第二節
彼女は、近所に住む二歳年上の幼なじみだ。
幼稚園の頃からの友人で、家が近いこともあって家族間の付き合いも深く、まるで姉のような存在である。
小学校のときは大の仲良しだったが、彼女が進学したことで一緒にいられる時間が少なくなって、いつしか距離が生まれてしまった。
「もぉ~、そんなに怒んなよぉ~」
再び青信号になったので、彼はやや急いで横断歩道を渡った。同行する彼女はいつものように左側を歩き、ふざけて軽く肩をぶつけてくる。
「普通は怒るよ! 首は苦手だから触んなって!」
彼は押されるままに歩道の端のガードレールへと。押し返さないのは、首を守るのに必死だからだ。ぶつかられることよりも、二度と首を触られまいと警戒するほうが、彼にとっては重要だった。
「だってぇ、手が冷たいんだもん」
彼女は両手を揉み合わせて、ハァーと息をかけた。
「知らないよ。カイロとか買えばいいじゃん」
「やーよ、もったいない。それよりアンタがカイロになんなさい。ほら、お手」
「咬むぞっ」
差し伸べられた手に向かってガルルと唸り、歯を咬み合わせて音を鳴らす。その反応を期待していたのか、彼女は嬉しそうにし、その手で彼の頭をぐりぐりと撫で回した。
「うわぁー、もぉー、やめろぉー」
彼は頭を撫でられるのも苦手だった。理由は、単純に恥ずかしいから。
「ハァ~、犬を飼いた~い。ふわっふわの子犬がいい~」
「俺は犬じゃない!」
ガードレールが邪魔で逃げられず、速度を早めて前へ逃げる。
「おっ、なになに、今は“俺”って言ってんの? ずっと僕だったのに、へぇー!」
「うっ、うるさい!」
彼はしまったという顔をした。
「フフーン、男の子も、いつかは男になっちゃうんだねぇ」
彼女も早く歩いて、また隣にやってきた。そして、にやけながら顔を覗いてくる。
「それ、おばさんも言ってたよ、おばさんも」
「なに? また触られたいわけ?」
彼女は笑顔のままにムッとし、また十本の指を小刻みに動かした。まるで蜘蛛の足だ。彼は小さい悲鳴を漏らし、慌てて首回りを守った。
「隙あり!」
すると彼女は、彼のコートのポケットに手を突っ込んだ。中にはさっきまで使用していたデジプレがあり、それを取りだした。
「あっ、ちょっと!」
すぐに取り返そうとするが、彼女が素早く距離を取り、『近づいてみろ、首を触るぞ』とでも言いたげに威嚇してくるので、迂闊に近づけない。
「さっき気づいたんだけどさぁ、このイヤホン、新しいのだよね? 買い換えたん?」
「うん、前のはカバーを失くした。耳に入れるとこ」
「あー、だからこっちまで来てたんだ。制服のままだから変だと思った。てっきり迎えに来てくれたのかと期待したのにさぁ、さっさと帰っちゃうんだもん」
「気づいてたんなら、声かけてくれればいいのに」
「やーよ、イタズラ出来なくなっちゃうじゃん」
彼がムッとすると、彼女はニヤリ。
「もういいでしょ、返してよ」
彼は隙を見て手を伸ばした。すると彼女も、反射的に手を伸ばした。悲しいかな、彼女の腕のほうが若干長くて、取り返せなかった上に手刀で頬を突かれた。
「フッ、未熟者め。せっかくだから聞かせなさいよ。なんか新しいのないの?」
「いってぇ……別にいいけどさぁ。そんなの、リリース年で調べればいいじゃん」
「なるほど。じゃあ、はい、やって」
デジプレ一式を突き返された。それも頬にグーパンチ。とはいえ、押し付けられただけで痛くはなかった。だが屈辱……。
「理不尽だ……」
もちろん不機嫌になる彼だが、従順にも最新の曲を選んでいる。
「……はい、これ」
曲名やカバーイラストが表示された液晶画面を見せる。
「おっ、これ知ってる。ドラマの主題歌だよね。いいの持ってんじゃ~ん」
彼女はご機嫌になり、早速イヤホンを装着する。だが、何故か右耳だけで、左側は自分ではなく、彼の左耳にあてがった。
「な、なんで?」
「なんでって、一人で聞くのってなんか淋しいじゃん」
彼女は返事をしつつ、決定ボタンを押して曲を再生させた。
駅前で聞いたものと同じクリスマスソングが、二人の頭の中に流れ始めた。
「……これ、サビもいいけどイントロも好きなんだよねぇ。そう思わない?」
「うん、まぁ」
「うんまぁ? なんか素っ気ないわね。……怒ってんの?」
彼女は不安げに眉をしかめ、彼の顔を覗き込んだ。
「お、怒ってないよ。首に触ったら怒るけど」
彼は首元を守りつつ、気まずそうに目を逸らす。
「ほんと苦手よねぇ、首とか、脇とか、足の裏とか」
「普通は苦手だよ。誰かさんのせいで、余計に苦手になった気がするけど」
「なによぉ、鍛えてあげたんじゃん」
