4-9

 血を噴いて、『禍土あまつち』の身体がゆっくりとのけぞってゆく中、朱音あやねの高い悲鳴が鼓膜を叩く。突然起きた想定外の事態に、凪音なぎねも、リルも、ライルでさえ、その場から動く事を忘れてしまった。

 だが、いち早く立ち直ったのはやはり精神的に一番成熟しているリルだった。矢の飛んで来た方向を睨み、牙を見せて叫ぶ。

「『闇樹あんじゅ』!」

 その言葉につられてライルと凪音もようやく現実に立ち返る。近くの岩場を見上げれば、悠然と片手を突き出したままの状態で、昨夜の白髪の少年が、琥珀色の瞳を愉快げに細めて立っていた。

「言っただろう、『真白まつくも』?」

『闇樹』はにたり、と口を三日月形に象ると、その場から消えたと思った一瞬後、あおのけに倒れた『禍土』の隣に移動していた。

「僕は君の為なら何でもできる、って」

 そうして、呆然自失している朱音を突き飛ばして尻餅をつかせると、『禍土』の額に刺さった黒枝の矢に手をかけ、一旦ぐっと押し込んだ後、勢い良く引き抜く。その先には、黄色に輝く石が一緒について来た。

「「待て!」」

 ライルとリルが同時に叫ぶ隙もあらばこそ、『闇樹』はにたりとこちらに悪しき笑みを見せた後、石を宙に放り投げ、そのまま口の中へ。そうして、ごくりと呑み込んだ。『禍土』の力を取り込んだのだ、と理解するのに、間は要らなかった。

『闇樹』が顔を伏せ、肩を細かく震わせる。泣いているのかと勘違いしそうだったが、その考えは数秒後に根底から否定された。

「ふふふふふ……あはははは!」

 少年は、空を仰いだかと思うと、耳障りな高笑いを響かせたのである。

「美味しい、美味しいよ、『真白』! 君の力の味は!」

 狂っているにもほどがある。ライルの背筋をぞっと怖気がはい上がる。頭を振り、忍び寄る恐怖を無理矢理打ち消して、ライルは剣を構える先を『闇樹』に切り替えた。

 その気配に気づいた『闇樹』が振り返る。その顔には、嫉妬と侮蔑と憤怒といった負の感情が、複雑な渦を巻いて同居していた。

「僕と『真白』の邪魔をする人間。まずはお前から潰してやろうか」

「か」を言い切るか言い切らないかのタイミングで、ライルの身体にとんでもない衝撃が訪れた。真正面から分厚い岩盤をぶつけられたような打撃だった。『溶炎ようえん』の尻尾にぶっ飛ばされた時とは比べ物にならぬ力強さに、歯が折れて宙を舞い、鼻血を噴く。あばらの二、三本は軽く折れただろう、呼吸が苦しい。視界は真っ暗で耳鳴りがして聴覚も鈍い。誰かが名前を呼んでいる気がするのだが、凪音か、リルか。それさえわからない。

 永遠に続くかと思われた浮遊感の後、勢いよく身体が地面に叩きつけられて、再び激痛が全身を駆け巡る。この身がばらばらになってしまったかのように感覚が遠くて、指一本動かす事すらかなわない。

 ようやくぼやけながらも見えて来た目で、この衝撃の正体を見届けようと必死に焦点を合わせる。そこに飛び込んで来た光景に、飛びかけていたライルの意識は急速に現実に引き戻され、瞠目した。

 黒い大樹がいきなりそこに生えたのかと思った。鱗も皮膚も無く、血肉や内臓さえ存在しない。

『闇樹』

 まさにその名に相応しい、黒い骨格を持つ巨大竜だった。少年の面影は最早無く、落ちくぼんだ眼窩の奥で光る琥珀色だけが、名残を帯びている。

『弱い弱い、人間』

 声帯も無いのに、『闇樹』の声が響く。いや、竜が喋る事自体が異常事態だ。

『苦しいだろう? とどめを刺してあげるよ。ああ、僕って優しいね』

 それ一本一本が太い幹のような指を五本持つ手が持ち上げられる。これにもう一度殴られたら、今度こそ、川の向こうで亡き養父が手を振っている姿がまた見えるだろう。だが、ぼろぼろの身体は言う事を聞かない。諦めに目を閉じるが、しかし、『闇樹』の攻撃はいつまで経っても降って来なかった。事態を把握しようと再び目を開け、そして驚きにとらわれる。

