チャイナタウン

     ★☆★☆★


 同時刻、ロウアーマンハッタンの象徴ともいえる高層ビルが稠密ちゅうみつするエリアからわずかに外れたその地区は、今日もおおくの人々でにぎわっていた。

 赤と黄色、そして金。雑多という言葉がこれほどふさわしい光景もめずらしい。複雑な形状の文字をえがいた派手な色合いの電飾がひしめく人々と夜のやみをてらし、店のそとまであふれだした品々や屋台がふさいだ往来では、まくしたてるような独特の口調の言語が飛びかう。英語をつかうことすらとまどわせる雰囲気こそが、彼らの、彼らによる、彼らのための街を、世界中どこにでも出現させるバイタリティの現れである。

 そうしたにぎわいとは一線を画する仄暗ほのぐらい路地裏、彼らがおもんじる身内意識の裏がえしである排他性の結晶のような一画に、擦過音がひびいた。りゅうのレリーフがほどこされたオイルライターがふたりの男をてらす。

 くわえた煙草たばこに火をともした中年男――ぼさぼさの髪とくたびれたスーツは、さながらかまう人もないまま、屋外につながれて年老いた犬の風情である――が、となりの同年代の男に手をそえてライターを差しだすと、白衣に凶相、栄養失調の死に神といった風貌ふうぼうの男は、だまって顔をちかづけて自分の煙草に着火した。どちらもこの国の人口構成のうえでは七割をしめながら、この場にもっともふさわしくない人種である。が、それを気にした様子はない。

 ふたつの紫煙が宵闇よいやみにまぎれる。ライターをしまったあと、煙草の箱をながめていた老犬が口をひらいた。

「このチャイニーズ・スクリプト。どうよんだらシアン・チー・シュアンになる?」

 神経のほそい人間であれば逃亡を決意させるに十分な視線を投げかけたあと、死に神は煙草のロゴを指差し、一文字ずつ読みあげる。

シアンチーシュアン

「意味は?」

「……香りさわやか」

「ああなるほど。そりゃいい。香りさわやか、ね。……ふむ」

「煙草の話をしにきたのか? 人の仕事を邪魔してまで」

「別段いそがしい訳でもないようにみえるが。……いや。ここが暇ということは、すくなくともこの地区は平和ということになるか」

 自分の料理に感想をいうようにつぶやいたスーツの男は、ほそく煙を吐きだすと、よほど親しいものでなければわからない程度に表情をかえた。

ひな鳥籠とりかごをでる」

ファンはなんと?」

「とくになんとも」

「そうか」

 どちらからともなくみあげた空には、街の光にさえぎられ、わずかな星が散見するばかりである。

「お前には感謝しているんだ。なんというかな……、本当に、心から。お前がいなければ――」

「――礼ならすべておわってからきこう」

「そうだな。全部おわってからか。うん、それがいい」

 夜間にもかかわらず、かすかな羽ばたきがきこえた。ながい尾羽をもつ鳥が、闇をたたえた空へと飛びさっていく。

 くたびれた男の拡張現実のプライベートレイヤーにメッセージの着信がつげられた。ジェスチャーでコマンドを実行して開封する。

『She's singin' now.(いま、彼女がうたってる)』

 たった三語の文章を何度も読みかえした男は、まぶたをとじた。とおい場所の物音をきこうとするように。

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