★☆★☆★


 風が静寂をみだす。

 振りむいた彼女に見入っていたクレアは、ほおをなでるすずやかな感覚で我にかえった。かすれた声をごまかすように咳払せきばらいしてから言いなおす。

「どうしたの?」

 はてしなくひろがるあさく冠水した塩の平原に、高地特有のえわたった空が映りこみ、世界のすべてが均衡をたもとうと息をつめるなか、何者にもとらわれない自由を象徴するように、彼女の白銀の髪だけが風になびいていた。

 さきほどこぼれた涙は錯覚だったのかとおもうほどに、ヴァイオレットのひとみいだ水面みなものごとき静寂をたたえている。ちいさくかぶりをふった彼女は、ひと呼吸分の沈黙をおいて可憐かれんな唇をひらいた。

「もし未来を垣間みることができるとしたら、あなたはなにをしますか?」

 質問の意図をはかりかねて答えがおくれ、指揮者のザッツ、合図をのがした奏者の気分で自分の思いをつたえる。そのあとで笑みとともに付けくわえた。

「未来がみえてもみえなくても、私のしたいことはそのひとつだけよ」

「あなたらしい答えだとおもいます、とても」

 すんだ、抑揚のない声がかえってくる。本当にそう感じているのだろうかとおもったとき、車椅子くるまいすの手押しハンドルをもつ手をあたたかな感触がつつんだ。陶器の人形のようなうつくしさにそぐわない手のぬくもりは、いつもクレアをおどろかせた。

 ふたたび沈黙がおとずれる。ただし困惑はなかった。なにかをつたえるため、時がみちるのをまっているのだと理解した。託宣をまつ信仰者の忍耐をもって沈黙をたもつ。やがて巫女みこ静謐せいひつさをもって唇をひらいた彼女は――。


 クレアは暗闇くらやみのなかでまぶたをひらいた。

 いきなり引きもどされた現実に違和感をおぼえながら、ようやく日常になじんできた天井をみあげる。かすかな雨音にまじって、睡眠モードに入ったシュリのおだやかな呼吸がきこえて、みじかく吐息をもらした。

 五年のあいだ繰りかえしみてそれでもなお、火傷やけどのように心のおくで痛みつづける夢だ。

 視点移動によるジェスチャー認識を有効にして、プライベートレイヤーに現在時刻を表示する。夜明けにはとおい時間だ。コマンド入力を検知したシュリが、クレアの方をむいた。

「やや早いようですが、起床しますか?」

「いいえ、まだいいわ。シュリもやすんでおいて、私がおこすまで」

「承知しました」

 みっつかぞえてから、首をめぐらせて隣のベッドをみる。シュリは瞳をとじて睡眠モードにもどっていた。

 夢のなかでみた透明なしずくが、彼女の頬にのっている気がして目をこらす。すべらかな曲面はかわいていて、自嘲じちょう気味ぎみな笑みがこぼれた。

――私たちを焼きつくす炎をおってください。

 不意に、夢のつづきでつげられる言葉を思いだす。自由にうごかせたころの手にそえられたやさしい温もりと、菫色すみれいろの瞳にやどった真摯しんしな輝きがよみがえって、火傷の痛みがました。つい声をもらす。

「ねえ、……どうしてあなたは、そんなことをいったの?」

 返事はない。しずかな寝息だけがかさなっていく。

「私、ここまできたわ。あとはどうすればいい?」

 クレアの言葉は薄明かりのなかを漂いつづけた。

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