4-6
むかしむかし、一度世界が滅びた後。神が人間達に再び文明を与えたばかりで、神の竜も一体しかいなかった頃。
竜は人々の間に降り、豊かな水源をもたらし、適度な風を田畑に送り、豊穣を与え、光と闇を操って昼と夜を自在に司り、人間が神に感謝する火を焚いて。
竜は人間の生活と常に共にあった。
そんな竜に、一人の人間が恋をした。まだ年端もゆかぬ少年だった。
少年は竜を愛し、愛し過ぎたせいで、竜を自分一人のものにできぬかと考えた。
そしてある日、竜が住まう神殿に、見張りの目を盗んで入り込み、竜が眠りについている隙に、竜の力の源である竜水晶を奪うと、床に叩きつけた。竜が力を失えば、人々の心は竜から離れ、自分が独り占めできると考えたのだろう。
だが、事態は少年の思いとは裏腹の結果を叩き出した。床にぶつかった竜水晶は砕け散り、四つの大きな要石は巨大な竜の姿を取り、一つの大きな欠片は少年に吸い込まれた。残る無数の欠片は、様々な竜の姿を持って、大陸の各地へと散り散りになった。
竜の力の欠片を持った少年は、人の心と姿を失い、闇の竜『
目覚めて全てに気付いた神の竜に残されたのは、わずかな力を帯びた小さな竜水晶の欠片だけだった。神の竜は、竜巻を起こす事も、昼夜を逆転させる事も、赤々と炎を灯す事も、できなくなった。ただ、人より少しだけ強い力を持つ、という点を除いて。
全能でなくなり人と同じ姿を取った神の竜を、人間達ははじめ、それでも偉大なる神の遣わした者として大切に扱っていた。だが、世代が移り、神の竜の力の伝承が薄れ、真実味を無くしてゆくに従って、その信仰心は儚くなった。敬う事を忘れた人々の間では暮らせぬと悟った神の竜は、神殿を後にし、あてどない旅に出た。
大陸に散った竜や、『闇樹』と化した少年から力を取り返し、再び神の竜――『
何年も、何十年も、何百年も。
リルが語り終えてふっと黙り込むと、静寂だけが辺りを支配した。秋ならば、ここに虫の声のひとつやふたつも入って風情が出るのだろうが、生憎今はまだ初夏で、蛾がぶぶぶと羽音を立てて飛び、灯篭の火に吸い込まれて燃え落ちてゆくくらいしか無い。
そしてライル自身も、飛んで火に入る夏の虫、といった気分を味わっていた。真夏ではないのに、やたらと熱を感じたかと思えば、身体が急速に冷えてゆく。
いや、それよりも。
リルの話が全て真実だとしたら、この大陸に竜が創世の頃から出現したという説は事実で、その元凶を生み出したのは、人間自身だという事になる。『真白』に執着した、ただ一人の少年の。
しかもその少年が、最後の伝説竜『闇樹』になっているというのか。
「お前が、『悪しき輩に力を奪われた』ってのは、そういう事だったのか」
しかし誰が悪いのだろう。『真白』を自分のものにしようとした少年の行為は間違い無く悪だったが、人が人でなき者を愛する気持ちは、尊いものだろう。それよりも、それまで『真白』を万能として崇めていながら、力を失ったのを理由に見捨てた人間達の方が、よほど身勝手なのではないだろうか。
「それでも、お前がこの大陸の人間の滅亡を望まない理由は、何だ?」
リルは詳しくは語らなかったが、力を失った竜への風当たりは、相当なものであったろう。敬意、畏怖は消え、多くの蔑視と嘲笑が『真白』に降り注いだに違いない。それだけの仕打ちを受けながら、彼女が人間を滅ぼそうと思わなかった理由とは、一体何なのか。
憂いを帯びた横顔を見やれば、薄桃色の睫毛がまたたく。リルはこちらに向き直ると、じっとライルを見上げて、「そうさな」ぽつりと呟くように言った。
「信じていたかったのだろうな、人間を。侮蔑や迫害だけが人間の本性ではない、他者を重んじ、信じ合う事ができる生き物だと」
ライルは思わず驚きに目をみはってしまう。常に人間、というかライルを格下に見ているとしか思えない彼女の口から、そんな殊勝な言葉が出て来るとは思わなかったからだ。
「貴様」途端にリルが半眼になって睨んで来る。「今、ものすっごい失礼な事を思ったじゃろうて」
ライルが慌てて真顔でぶるぶる首を横に振ると、「まあ、よい」竜の少女は諦め半分の吐息をついた。
「わらわの普段の言動を見ていたら、そんな事を言ったところで、そう簡単に信じてもらえぬというくらいは、わかっとるわ」
「信じるさ」
その言葉は、即座にライルの口から出た。今度はリルが目を真ん丸くしてこちらを見つめる番だった。
「お前は隠し事は一杯あるが、嘘は言わなかった。それだけの過去を明かした後だ、今更、
琥珀色の瞳がぱちくりとまぶたの下に見え隠れする。リルは初めて見るような虚を衝かれた様子でしばし唖然としていたのだが、不意に相好を崩すと、柔らかい笑みを見せた。
「やはり、貴様をわらわの