「鍛えるどころか悪化してんじゃん!」
「それは想定外だったよねぇ、フフーン」
「フフーンじゃないよ、まったく……」
そんなやりとりをしているうちに一曲が終わった。すぐに次が始まる。
「えーっと、次は……あっ、自販機みっけ! あったか~いの欲しい! ほら、おしるこ奢ってあげるから、それで機嫌を直しなさい」
彼女はイヤホンを外し、デジプレともども彼に押しつけると、向こうに見える飲料水の自動販売機を目指して駆けだした。
「おしるこ限定なの? ってか、おしるこでチャラにしろと……?」
おしるこの魅力に敗れたデジプレ一式を、コートのポケットに仕舞った。
「ハァ~、あったか~い」
彼女は自販機のそばで、買ったばかりのおしるこを両手で持ち、暖を取っている。
「ほんとにおしるこだし。コーヒーがよかったなぁ」
彼は同じおしるこを受け取り口から取りだし、プルタブを開けて一口飲んだ。
「コーヒーだー? なーにマセたこと言ってんの。まさか、ブラック飲んでるとか?」
「美味しいけど、あっま……ブラックは、無糖だとまだ無理」
「よかった。無糖を飲んでたら幻滅してたぞ」
「なんでさ……」
「なんとなくさ」
「なんとなくで幻滅って……いつまでそうしてんの?」
彼女は一向におしるこを飲まず、手を温め続けている。
「だってぇ、まだ冷たいんだもん」
彼女の両手だが、熱が通ったことでほんのり赤みを帯びてはきているものの、それでも青白い。
「冷え症、ほんとひどいよね。手袋すればいいのに」
「アンタで温めさせてもらうから、いらぬ」
「いやいや、迷惑ですから。あと、なんだ“いらぬ”って」
「フフン、なんとなく。ほんと言うとさぁ、こないだ失くしちゃったんだよね」
「手袋?」
「うん。多分ねー、服の整理をしたときに一緒に入れちゃったんじゃないかと思うのよね。皆のとまとめて古着屋に買い取ってもらったんだけど」
「あー、新しい店が出来たって母さん言ってた。じゃあ、新しいの買えばいいじゃん」
「うん、そのつもりだったんだけどさぁ、アンタ見つけて、イタズラするほうを選んじゃったから、一旦帰って出直そうかなって。持ち合わせもそんなに無いし」
「なんか、俺が悪いみたいに聞こえるんだけど……」
「あ、また俺って言った。なんか違和感あるなぁ。アンタは“僕”のほうが似合うって。ほれ、僕と言いなさい、僕と」
「やだよぉ、なんの強要だよぉ」
彼女の前で俺と言うだけでも実はちょっと恥ずかしいのに、僕なんてとてもじゃないが言えなかった。
「そういうところが僕なのよねぇ」
彼女はまたニヤニヤ。彼の反応を楽しんでいる。
「どういうところだよ……うー、美味しいけど、やっぱ甘い」
誤魔化しも兼ねて、またおしるこを一口。すると、途端に眉根を寄せた。
「あれ、甘いの苦手だっけ? ――あっ、すみません」
そのとき、サラリーマン風の男性が自販機の前にやってきた。邪魔になっていると気づいた二人は、すぐに横へ移動した。だが、これ以上その場に留まる理由も無かったので、そのまま歩きだした。
「苦手じゃないけど、これは甘過ぎだよ」
「そうなの? 新商品だから試してみたんだけど、イマイチだったかぁ」
彼女は残念そうに言った。
「え、毒味?」
「えっ、毒って言うぐらい甘いの? なんか飲むの怖いなぁ。もう一本いっとく?」
「いらぬ」
「お、いらぬをかぶせてきたか。やるじゃん!」
「うう、なんか恥ずい……」
恥ずかしがる彼の姿に機嫌を良くした彼女は、ようやくプルタブを開けて、おしるこの味を確かめた。
「うっわ、ほんと甘い。美味しいのは美味しいけど、これは甘過ぎでしょ。なんか、口の中がもったりする。なんか、口の中がもったりする」
「……なんで、二回言ったの?」
「今って、二回言うのが流行りじゃん。今って、二回言うのが流行りじゃん」
「いやまぁ、マンガとかでもよくあるけど、流行ってはいないと思う」
「二回目の二回言うはスルーですか?」
「二回が二回もあってめんどくさい!」
確かにめんどくさい。
「あっ、公園。ゴミ箱あるかも。行こうぜぇ~!」
彼女はふいに足を止めた。
「唐突だなっ! って、ちょっ! マフラー引っ張るなー!」
彼はマフラーの端を引っ張られて、強引に横道へと連れ込まれた。
マイペースな彼女に、翻弄される彼。
そんな二人の姿を、少し後ろを歩いていたサラリーマンが横目に眺める。
「青春だねぇ……にしても、これあっまいなぁ~」
新商品のおしるこは、どうにも不評だった。
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