『「真白」……!』

『闇樹』が苛立たしげに唸る、その視線の先には、薄桃色髪の、黒ワンピースをまとった小柄な少女。リルが、精一杯腕を広げて、ライルをかばうように立っていた。

「貴様の狙いはわらわひとりじゃろうが。わらわの狩竜奴かりゅうどに手を出さないでもらおうか」

『闇樹』が苛立たしげに唸る。「わらわの狩竜奴」という、『真白』に自分以外の所有者がいる表現が許せないのだろう。その憤懣には取り合わず、リルは続ける。

「わらわひとりを連れてゆく事で満足するなら、好きにするがええ。だが、他人に手を下す事は許さぬ」

「リル殿!?」凪音の悲鳴じみた声が耳に突き刺さる。「何をおっしゃる!?」

「いいんじゃよ」

 こちらに背を向けたリルが今、どういう表情をしているかはわからない。だが、やけに穏やかな声色で、彼女は言うのだ。

「元々わらわが撒いた種じゃ。落とし前をつけるのは、わらわでなくてはな」

『闇樹』は相変わらず不満気に唸っていたが、不意にその唸りを止めると、『いいよ』とまだ納得のいかぬ様子で答えた。

『君の願いをかなえる代わりに、僕の願いもかなえてよ、「真白」。ずっとずっと、僕の傍にいてもらうよ、僕の「真白」』

「いいじゃろう。だが、少し待て」

 リルが、ふいっとこちらを向いた。琥珀色の瞳は切なげに細められ、何だかやけに大人びて見える。かつ、かつと靴音高く岩場を歩いて来たリルは、動けないライルの傍らに膝をつくと、ライルにしか聴こえない声量で、いつに無く柔らかく囁いた。

「わらわに巻き込まれて、貴様にはとんだ災難だったの。じゃが、もう終わりじゃ。安心せえ」

「な、にを……」

 冗談ではない。リルが『真白』の力を取り戻さねば、竜が人を滅ぼしてしまうと言ったのは、彼女ではないか。狩竜奴となって伝説竜と戦えと、脅し半分に協力させたのは彼女自身ではないか。何を今更、契約を放棄するような事を言い出すのだ。

 喉が詰まって、行くな、という声が出ない。身体は指一本動かない。そんなライルの額に、リルはすっと人差し指を当てる。白い光がぽわりと浮かんだかと思うとすぐに消えて、全身の痛みが引いてゆく。回復の術を使ったのだ。

 だが、同時に、抗いがたい眠気がライルを襲った。視界がぼやけて、リルが立ち上がり、踵を返して『闇樹』の元へ向かう姿が霞んでゆく。

 少女が竜の掌に乗り、黒い骨格だけの翼が羽ばたいて、空へと去ってゆくのを見届けたところで、ライルの意識は深い眠りの底へと落ちていった。


「ライル殿!?」

 糸が切れたように眠り込んでしまったライルの身体を、凪音は必死に揺さぶる。リルが『闇樹』と共に去るのを、委縮してただ見ているしかできなかった自分の不甲斐なさに歯がみした時。

「千草様、どうかしっかりしてください、千草様!」

 姉の悲痛な叫びを耳にして、はっとそちらを見やった。

 朱音が『禍土』の頭を膝に乗せて、必死に呼びかけている。身にまとっている浅黄色の着物は、眉間から流れ出る血で赤く染まっていった。

 眉間を貫かれた竜は死ぬ。それはこの世界の摂理であるし、凪音も実際目にして来たのだ。『禍土』の命はあとわずかだろう。

 姉を奪った仇として、『禍土』を恨んで来た。討つ為に、ライルという一流の狩竜士かりゅうどを探し出して来た。だが今凪音の心にあるのは、どうか姉を、愛する人を置いて逝かないでくれという、祈りにも似た願いだ。まさか姉の想い人だとは、しかも竜の姿を見る事さえ無く他者に倒されるなどとは、夢にも思っていなかったのだ。

 しかし『禍土』は、己に迫る死も恐れていないかのような穏やかな笑みを口元に浮かべ、震える手を朱音の頬に伸ばし、愛おしげに撫でる。

「どうか、悲しまないでくれ、朱音。これが、私の、寿命だったという、事だ」

 途切れ途切れに言葉を紡ぎ出せば、姉の目にみるみる内に涙がたまり、零れ落ちた。

「私は消滅するが、私達の、愛し合った証は、消えない」

 その台詞に凪音ははっと思い至り、顔を赤くする。通じ合うと言うのか。人と、竜が。

「どうか、平穏な世界を、いつか」

 そこで声は途切れ、手が力を失ってはたりと地面に落ちる。その指先から、『禍土』は細かい光の粒子になって消えてゆく。

「千草様」その光をかき集めて腕の中に取り戻そうと、朱音が手を伸ばす。「千草様、千草様」

 しかし『禍土』の魂の証は、朱音の腕をすり抜けて、風に溶けてゆく。伝説竜など存在しなかったかのように、辛辣な結果を突きつける。

 朱音の悲鳴が滝の音をかき消さんばかりに智成の山に響き渡る。凪音は歯を食いしばり、拳を握り締めて、地面を打った。


『禍土』は死んだ。『真白』は『闇樹』と共に去った。最強の狩竜士も『闇樹』の前には赤子の手をひねるかのようにあっさりと負けた。

 人類の大災厄が、密かに迫って来ていた。

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