ライルの心臓がどきんと脈打つ。これは驚きではない。明らかに、美人の女性を前にした時の反応だ。何でこんな少女――正体は傍若無人な馬鹿力竜に、変なときめきを覚えているのか。しかも彼女は今、『狩竜奴』ではなく、『狩竜士』とニュアンスを微妙に変えて言いはしなかっただろうか。何の心境の変化だ。
今日の自分は、ときめいたり、冷汗をかいたり、心的外傷を掘り起こしたり、どぎまぎしたり、やたら忙しい。そろそろおさまってくれ心臓、と念じた時。
「へえ、狩竜士と組んだんだ。僕の『真白』」
その場に飛び込んで来た第三者の高い声に、ライルは身に染みついた反射でリルを背にかばって、いつでも立ち回れるように腰を低めて身構える。声のした方向の闇を睨みつければ、玉砂利を踏み締めながら歩み寄って来る小さな影があった。
影が灯篭の明かりに照らされて、その姿を露わにする。それを見たライルは拍子抜けしそうになったが、すぐさまその油断を脳内から払拭する羽目になった。
十二、三歳ほどの少年だ。短く刈り込んだ髪は真っ白で、瞳はリルと同じ琥珀。西方の服装をしており、体格は外見年齢に比してやや小さい。
だが、その小さな身体から発せられるただならぬ威圧感に、ライルの背中を一筋の汗が伝い落ちる。
その予感をたしかなものにするかのごとく、リルが少年を見すえて、低く呟いた。
「『闇樹』」
「わあ、君が僕を呼んでくれるのは、数百年ぶりだね、『真白』」
リルの声色に込められた敵愾心などどこ吹く風で、少年――『闇樹』は嬉しそうに両腕を広げ、幼い子供がはしゃぐようにくるくると回転してみせてから、ぴたっと動きを止めて肩越しに振り返り、純粋さの欠片も無い、邪悪な笑みを見せた。
「でも、やだな。僕の名前は『闇樹』じゃないよ。ちゃあんと僕の名前を呼んでよ、僕の『真白』。僕はさ」
そこまで言った所で、『闇樹』はきょとんと目をみはり、不思議そうに首を傾げる。
「僕の名前、何だったっけ?」
握り締めた己の拳が細かく震えているのに、ライルは気づいた。一見無邪気に見えるこの少年は、名前通り心に一本の強固な闇の樹を打ち立てている。リル、いや、『真白』に執着する底知れぬ狂気がにじみ出ているのが、この数十秒だけでも感じて取れた。
「まあ、いいや。『真白』に会えて、僕は本当に嬉しいよ」
『闇樹』は肩を揺らして笑うと、広げていた両腕で己を抱き、うっとりと陶酔するようにひとりごちる。
「君の声、君の瞳、君の髪、君の力、君の手足、君の心臓。何もかもを僕の元へ取り戻したいよ、『真白』」
「……最初からお前のものじゃねえだろ」
気を抜けば詰まりそうな喉を叱咤して紡ぎ出したライルの台詞に、『闇樹』は白い眉をはね上げて、明らかな不快感を示した。
「僕と『真白』の邪魔をするのかい、狩竜士?」
にやり、と。
白い牙を見せて『闇樹』が口角を持ち上げる。一見、無邪気な少年の笑みに見える。だがその裏に隠された深い悪意が、目に見えない波になって身体を叩きつけるような感覚を、ライルは味わっていた。両足を踏ん張り、精一杯の眼力で見返す事で、気圧されないようにする。
「あっはは!」
『闇樹』にはそんなライルの必死さも、蛇の前に放り出された蛙の悪あがき程度にしか見えないのか。腹を抱えて笑い転げる。
「僕に勝てると思ってるの? ただの人間が? 『真白』の力の欠片を持ってるこの僕に?」
「やってみなけりゃわかんねえだろうが!」
ひとつ、地面を蹴って、ライルは『闇樹』目がけて走り出す。
「馬鹿たれ、生身で相手をするな!」
リルの叱咤が背中を追いかけて来たが、気に留めている暇は無い。最後に会うかと思った伝説竜が自らお出ましくださったのだ、ここで仕留める事ができれば、『真白』の復活に大きく前進する。元は純情な人間の少年だったとて、容赦をしている場合ではない。
だが、ライルが振り下ろした拳は、『闇樹』がくすりと笑って軽く一歩後退するだけで容易く避けられ、空を切った。
「愚かな人間」『闇樹』が謡うようにのたまう。「お前ごときが僕には勝てないよ。『真白』の為なら何でもできる僕には、絶対にね」
そうして少年は軽い足取りで身を翻すと、闇の中へと消えゆく。
「待ちやがれ!」
激昂して後を追いかける。闇の中に気配を感じ、飛びかかって首根っこをおさえ、引き倒す。暗がりで、がつ、と相手の頭が岩にぶつかる手応えがあった。
「捕まえたのか!?」
リルが心底驚いた様子で駆け寄って来て、相手の姿を確認しようと、小さな炎の明かりを指先に生み出す。そこに照らし出された顔を見た時、ライルもリルも、まさかの思いにとらわれて、仰天する羽目になった。
ライルに首をおさえ込まれ、頭から血を流して呻いている相手。それは『闇樹』ではなかった。
先程宴会場で見た、
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