盾 第6話

 このまま真っ直ぐ進めば、峡谷にぶつかるというところに差し掛かる。ぼくは久しぶりに声を出す。

「この先の谷を超えるには吊り橋を渡らなくちゃいけない。迂回しよう」

 迂回することに、ソプラナはいい顔をしないだろう。けれど、高所恐怖症のアシュに谷越えは厳しいと思い、ぼくは提案した。

「あたし平気だよ。だから真っ直ぐ行こう」

「この先の吊り橋は、ものすごく高いところに架かってるから、アシュには無理だよ」

「大丈夫って言ってるじゃんか。このまま真っ直ぐ行こう!」

 ぼくはソプラナと顔を見合わせる。ソプラナが口を開く。

「行ってみてやっぱり無理って言い出しても、引き返すと時間が掛かるから引き返さないわよ。それでもいい?」

「うん」

 半信半疑だったけど、アシュが行けると言うので、ぼくたちは迂回せずに峡谷へと向かった。そして吊り橋の前に到着する。五十メートル程の長さの吊り橋で、橋の下に目を向けると、三十メートル程下を川が流れている。

「アシュ、本当に平気? 行ける?」

「う、うん。行ける、はず……」

 実際の吊り橋を目の前にして、アシュの顔が青ざめる。ソプラナが先頭を行く。次にアシュが恐々としながらも、吊り橋の上に第一歩目の足を乗せた。その後ろからぼくが行く。揺れる橋の上、アシュは身を竦ませながら、ゆっくりとだが確実に進んでいく。既に渡り終えたソプラナが振り返って見守っている。途中、強い風が吹き、吊り橋が大きく揺れた。アシュが叫んでその場にしゃがみ込む。「大丈夫?」と声をかけるとアシュは無言で頷いて、再び立ち上がって歩き出した。そしてアシュが見事吊り橋を渡りきったことに、ぼくとソプラナは驚いた。

「すごいねアシュ! 渡れたじゃないか!」

「だ、だから平気って言ったじゃんか」

 渡りきってそのまま地面にへたり込んだままだったアシュが、無理して笑みを浮かべて言った。

 いつの間に高所恐怖症を克服したのだろう? そういえば、生傷がいつの間にか増えているアシュだけど、最近あまり転ばなくなっていることに、ぼくはふと気がついた。

 吊り橋を渡って暫く進んだところで、ぼくたちは休憩を取ることにした。手拭いで汗を拭いていたソプラナが、手拭いを見て「あれ?」と不思議そうな声を上げる。

「どうしたの?」

「これ見て。こんなところが縫ってあるの。最近アシュに縫い物させてないよね?」

 ソプラナが手拭いを広げる。見ると手拭いの、穴が開いているわけではない、補修する必要のない綺麗な部分が縫われていた。その縫い方は歪で、これを縫ったのがぼくでもソプラナでもないことは明らかだった。

「あの子いつの間に縫ったのかしら。縫ってる姿も見ないんだけど」

 縫い目を目でなぞっていくと、最初は歪だった縫い目が、段々綺麗になっていっていた。

 一日で峡谷を抜けることはできず、この日は野宿をした。その次の日の朝、無限袋の中から自分の服を取り出したソプラナが、いきなりぼくにお礼を言ってきた。

「アセビありがとう。わたしの服、補修してくれたんだね」

「なんのこと? ぼく知らないよ」

「え? アセビじゃないの? じゃあ」

 ソプラナがアシュを振り返る。

「破れてたから、勝手に直したんだ。下手でごめんね」

 アシュはなんだか気恥ずかしそうにソプラナを見上げた。

「……ありがとう」

 アシュにお礼を言うソプラナに、縫い目を見せてもらうと、まだうまいとは言えないけれど、以前よりも確実にうまく縫えていた。

 宿屋に宿泊していたある夜。寝ていたぼくは、夜中に目が覚めてしまった。ベッドを見ると、一緒に寝ていたはずのアシュの姿がない。ぼくは起き上がり、アシュを探すことにした。宿屋の中を探してみたけど、アシュの姿はなかった。宿の外に出てみると、アシュは宿屋の中庭にいた。月明かりの下、アシュはベンチに座り、手拭いを使って縫い物の練習をしていた。時折「いたっ」と言って手を振っているのは、針で指を刺してしまっているのだろう。暫く見ていると、アシュは縫い物の練習を終え、今度は宿屋の裏に置いてあった梯子を持ってきた。それを屋根に架け、宿屋の屋根の上に登ると、ゆっくりと屋根の上を歩き始めた。ぼくは部屋に戻ってソプラナを起こした。なぜ起こされたのかわからず怪訝な表情を浮かべるソプラナを連れて、中庭に向かう。そしてぼくはアシュを指差した。

「ほら、あれ見てみなよ」

 危なっかしい足取りで、屋根の上を歩いているアシュに、ソプラナも目を向ける。ぼくたちは暫くの間、静かにアシュを見守った。屋根から降りたアシュは、中庭の花壇を囲む煉瓦の上を、両手を広げてバランスを取りながら歩き出した。何周も歩く間に、アシュは何度か煉瓦から落っこちて転んだ。痛そうに顔を顰めて打ったところを手で押さえていたアシュだったが、すぐに煉瓦の上に上って、バランス感覚を養う練習を再開する。それが終わるとアシュは木の枝を拾ってきて、土の地面になにやら書き始めた。ここからだとなにを書いているのか見えなかったけれど、時折うんうん唸りながら頭を抱えている様子からして、計算式を書いて、計算問題を解いているのだろう。その次にアシュは歌を歌い始めた。ソプラナに教えてもらった歌を、音程を外しながらだったけど、何度も何度も懸命に歌っていた。もしかしたらぼくとソプラナが口論した時、アシュはぼくらの口論を聞いていて、孤児院に預けられることを避けるために、努力を始めたのかと一瞬思った。けれど思い返してみれば、アシュが眠たそうにしていたり、生傷が増えたり、指先が紫になったり、声が枯れ出したのは、それよりも前からだったことに思い至る。アシュは自分が足手まといになっていて、申し訳ないと思ったから、少しでもぼくたちの負担を減らそうと、ぼくたちの知らないところで努力していたんだ。

「もうちょっと様子を見てあげようよ」

 ソプラナに目を向けると、ソプラナの口元に微笑が浮かぶ。

「そうだね。わかったわ」

 この出来事を境に、ぼくとソプラナの間にあった険悪な雰囲気はなくなった。旅を続ける内に、少しずつだけどアシュは体力がついてきた。休憩を挟む回数が減り、以前よりも順調に旅が進むようになった。アシュは嫌いだった携帯食料を食べる努力も始め、少しずつ食べられる量が増えていった。計算ができるようになったアシュに、安心してお使いを頼めるようにもなった。歌も少しずつ上達し、今ではぼくよりもアシュの方がうまいくらいだ。アシュの努力を認めたソプラナは、以前よりもアシュと積極的に関わるようになった。

「ソプラナ、もっと歌教えてよ!」

「いいよ」

 二人の仲は、二人で楽しそうに歌いながら旅をするまでに縮まっていた。そんな二人は時折、二人だけでなにやら話し込むことがあった。ぼくが「なに話してるの?」と聞いても「なんでもない」とそっけなくあしらわれて、内容を教えてくれないのだ。二人が仲良くなったことはいいことだけど、ぼくだけ除け者にされているように感じて、ぼくは寂しくなった。

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