小さなメダル 第6話


 

 二年前、モンドが亡くなる少し前、ウェルベルとリインとモンドの家族は三人で海に遊びに出かけた。一人で泳げなかった当時一歳のウェルベルは、リインやモンドに抱え上げられながら、一緒に海に入って海水浴を楽しんだ。リインが泳ぎ疲れたと言って、ビーチパラソルの日陰に休みに行った。泳ぐのに飽きたウェルベルとモンドは、貝殻拾いをしながら浜辺を歩いた。そして岩場の近くに来た時、ウェルベルが岩場にカニがいることに気づいた。

「あ、カニさん!」

 まだ危なげな足取りで岩場に向かっていくウェルベルを、モンドは追った。ウェルベルがカニに手を伸ばすと「危ないよ」と言ってモンドがウェルベルの手を制し、暫く二人でカニを観察した。どこかに歩き去っていくカニを見送ると、二人は岩場で貝殻拾いを始めた。暫くした時、ウェルベルが一段高くなっている岩場の奥の方に、小さなメダルが落ちているのを発見した。しかし今よりも小さかったウェルベルは、高くなっている岩場に上れず、腕を伸ばすも小さなメダルまでは届かない。

「パパ!」

 ウェルベルの声にやってきたモンドが目を瞠る。

「あれは、小さなメダルじゃないか! しかもギザメダルだ!」

 ギザメダルを拾ったモンドは、貴重なギザメダルを失くさないように鞄に仕舞うため、リインが休んでいるビーチパラソルのところにウェルベルを連れて戻った。二人がパラソルの影に入ってきたことに気づいたリインが言う。

「なんか飲み物買ってこようか?」

「ああ、頼むよ」

 モンドの返事を聞くと、リインは立ち上がって、海の家に飲み物を買いに行った。モンドがウェルベルに顔を向ける。

「これは貴重な物なんだ。失くしたらいけないから、パパが預かっておくね。使うべき時がくるまで、家に持って帰ったら金庫に入れて保管しておくからね」

 モンドが自分の鞄の中にギザメダルを入れようとする。それを見たウェルベルが泣き出した。

「パパ返して!」

「ははは、わかってるさ。これはウェルベルが見つけた物だから、ウェルベルの物だよ。拾い上げたのはパパだけどね。心配しないで、パパは預かるだけだよ」

「やだやだ返して!」

「これはね、欲しい物がなんでも手に入る魔法のメダルなんだ。大事な物だから、ウェルベルに持たせておくわけにはいかないんだよ」

「やだ! 返して! 返してぇ……!」

 ついにはウェルベルが大声でわんわん泣きじゃくり始める。

「困ったなあ。折角楽しむために来たんだから、泣かないで」

 しかしウェルベルは一向に泣き止まない。

「しょうがないなあ」

 モンドが自分の鞄にぶら下げていたお守りを鞄から外し、その中にギザメダルを入れる。そしてそれをウェルベルの首にかける。その途端ウェルベルは泣き止んだ。モンドがウェルベルの顔を見つめながら諭すように言う。

「いいかいウェルベル。これはウェルベルを守ってくれる魔法のメダルなんだ。本当に大事な物だから、絶対になくしちゃダメだよ」

「うん」

「中にメダルが入ってることを、誰にも言っちゃいけないし、誰にも見せたらいけないよ。もし誰かに知られたら、泥棒さんに盗られてしまうからね。困った時や、本当に欲しい物ができた時に使えばいい。それまではメダルのことは、ウェルベルとパパの二人だけの秘密だよ」

「ママは?」

 モンドが笑みを浮かべる。

「ダメだよ。ママに知られたら、ママがメダルを宝石やお洋服に変えちゃうかもしれないからね」

 買ってきた飲み物を手に持ったリインが戻ってくる。

「あら、そのお守りあなたのでしょ? ウェルベルにあげたの?」

「まあね」

「どうして突然ウェルベルにお守りをあげたのよ」

 ウェルベルとモンドが目を合わせて、二人同時に立てた人差し指を口元に当てる。

「「秘密!」」

「なによそれ。わたしだけ仲間外れにしないで教えてよ」

「ダメー!」

 ウェルベルは海水浴から帰ってきて数日もすると、すぐにギザメダルのことなど忘れてしまった。中になにが入っているのか忘れたウェルベルが、お守りを開けることはなかった。中になにか入っているのか、なにも入っていないのか、それすらもわからなくなっても、ウェルベルはなぜかこのお守りは大事にしなくちゃいけないような気がして、今までずっと大事にしてきたのだ。

 モンドが亡くなったのは海水浴から帰ってきて暫く経った頃だった。ウェルベルはモンドがいなくなったことが理解できなかった。なぜか突然いなくなったと思っていた。リインと二人で暮らす内に、モンドと過ごした日々の記憶は少しずつ薄れていった。そして自分には最初から父親なんていなかったと、思うようになった。しかし、完全に忘れたと思っていたモンドとの思い出が、ギザメダルを見た瞬間にウェルベルの脳裏によみがえったのだ。

 ――あの時初めて見たカニの、横に歩いていく姿が可愛らしくて、ベルはカニのことを好きになったんだった。でもパパってどんな顔だったっけ?

