第6話

 

 次の日は水曜日で、三時間目と四時間目に美術の授業があった。美術の授業であたしたちは今、水彩画を描いていた。

 美術の授業がない時は、絵を描いているスケッチブックや絵の具や筆などの道具は、みんなそれぞれ自分達の教室の後ろにある、自分のロッカーの中に入れている。ロッカーに扉はなく、四角い空間が口を広げているだけだ。

 美術の授業の時は体操服に着替えなければならない。まだ着替えてる生徒もいるが、既に着替え終わった生徒たちは、自分のロッカーの中から道具を取り出していた。あたしはまだ着替えてる途中だった。

 春比奈さんは着替え終わっていて、ロッカーの中から道具を取り出していた。でもなんだか様子がおかしい。自分のロッカーの中を何度も探ったり、周りをキョロキョロと見回している。それに気づいた男子の一人が声をかける。

「春比奈さん、どうしたの?」

「わたしのスケッチブックがないんだよ。先週確かにここに入れておいたはずなんだけど」

 美術の授業は水曜日にしかない。だから入れておいた道具は普通、一週間触ることもない。

「どうした?」

「春比奈さんのスケッチブックがないんだって」

 数人の男子が探すのを手伝い始める。

 あたしがようやく体操服に着替え終わった時、菱田があたしのロッカーの異変に気づいた。

「たいぼくのロッカーにスケッチブックが二つ入ってるぞ」

 あたしは自分のロッカーのところに向かった。すると本当に二つ入っていた。

 あたしは二冊のスケッチブックを取り出した。片方はあたしの物で、もう片方の表紙には、春比奈さんの名前が書いてあった。春比奈さんのスケッチブックに書いてあったのは名前だけじゃなかった。マジックペンで落書きがしてあった。春比奈さんをデフォルメしたと思われる女の子のキャラクターの絵に吹き出しがついていて、吹き出しの中に『わたし動物大好きなの!』というセリフが書いてある。

「なにこれ?」

 春比奈さんが自分のスケッチブックをあたしから受け取り、ページを捲っていく。それをあたしを含め、集まってきた男子たちも一緒になって眺める。まだ使われていないページ、もう描き終わる寸前だった水彩画の作品の上にも、マジックペンで様々な動物の落書きが描いてあった。

「ひでえな」

「陰険なことしやがって」

 男子が口々に言う声に、まだ異変に気づいてなかった生徒たちが、春比奈さんのスケッチブックの周囲に集まってきた。

「どうした?」

「なんだよこれ」

 春比奈さんがページを捲る。一つの落書きが目に入って、あたしは反射的に後ずさった。

 菱田があたしを見て言う。

「たいぼく最低だな」

 みんなの視線があたしに集まる。

「あたしじゃない」

「だったらなんでお前のロッカーの中に、春比奈さんのスケッチブックが入ってたんだよ」

「そんなの知らないよ。あたしが犯人だったら、自分のロッカーじゃなくて、自分以外の誰かのロッカーの中に入れると思う。そうじゃないと自分が疑われちまうだろ」

 春比奈さんが加勢してくれる。

「大木さんはこんなことしないと思う。大木さんも違うって言ってるんだから、これ以上、大木さんを疑うのはやめよう」

 教室に沈黙が広がる。

 加勢してくれたのは春比奈さんだけで、美術室に向かおうとしていた生徒たちも足を止めて、みんな黙ってこちらに顔を向けていた。

 菱田が沈黙を破る。

「でも昨日の体育の時、お前春比奈さんともめてただろ。やっぱお前がやったんじゃないのか?」

「違うって!」

 あたしがここでいくら違うと言ったところで、みんな信じてくれなさそうだった。一体どうすれば……。

「小鳥じゃない」

 あたしに向いていた視線が一斉にそうちゃんに集中する。

 菱田が疑問を呈する。

「たいぼくじゃないって、なんでわかるんだよ」

「小鳥は蛇が大嫌いなんだ。昔、蛇のイラストを見ただけで大泣きしてたくらいだし」

 やっぱりあたしのこと、覚えててくれたんだ!

 そうちゃんがあたしに目を寄こす。

「だよな?」

 あたしは慌てて頷く。

「うん。今も嫌い」

 菱田があたしからそうちゃんに視線を移した。

「え、知り合い?」

「ああ。小学生の時、一緒のクラスだったんだ。だから他の絵はわからないけど、小鳥が自分で蛇の絵なんか描くわけがない。大体、小鳥はこういう嫌がらせをするような奴じゃないよ」

