4-8

智成ちなりの山には神が住む』

 天津地あまつちの人々の間にはそんな伝承があって、無闇に山に立ち入る者はいないという。

 神が住む、まではゆかずとも、実際伝説竜の生息地だ。やたらめったらに踏み込めば、生きては帰って来られないだろう。

 そんな智成の山道に、大小さまざまな三人の足跡が刻まれる。『禍土あまつち』の祭壇への道を知る凪音なぎねを先頭に、リルが続き、ライルが殿を務めて、広葉樹に囲まれた山の中を進んでいた。

 小川のせせらぎに混じって、ぴろろろ、ぴろろろ、と鳥の鳴き声が聴こえる。どこかでリスも走っているようだ。耳をすませば小さな足音が耳に入り込んで来る。これが『禍土』を倒す為の道程でなければ、さぞかし気分の良いトレッキングであっただろう。緑豊かな智成の山は、観光地にすれば山歩きの聖地として栄えそうだ。

 だが、エントコ山が『溶炎ようえん』の怒りに触れたように、オルシナ湖の『水蓮すいれん』が理性を失くしたように、『時風ときかぜ』も暴走したように、人間の欲望が介入すれば、神の竜の欠片を持つ存在さえ狂う。自然環境に手を入れ、豊かさと引き換えに竜をのさばらせて安全を失った西方。竜を崇めて、流れる状況に身を任せた天津地。どちらが正しいかなどと考えるのは、一介の狩竜士かりゅうどが考える事ではないな、とライルはそんな思考を巡らせながら、女二人の後を追う。

 やがて水音が大きくなり、木々が途切れ、視界が開ける。高さはそんなに無い滝の流れ落ちる清らかな水のにおいが鼻腔に滑り込み、周辺には、花弁は染料に、根っこは薬にも使える花が咲き乱れていた。

「この滝の裏に、『禍土』の祭壇があるのだが……」

 凪音が辺りを見回しながら言いさし、中途に打ち切って、腰に佩いた刀に手をかける。ライルも素早く反応して大剣を鞘から抜いた。

 滝の近くに人の気配がする。千草だろうか。敵意は感じないが、いつ何時『禍土』がそこらの茂みから現れたとしても不思議ではない状況、警戒するに越した事は無い。

 しかし、滝の裏から姿を現した人物を見て、ライルは拍子抜けし、リルは眉をひそめ、そして、凪音は目を真ん丸くした。

「……凪音?」

 女にしては低めの凪音の声とは対照的な、高く澄んだ声の女性。だが、その顔は凪音と瓜二つで、化粧をせずとも美しい。心底驚いた様子で凪音を呼ぶ女性に対して、凪音もまた、呆然と相手の名をその唇から零れさせた。

朱音あやね姉様……!?」

「はあ!?」ライルはすっとんきょうな声をあげ、「なーる」とリルがこめかみを指でおさえる。

 リルにはもう事情が呑み込めたのだろうか。ライルが振り向くと、リルは横目でちらりとライルを見た後、琥珀の瞳を朱音に向けて、言い切った。

「凪音の姉は、事実なったという事か。『禍土』の花嫁に」

 これで理解しなかったらまた筋肉馬鹿と呼ぶぞ、という無言の脅しが込められている事に気付き、一人で必死に頭を回転させる。そして思い当たった。

 朱音は生贄になったのではない。文字通り『禍土』の花嫁として、この智成の山で、『禍土』の妻として暮らす道を選んだのだ。

「しかし姉上、何故」

 凪音が戸惑い気味に問いかけると、朱音は長い睫毛をふっと伏せて顔を背ける。その一瞬後、滝の裏から出て来た新手の気配に、ライルは大剣を構え直し、そしてまたも出鼻をくじかれる羽目になった。

「凪音様、とうとうここまで来てしまわれましたか」

 諦観さえ込めた声色で朱音の隣に並んだのは、千草だった。朱音に会う為、『禍土』の目を盗んでここに来ていたのか。ライルはそう考え、いや、違うな、と首を横に振ると、大剣を持ち上げて、切っ先で示した。

 千草を。

「『禍土』は、あんた自身か」

 千草は無感情で沈黙を保ち、朱音が今にも泣き出しそうな表情をして面を伏せる。それが答えだ。

「なるほどの」リルが相変わらず偉そうに腕組みしたまま言い放つ。「竜が人の姿を取る術を覚えたか。道理でわらわが竜を探す時の感覚にひっかからなかったはずよ」

 上手く化けたな、と付け加えて。

「いつか、こんな日が来るとは思っていました」

 やがて、千草、いや『禍土』が重々しく口を開いて胸に手を当てた。

「『禍土』はたしかにこの私です。『真白まつくも』、あなたの力の片鱗を持ち、天津地の人々を脅かしたのも、紛れも無い事実です。しかし」

 隣で小さな肩を震わせる朱音を見下ろし、『禍土』は続ける。

「人の間に混じって世を乱したい衝動に駆られるまま、人の姿を取って天部あまのべへ行った時、朱音と出会いました。彼女の優しさは、狂いかけていた私を癒し、こうして自我を保っていられるようになりました」

「千草様は」

 朱音が後を引き取る。

「ご自分が『禍土』だと私だけに打ち明けてくださいました。そして、このまま自分の傍にいて、見守っていて欲しいと。それを果たす為に、千草様をかんなぎとして父上に紹介し、『禍土』様のお告げとして私を求めさせたのも、全て私が考えた段取りです」

 人が竜に恋をした。これは『闇樹あんじゅ』がリルを求めた事と一緒だ。その為に、規模の大小を問わず周囲に迷惑を及ぼしたのは許される事ではないが、抱く想いまでは責められない。実際、朱音が花嫁として傍にいるおかげで、『禍土』はそれ以上狂わなかったのだ。経過はどうあれ、朱音は天津地を守った事になる。

 それでも。

「悪いが、それでもだな」

 ライルはちゃきり、と音を立てて大剣を構え直し、『禍土』と向かい合う。

「俺はお前を倒さねえとならねえ」

 自分が一人の人間から愛する者を奪おうとしているのは、重々承知している。それでも、今ここで『禍土』を討ち、『真白』の力を取り戻さねば、その先に待つは人類二度目の滅亡だ。恋人同士を引き裂いた極悪人と罵られようと、狩竜士の本分を果たさねばならない。

『禍土』もそれは覚悟の上のようだ。恐らく、己の寿命を悟って、朱音と最後の邂逅をする為にここに来たに違いない。

 朱音にはひどく恨まれるだろう。凪音にも失望されるかもしれない。リルだけは、「ようやった」と拍手をするかもしれないが、さすがに今回ばかりは空気を読んでくれるか。

 目をつむり、深呼吸をして、覚悟を決める。かっと目を見開き、「リル」と、力を貸してくれるよう彼女の名を呼んだ瞬間。


 一条の、黒い枝のような矢が飛んで来て、『禍土』の眉間を貫いた。

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