 海に行った思い出を、思い出したウェルベルだったが、どうしても父親であるモンドの顔が思い出せなかった。だからウェルベルの中でモンドの存在は、未だ曖昧なままだった。


 ゼブリラの屋敷の敷地の中にある、従業員寮の自分たちが住む部屋の中。ウェルベルとリインは家族二人だけで、ウェルベルの誕生日パーティを行っていた。誕生日パーティは延期されることなく、ウェルベルの誕生日に行われた。ウェルベルは今日で四歳になった。

「ウェルベル、お誕生日おめでとう!」

 リインに満面の笑みを向けられ、ウェルベルも満面の笑みを返す。一緒にバースデーケーキを食べ、一緒にハッピーバースデーの歌を歌い、誕生日プレゼントとして、カニのぬいぐるみを貰った。二人にとって、久しぶりの家族水入らずのとても楽しい時間だった。ウェルベルは幸せでいっぱいの気持ちになった。こうやってリインと二人、親子で幸せな時間が過ごせるようになったのも、ギザメダルのおかげだ。ギザメダルを海で見つけたのはウェルベルだけど、それをモンドが拾い上げ、お守りに入れてウェルベルにくれた。リインの仕事が忙しく、家族で過ごす時間が減り、ウェルベルは寂しい思いを抱えていた。そんな二人を見かねたモンドが、ウェルベルとリインに、親子で過ごす時間をくれたような、そんな気がウェルベルはしていた。

 ソプラナの小さなメダルの交換報酬である、超有名で大人気の抒情詩人ノビーヨ作『裸足で飛び出そう!』という曲の直筆楽譜が屋敷に届けられた。折角楽譜を手に入れたからということで、ソプラナの提案で、屋敷の広間にゼブリラや屋敷の従業員たちみんなを集めての演奏会をすることになった。広間には数十人の人が集まった。その中にウェルベルとリインの姿もある。椅子に座ったソプラナが、膝の上にハープを置き、楽譜立ての上に広げた楽譜に目を遣りながら、ハープの絃を撫でるようにして弾き、音色を奏でだす。そしてソプラナの唇が開き、光を浴びたステンドグラスのように透き通った美しい歌声が紡がれる。ソプラナの歌声とハープの音色が、ウェルベルの記憶を刺激する。ウェルベルは『裸足で飛び出そう!』という曲に、聴き覚えがあった。家族三人で海に行った時、浜辺に吟遊詩人がやってきて、ビーチチェアーに腰掛け、ハープを演奏しながら『裸足で飛び出そう!』を歌っていた。集まってきた海水浴客たちが吟遊詩人の周りを取り囲み、ウェルベルもモンドとリインと一緒に聴いたのだ。鼻腔に広がる潮の香り、波の打ち寄せる音、日差しの暑さ、ソプラナが歌って奏でる『裸足で飛び出そう!』を聴いていたウェルベルの脳裏に、あの時の光景が鮮明によみがえった。ウェルベルはあの時、モンドに抱っこされながら曲を聴いていた。抱っこされていたあの時のぬくもり、力強い腕に抱っこされている安心感、演奏が終わった瞬間の拍手喝采の光景。みんな笑顔で吟遊詩人の素晴らしい演奏を賞賛していた。あの時、ウェルベルが抱っこされながら見上げたモンドの笑顔。

 以前ウェルベルはリインに「パパってどんな人だったの?」と訊いたことがあった。その時リインは「笑顔が素敵な人だったわ」と言っていた。

 ――そうだ、ベルのパパはこんな顔をしていたんだった。ベルと同じ三角の耳が頭についていて、お尻から尻尾も生えていて、パパはいつも眼鏡をかけていた。そうだ、確かにベルにはパパがいたんだ。


 ゼブリラはすぐに新たな従業員の募集をかけてくれた。託児所作りも既に始めてくれている。しかし募集をかけ始めたばかりで、まだ従業員は増えておらず、以前の人員のままである。託児所も一日二日ですぐに作れるわけもなく、まだできていない。新たな従業員が増え、託児所ができるまでの間、リインが仕事をしている時間、ウェルベルは相変わらず一人で過ごすしかなかった。だからウェルベルは、今もこうして庭の芝生の上に座り込み、以前から持っていた可愛らしい少女を模した人形と、誕生日プレゼントとして買ってもらったばかりのカニのぬいぐるみを使い、一人でままごとをしているのだった。

 屋敷の玄関扉が開く。演奏会が終わった後、帰り支度などに時間を取られていたアセビとソプラナが、そこから出てくる。二人が庭でままごとをしているウェルベルに気づく。自分に歩み寄ってきた二人に気づいたウェルベルが、二人を見上げる。

「もう帰るの?」

「うん。小さなメダルを見つけたら、また来るよ」

「聞いたよ。ベルちゃん誕生日だったんだってね。おめでとう。何歳になったの?」

「四歳!」

 ウェルベルが指を四本立てた手をソプラナに向ける。微笑ましいウェルベルの姿に、二人の頬が綻ぶ。ソプラナが前回のままごとの時にはいなかった、カニのぬいぐるみに目を移す。

「そのカニのぬいぐるみ、誕生日プレゼント?」

「うん!」

「ベルちゃんがお母さんで、女の子のお人形さんが子供だったよね? 今日も一緒かな?」

「そうだよ」

「カニさんは誰かな? カニさんだからカニさん?」

「ううん。違う」

「じゃあペットの犬?」

「違うよ」

「じゃあ誰なの?」

 ウェルベルはどこか誇らしげな笑みを浮かべて言った。

「パパ!」

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