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大陸から竜が次第に姿を消したのは、その後の事だった。はじめは、人里に下りて来なくなっただけかと思われていた竜は、森の奥へ分け入っても、棲みからしき洞穴をのぞき込んでも見当たらず、五年も経つ頃には、竜を見かけた、という話さえ酒場の肴にのぼらなくなった。
竜退治で生計を立てていた
竜という共通の敵が無くなった事で、人はまた旧世界のように、互いに相争う道へと進んで行ったのである。
それでも、東の天津地では戦乱の気配もまだ遠く、平穏な空気が流れている。
五年で慣れた下駄履き着物姿で、すっかり整髪され、無精髭も毎日剃ってもらっているライルは、
朱音の娘は千草によく似て、柔和な顔立ちをしている。産まれた時、是非名前をつけて欲しいと朱音に頼まれ、ライルは慣れぬ東国の辞書を引いた挙句、『
「かあさまー、おばさまー、おじさまー、じいじー! はやくうー!」
天音は父親似の一見弱々しげな外見とは裏腹に、やんちゃですぐに大人達を追い越して駆け出して行っては派手にすっ転んで、皆をはらはらさせる。しかし本人は大した事でないかのように身を起こして、ぺろりと舌を出してみせるのだ。今もぶんぶんと元気に手を振っている。ライルは苦笑しながら、背に負って来た呉座を担ぎ直し、凪音達と共に天音の後を追った。
ライルは結局、西方に帰らなかった。『
そんな抜け殻になった彼の傍に、凪音は根気強く居続け、やがてライルが立ち直ると、『
いつかの晩餐で誰かが歌った、『どこかの姫様の愛を得られりゃ完成形』は、見事果たされたのである。
だが、ただ飯食らいとして天津地に居座る訳にはいかない。ライルはそれまでの狩竜士としての腕を買われ、武官として天部の重職に就いた。とはいえ、西方はまだ天津地までは攻めてこないので、もっぱら、国内の盗賊を退治したり、ちょっとした争い事を収めに出向いたりと、今までの命懸けの戦いとはかなり縁遠い場所にいる。
だから、今日のように呑気に花見などにも出かけられるのだ。
「ここ! ここがいい! おじさま、ござをしいて!」
天音が指し示した場所は、大きな桜の下だった。上を向けば見事な染井吉野が盛りを迎え、振り向けば視界が開けて、天部の街を一望できる。
ライルが呉座を敷くと、女達が持って来た弁当を広げる。待ち切れないとばかりに天音がおにぎりにかぶりつき、「こーれ」と母に小突かれた。
ライルと轟也は杯を持ち、凪音が酒を注いでくれる。杯を打ち合わせた時、丁度はらりと桜の花が、ライルの杯に舞い降りた。
「おお、桜酒だな。風流だ」
孫が生まれてからというものすっかり好々爺になってしまった轟也が、相好を崩してしみじみと呟き、杯を干す。自らも酒を口にしながら、ライルはいつか聞いた声を思い出した。
『桜は話にしか聞いた事が無いの』
彼女は今、どこにいるだろうか。遙か高みからこの満開の桜を見ているだろうか。
「あー!」
思考を断ち切ったのは、天音のはしゃいだ声だった。
「おおきなとりさーん!」
弾かれたように凪音が、朱音が、轟也が顔を上げる。一拍遅れてライルも空を見上げ、そしてその目をみはった。
薄雲たなびく春の空。その中を泳ぐように、白い巨大鳥――いや、竜だ――がゆっくりと翼をはためかせて飛んでいる。
「桜は見られたな」
にやりと笑いを浮かべて、ライルは杯の中身をあおる。すっかり身に馴染んだ天津地の酒はじんわりと染み渡る。
人間の欲は果てしない。それでも神の竜は、恵みの雨を降らせ、肥沃な土壌を提供し、柔らかい風を吹かせ、命の灯火を照らしてゆくのだろう。
とんだ災難を経験したライルという人間がこの世を去り、『狩竜士』という言葉さえ忘れられた、遠い未来でも。
きっと、彼女は。
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