kalaviṅka

望月結友

序章 迦陵頻

電脳空間

 はじめに、光がある。

 視覚の接続が確立されたところで、彼女たちは状況を確認した。目のまえには、メタバースプロトコルが適用されていない仮想現実の無機質な光景がひろがる。

 機能単位に分けられたモジュールの構造体であるサブシステムが、枝葉をのばして絡みあい、寄りあつまって構成された巨大な複合情報システムの、ビットの大洋にうかぶ氷山をおもわせるその威容の内側から、ふたりは上方をみあげた。

 一般公開を目的として水面上に構築されたサブシステムのひとつに、滂沱ぼうだのごとく降りそそぐものがある。

『ねえシュリ、まえからききたかったんだけどいいかしら』

『なんでしょう』

 クレアの視界のすみに表示されたチャットウィンドウに、ただちに返信があった。懸命に展開する防壁をつぎつぎにやぶられていく保守エンジニアたちの奮戦を背景に、カフェのオープンテラスでかわすような言葉がかさねられていく。

没入ダイヴした瞬間、レモンみたいな香りがするでしょう?』

『いいえ。それは人間に特有の反応とされています』

『そうなの?』

『複数の箇所が協調して働くという脳の性質に起因するものだとかんがえられています。現在の神経科学に証明するすべはないようですが』

『ライムとレモンのどっちに似てるか、シュリの意見をききたかったんだけど』

『私の意見はも角、ライムという意見が五パーセントほどおおいようです、統計によれば』

『折角だけど、どうでもいいわ。シュリ以外の意見なんて』

 押しよせる情報のあらし翻弄ほんろうされるサブシステムはいまや、荒れくるう海にただよう小舟の様相を呈していた。オフィスでは、不意に仮想現実から浮出エキジットさせられた社員たちがかおをみあわせる。その拡張現実にはみな、まじないにひとしいエラーメッセージが通知されていた。

 二十世紀の著名な作家の言葉に、「十分に発達した科学技術は、魔法とみわけがつかない」というものがある。

 蒸気機関や内燃機関といった原動機にはじまり、テレビジョンや映画などの映像配信、そしてコンピューターにいたるまで、動作原理をしらずとも容易にあつかえるようにすることで、人類は科学技術を魔法とひとしいものにしてきた。

 現実とみまごうばかりの仮想現実Virtual Realityや、感覚器の神経伝達に情報を付与する拡張現実Augmented Realityも、そうした魔法のひとつである。

 それら電脳空間における魔法を実現している要素のひとつが、複数の階層で構成された通信規約プロトコルによって伝達される情報データだ。最上位のメタバースプロトコルから下層へと順に目を転じていけば、表現される情報は次第に原始的なものとなり、最終的にはビットデータの大海にまで辿たどりつく。物質から分子から、分子は原子から、原子は素粒子から構成されているように。

 科学技術が魔法とひとしくなるのであれば、その動作原理を自在にあやつるものたちは魔法使いにひとしい。高度に科学が発展した時代においての。

 そんな魔法使いの端くれ、情報システムの保守エンジニアたちから定時退社を取りあげたのは、十九世紀からよみがえった反機械主義者、ネオ・ラッダイトの一部過激派による抗議活動であった。

――我々はミルキーオーシャン・サイバネティックス・テクノロジーズ社が推しすすめる、人工知能の医療現場への導入について、以下の点において異議を申したてる。

 そんな書き出しではじまるメッセージを受けとったカスタマーサービスのひとりの社員が、つづく文章の冗漫さに辟易へきえきしてきたころ、全世界に蔓延まんえんしたボットネットワークに指令がくだされ、そこにつらなるあわれなゾンビコンピューターたちが返信先を攻撃対象に設定したさまざまな接続要求をきちらし、生真面目なコンピューターたちがそれに数度の応答をよこすにあたって、指数的に膨れあがったパケットが大手サイバネティクス企業、ミルキーオーシャン・サイバネティックス・テクノロジーズ社に押しよせることになった。

 システム部のいつもの怠慢でシステムがおもいと営業部が的はずれな苦情をあげ、繰りかえされてきた軋轢あつれき呪詛じゅその言葉をはきながらエンジニアのひとりがコンソールにむかい、システムを翻弄する暴風雨にきづいて青ざめ、報告をうけた上司が頭をかかえたのが五分ほどまえの出来事であり、付属する医療施設の病室で、今まさに手をつけようとしていた夕飯を、クレアが延期することにきめたのは、それから数秒後のことである。

『シュリ、コマンドのバインドと聴覚のフィードバックを有効にしてくれる?』

『承知しました』

『はやくおわらせて夕飯のつづきにしましょう』

 クレアのコマンド入力をうけてふたりは跳躍した。常人には到底あつかえない速度で巨大な構造体すれすれをぬうように飛翔ひしょうしながら、押しよせるパケットのひとつをつまみとってリクエストの本来の依頼主を特定し、ボットネットを構成するゾンビ・コンピューターの一台を探しあて、そこを踏み台ピヴォットポイントにした。

