
梅平は跳び起きた。そのまま、ウインドウを、どんどんどんどん、と両手で素早く殴りつける。
「助けて! 助けてくれ! おーい! 助けてくれ!」
女性は、びくっ、と肩を震わせた後、気味悪そうにこちらに目を遣った。窓は当然、誘拐用に、スモークガラスになっているだろうから、自分の姿が見えないのは仕方ないかもしれない。しかし、「助けて」という言葉は、聞こえていないのだろうか。
(誘拐したやつが目覚めて、助けを求めても、外に聞こえないようになっているのか……? そうだ、運転席の窓は数ミリ空いていたはずだ!)
梅平は、客席と運転席・助手席を繋ぐ穴に顔を押しつけると、窓の隙間に向かい、「助けてくれ」と繰り返し絶叫した。足で窓を蹴りつけ、大きい音を出し続けることも忘れない。
女性は、運転席の隣に来た。窓越しに、目が合う。
「助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれえーっ! おおーいっ!」
梅平は、ここぞとばかりに叫んだ。
そして、女性は、笑った。
ふっ、と、鼻で笑ったのだ。
そのまま、坂の上へと、歩いて去ってしまった。
(……はっ?)
あまりの展開に、呆然とする。数秒後、がん、と、窓を殴りつけた。
「ちくしょうっ!」絶叫する。「あの女、俺を嘲笑いやがったっ!」
悔しさのあまり、その後も窓を殴り続けた。冷静になり、殴るのを終えるころには、親指以外の指が真っ赤に腫れていた。
(クソが……自力で脱出するしかねえってことか……)
しかし、どうやって外に出ればいいのか。窓を破壊できない以上、他人に助けてもらうしかない。
(音楽を最大音量で鳴らして、近所の住民に110番してもらうとか……? いや、このリムジンは防音仕様みたいだし、唯一空いている窓も運転席のドアの二ミリのみ……あまり外には聞こえないだろう……それでも音量を上げようとすると、先に俺の鼓膜が破れちまいそうだ……)
何か、車外に向けて音を鳴らせればいいのに──そこまで考えたところで、はっ、と閃いた。
(そうだ──クラクションだっ! クラクションを鳴らし続ければいいんだっ!)
ハンドルには、腕を伸ばしても届かない。しかし、直接自分の手でボタンを押さなくとも、音を出す方法はある。
(運転手だ──運転手の体を、ステアリングに倒れ込ませ、クラクションを鳴らさせればいい……鳴らし続ければ、いつかは近所の住民が110番し、警察が来てくれるだろう)
ドライバーの身は、前傾姿勢でシートベルトに引っ掛かっている。ベルトを外せば、そのままハンドルに倒れ込むはずだ。
梅平は、デジタルカメラの画像を確認した。ベルトは、運転席のシートの左横についている赤いボタンを上から垂直に押せば、外れる仕組みのようだった。
(よし──後は、どうやって押すかだが……)
梅平はまず、窓を殴って割れた瓶の欠片を集めると、それを靴に詰め、重さを確保した。次に、サインペンのフタを取ると、剥がしたガムテープを使って、シューズの裏に、垂直に貼りつけた。
(これで、ボタンを押し込めるはずだ)
梅平は、シートベルトのボタンがあるであろう場所めがけて、靴を勢いよく下ろした。しかし、序盤にやった釣りとは違い、的が小さいせいか、なかなか成功しなかった。
(ええい、ここかっ?! ……違うか……それじゃあ、ここかっ?!)
そう、心の中で叫んで、思い切り靴を下ろした。
カチリ、と音がした。
続いて、スルスルスル、という音もした。
梅平は運転手を凝視した。ゆっくりと、ハンドルに向かって倒れ込む。
「よっしゃ!」彼はガッツポーズをした。
次の瞬間、がくん、と運転手の体が右に傾いた。シートベルトに引っ掛かったに違いなかった。
そして、そのまま、倒れ込んだ。彼の頭は、クラクションの右隣に命中した。
「はああっ?! アリかよそんなのっ!」
梅平は、抗議するかのような大声を出した。当然、運転手の頭は動かない。
「……クソっ!」
彼は、客席と運転席・助手席を繋ぐ穴の、右横を殴った。どしん、という音がした。
(次の手を考えねえと……なんとか、外と連絡を取られればいいんだけどな……)
このリムジンは密室だ。連絡を取るには、どうしたって、電波や音といった、非物体に頼らざるを得ない。
(……いや、密室じゃねえ)
正確には、運転席のドアの窓が、二ミリほど、空いている。
(しかし、二ミリじゃなあ……紙なんてもってねえし……)
何か、薄っぺらいものはないだろうか。梅平はそう考え、きょろきょろと車内を見回した。
オーディオが目に入った。
(そうかっ! あいつがあるということは、もしかして……!)
梅平はオーディオに近づくと、「取り出し」と書かれたボタンを押した。
機械音がして、中からゆっくりとCDが出てきた。水戸雲雀の歌のものだ。
(これなら、窓の隙間を通れる!)
梅平はサインペンを取ると、CDの表裏に、「リムジンに閉じ込められている」「助けてほしい」という旨の文章を書いた。女子高生から剥がしたガムテープを使い、それをペンの、持ち手の先端にくっつける。
彼は、ペンのインク部分を持つと、腕を、客席と運転席・助手席を繋ぐ穴から、窓の隙間めがけて目一杯伸ばした。何とか、ディスクを半分ちょっと、くぐらせることに成功する。
サインペンを、激しく上下に動かした。CDは取れ、窓の外に落ちた。
(よっしゃっ!)
さらに僥倖なことには、そのままころころと、坂道を転がり始めた。
「よおっしゃあっ! 行け! 行けえっ!」
ころころころころ、坂道を転がって行く。アスファルトが綺麗に舗装されているのが幸いした。CDはそのまま進んでいき、ついには坂の終点に到達した。
さらにその後も、しばらく転がった後、ぱたん、と倒れる。
それは、交番の前だった。
「やった! やったあっ!」嬉しさのあまり、シートを殴った。
次の瞬間、梅平の想いに呼応するかのように、交番から警官が出てきた。そして、足下に落ちているCDに気づき、拾う。
(読んでくれ! 読んでくれっ……!)
警官はしばらくの間、CDを眺めていた。そして、坂の上に目を遣った。
リムジンの存在に、気づいたようだった。
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