「そっか。疑って悪かったな、たいぼく」

「うん」

 足を止めていた生徒たちが美術室に向かい始める。

 あたしは春比奈さんを追いかけて、横に並ぶ。

「平気?」

「うん、大丈夫だよ」

 春比奈さんは笑みを浮かべながら言ったけれど、無理して気丈に振舞おうとしているのが見て取れた。やっぱりショックなんだろう。

「さっきはかばってくれてありがとう。嬉しかった」

「わたしはただ大木さんがあんなことするわけないって思って言っただけだよ」

 なんだか気恥ずかしくて、あたしは無意味に鼻を掻いた。

「柊く……、そうちゃんにもお礼言ってくる」

 あたしはそうちゃんの背中を追いかけた。

 覚えててくれたのはわかったけれど、何年も会ってなかった間にできてしまった心の距離が埋まったわけではないから、少し緊張しながらお礼を口にする。

「さっきはありがとう。助かったよ」

 そうちゃんはクスリと笑う。

「まだ覚えてたんだな。あのサイン」

「え?」

「さっきやってただろ」

 そうちゃんが薬指を立てて見せる。それを見てなんのことか理解した。

「あ! え、あたしやってた?」

「ああ」

 小学二年生のあの頃、クラスのみんなに嫌われていたあたしは、みんなから色々な嫌がらせを受けていた。

 あたしがなにかされたことに気づくと、そうちゃんはいつも、あたしを慰めてくれたり、あたしの代わりに怒ってくれたり、なにか隠された時は一緒に探してくれた。それでクラスメイトたちは、次第にそうちゃんがいる前では、あたしに嫌がらせをしてこないようになった。けれど嫌がらせはなくなったわけではなく、そうちゃんがいない時や、傍にいたとしてもそうちゃんの目に触れないように、あたしは嫌がらせをされるようになっていった。

 当時引っ込み思案だったあたしは、そういう時に声を出してそうちゃんに助けを求めることができなかった。そのことをそうちゃんに相談したら、

「だったら拳を握ってさり気なく、薬指だけを立てるんだ。お前が薬指を立ててるのを見たら、すぐに助けに行くから。それくらいだったらできるだろ?」

 と言ってくれたんだ。それからは嫌がらせをされる度に薬指を立てた。そうちゃんはあたしが薬指を立ててないか、いつも気にしてくれるようになり、立てていたら本当にすぐに助けに来てくれた。

 あたしはさっき教室で落書きのことを問い詰められた時、無意識の内に薬指を立てていたらしい。

「おれはすぐに小鳥だって気づいてたけど、おれのこと柊君って呼ぶから、忘れられてるのかもって思ってた」

「ごめん。転校初日に教室に入ってきた瞬間からわかってたんだけど、あたしのこと覚えててくれてるのかどうかわかんなかったし、忘れられてたらどうしようとかって考えてたら、思わず柊君って呼んじゃったんだ。でもそうちゃん、雰囲気変わったよな」

「お前に言われたくねえし」

「ま、まあね。あたしだってすぐに気づいたって言ってたけど、よくわかったね。こんなに大きくなってんのに」

「顔に面影があったからな。それにしてもほんとにでかくなったな。おれよりでけーんじゃねえの? 身長何センチ?」

 恥ずかしいけど正直に言う。

「……百七十八センチ」

「うわ、おれよりでけーじゃん。おれ百七十六」

 昔はあたしの方が小さかったのに、逆転してしまったんだ。予想はしてたけど、やっぱりショックだ。

「こうなると、名前が小鳥っていうことに違和感を感じざるを得なくなるな」

「うるせえよ! あたしだって、でかくなりたくてでかくなったわけじゃねえんだよ!」

 そうちゃんが目を丸くする。

「ほんとに変わったんだな」

 しまった! と思ったが、もう遅い。からかわれた時のいつもの反射的言い返しを、そうちゃんにしてしまっていた。昔のあたしだったら、こんな受け答え絶対にしなかった。そうちゃんの言う通り、あたしは変わった。「そういうそうちゃんも変わったじゃんか。雰囲気が落ち着いたっていうか」

「まあな。何年も会ってなかったんだから、お互い変わってて当然だろ。そういえば、お前といつも一緒にいる三人、さっきお前のことかばってくれなかったな。あいつら友達なのか?」

「友達だよ」

 ズキンと胸が痛む。

「ふうん。まあどっちにしても、おれには関係ないけどな」

 秋実たちは友達だ。友達だ。何度心の中で念じてみても、胸の痛みは治まらない。友達だったらかばってくれてもいいのに。どうしてかばってくれなかったんだろう? 秋実たちに勝手にそこまで求めて、そして勝手にあたし傷ついてる。あたしが今思ってることっていうのは、おこがましいことなのかもしれない。でもやっぱりかばってくれなかったことが、あたしは悲しかった。

 胸が痛む理由はもう一つある。あたし秋実が落書きしたんじゃないかって疑ってる。友達を疑うなんて最低だ。でももし秋実が犯人だったとしたら、落書きしたスケッチブックをあたしのロッカーの中に入れたのはどうしてなんだろう。もしかしてあたし嫌われてる? そう考えてしまって、胸がズキズキと痛んだ。

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