 自分のタブレット・コンピューターがサイバーテロに加担しているとは露ほどにも思わないながらも、急に緩慢になった動作に首をかしげたのちに動画サイトの閲覧を再開した所有者の女性を尻目しりめに、クラッカーにしこまれたバックドア、遠隔操作プログラムを発見して送られてきた指令を解析、送信元を探知するまでを数秒でおわらせたふたりは、攻撃者の居場所へんだ。かろやかな歌声をひびかせながら。


 クドラクというスクリーンネームでしられたその男は、上機嫌であった。

 シャンデリアの蝋燭ろうそくの抵抗もむなしく、ほとんどが深更のやみにしずんだ壮麗なゴシック建築の謁見の間にひとり、最奥の玉座にふかぶかとこしかけて趨勢すうせいをながめる。

 こだかい丘にそびえる中世ヨーロッパ調の城も鬱勃うつぼつたる森も、実際の光景ではない。標準仕様であるメタバースプロトコルの実装を通じて再現された仮想現実だ。

 多重電脳空間メタバースが生活のインフラストラクチャーとなってひさしい。先進国総人口の倍ほどのユーザが日に一度はなんらかの形で接続し、だれもが任意に構築可能な世界の単位であるノードは増加の一途いっとをたどった結果、その数を把握することすら不可能となった。

 クドラクの城が存在するのも、そうした数多あまたのノードのひとつである。一般家庭にはめずらしくなったワークステーションのなかでも抜群の性能を有する最新鋭の機種と、そのありあまる処理能力を利用しておさないころから心かれていた吸血鬼伝承を再現した空間は、文字通り彼の城であった。

 だが、いま重要なのは現在進行中の局面にある。

 いくつかのソーシャル・ネットワーク・サービスでは早くも彼の本業の成果が話題になりつつあった。たった数十分の作業でこの国の平均月収二月分の報酬がえられるという事実も高揚を後押しした。

 みろ、おれはすごい。お前たち一般人とは格がちがう。自然への回帰を標榜ひょうぼうしているくせに、ちゃっかりネットで仕事を依頼してくる馬鹿ばかどもともだ。そう吹聴ふいちょうしたくなる衝動を必死にこらえた。

 ふと、かすかな違和感をおぼえる。体のどこかにあるちいさな歯車がひとつ、動きをみだしたような。馴染なじみとなった感覚だった。電脳麻薬の効果が薄れはじめたのだ。ちかごろアンダーグラウンドに出回りはじめたソーマとよばれる新種が、極上の多幸感と引きかえにもたらす、全身をおそう痛みや吐き気、蟻走感ぎそうかんといった禁断症状の前触れである。

 頭をふって気怠さを追いはらう。俺はプロだ。依頼された仕事はきちんとこなす。バインドしたコマンドをジェスチャーで呼びだしてボットネットワークのステータスを確認しようとしたとき、ガラスをはじくような音とともにメッセージの着信が通知された。

 差出人が空白のメッセージだ。首をかしげる。

『こんにちは。サイバーテロリストさん』

 文章の意図を理解できるまで、しばしの時間を要した。そしてその反動を禁断症状の予告があとおしして、怒りは瞬時に沸点をこえる。

 こいつ、俺がどこにいるか特定して、すべてお見通しだと言ってよこしやがった。どす黒い感情が渦をまく。俺をコケにするとどうなるか思いしらせてやる。メッセージの送信元をさぐった。

『先週のアスクレーピオス社の分散反射型サービス妨害DRDos攻撃もあなたの仕業?』

 二通目を読みおえるまえに送信元が判明した。どこまでも人を馬鹿にしている。しかるべき報いをあたえるべく、タイミングをはかった。

『すこし話があるのだけどいいかしら』

 つぎのメッセージが着信すると同時に、渾身こんしんの力をこめて腕をふるう。噴出した業火は壁を溶解させて、轟音ごうおんとともに森林の一部をぎはらい、燃えあがらせた。つよまりつつあった不快感が、わずかにとおのく。

 現実世界の体は動いていない。神経細胞に根をおろしたナノマシンと協調し、脳から発せられた神経伝達に割りこんだうえで、登録されたコマンドに置換してその結果をフィードバックする同期構成型Synchronous Composed共通ブレイン・コンピューター装置Universal Brain-computer Apparatus、SCUBAの働きである。

「ざまあみろ。ふざけた真似しやがるからだ」

 興奮と禁断症状が声をふるわせた。室内を煌々こうこうと照らしだす光に目をほそめる。

 「ゲヘナの火」、対象のSCUBAに過剰な痛覚のフィードバックを起こさせる自作の違法プログラムは、敵対した何名もの人間を病院送りにしてきた切り札だ。ゲヘナの火とそれを自在にあやつるスキルが、彼の名をたかめる礎ともなった。

 ピークをこえた怒りが水平にちかづくにつれて、実感をともなわないまでも、人をきずつけた後味の悪さが腹の底あたりに滞留しはじめた。しかし、他人のワークステーションに侵入するなどゆるされることではないのだ。自身の行いを棚にあげて何度も繰りかえしたのちに、つばをはいた。

『とんだ挨拶あいさつね』

 予期せぬテキストの到来に声がもれかける。プライドでそれを抑えこみ、冷静な分析を試みた。

 あれをくらって無事でいられるはずがない。あたらなかったのだ。用心ぶかい人間なら当然、居場所をつかまれないよう偽装もするだろう。すこしばかり相手を見くびりすぎたという反省とともにメッセージの解析結果をみる。そして瞠目どうもくした。

 壁に生じた破壊痕はかいこんにあわててちかづく。百メートルほどむこう、電子の炎につつまれた灼熱しゃくねつの中心に、その姿があった。

 メタバースプロトコルをつかっていないらしく、代替の中性的なデフォルトアバターである。異常な光景に息をのんだ次の瞬間、さらに信じがたい事態が発生した。

 ゾンビコンピューターたちへ勝手に停止命令がくだされ、ボットネットワークが沈静化していく。得体えたいのしれない何者かが、好き勝手に俺の居場所を引っかきまわしている。憤怒とも恐怖ともつかぬ感情、そして禁断症状の耐えがたい吐き気に体をふるわせる。

『このプログラムをとめてくれれば、それでよかったのだけど』

 数語のメッセージが、理性を完全に吹きとばした。ワークステーションをフル稼働させ、数千のプロセスを同時に起動する。

 あたり一面を覆いつくすほどのゲヘナの火が呼びだされ、森を真昼へと変貌へんぼうさせた。ほとばしる雄叫おたけび、あるいは絶叫。追いつめられたホラー映画の登場人物のごとく、ただ一点にむけてつぎつぎと撃ちだす。苦労して作りあげた城が、森が破壊され、虚無がひろがっていく。

 取りつかれたように一連の作業を繰りかえす彼の耳に、かすかにきこえる音があった。あまりも場違いなうつくしい歌声。その響きは記憶の奥底から、どこかできいた噂話ネットロアを呼びさました。

 いわく、その名を誰もしらず、姿すらみたことのない、凄腕すごうでのハッカーである。

 いわく、そのたえなる歌声をきくのは、脳をやかれて天にめされるときである。

 いわく、その正体は、仏教ブッディズムでいう極楽浄土に住む半人半鳥、迦陵頻伽カラヴィンカである。

 不意に歌声がとぎれた。デフォルトアバターは、何事もなかったように余燼よじんにたたずんでいる。徹底的に破壊しつくされ、廃墟はいきょと化した城で、涙とも鼻水ともしれないもので顔中をぐしゃぐしゃにしたクドラクが、くずれるようにひざをついた。

「……なあ、あんた迦陵頻伽なのか?」

『その呼び方は分不相応だわ』

 メッセージを読みおえるまえに、違和感にきづいた。身動きができない。コマンドが発動しない。

『あなたのSCUBAをロックさせてもらったわ。もうすぐ州警察がくるけど、無理に浮出エキジットしないことね。わるくすると障害がのこるわよ』

 デフォルトアバターはきえた。あとに残されたのは、ネットでしか持ちえなかった矜持きょうじをくだかれて呆然ぼうぜんとする、ひとりの内気な失業者ノーマン・フィンチの姿であった。


『ないてたわね、あの人』

『自業自得ではないでしょうか。本気でクレアをころそうとしていましたし』

『まだ、ころされるわけにはいかないわね』

 夕飯を再開すべく、ふたりは自分たちの病室をめざしてける。

『それにしても迦陵頻伽だなんて……。おこがましいことこのうえないわ』

『わたしはあなたの歌声がすきですよ?』

『うれしいわ、そういってもらえると』

 胸のおくにともりかけたぬくもりは、忘れえぬ痛みも照らしだす。

『ねえシュリ、たくさん話をしましょう』

『承知しました。それが望みであれば』

 もうできなくなった分まで、とつたえかけて、クレアは言葉をとどめた。

 ミルキーオーシャン・サイバネティックス・テクノロジーズ社のエンジニア、および彼女を担当する医師や看護師からのメッセージが殺到する。開封はすべて、あとまわしにすることにきめた。医師や看護師の分は、まちがいなく勝手に病室を抜けだしたことへのおしかりであろう。

 みじかいフレーズをくちずさみ、メッセージ・ウィンドウを非表示にする。そのなかにひとつ、毛色のちがうメッセージがあることに、クレアはまだ、きづいてなかった。それが彼女の待ちのぞんでいた、この国の法執行機関からの返信であることにも。

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