リサの覚醒
「リサァァァァァッ!」
アヤネの眼前に、水龍の舌が迫った時、カナが吠えた。
カナは、水龍の腹部に閉じ込められているリサへと鬼気迫る表情で訴えかけていた。
「お前は、なんでそんなところで寝てるんだッ! 腑抜けている場合かぁっ!」
カナの、普段では見ることができないその激昂は、アヤネも驚く程だった。いつもは、気だるそうに重そうな瞼を支えて、仕方なく付き合っているんだぞというスタンスをしているカナの熱い叫びは、湯気の立ち込める温泉の空間に鋭く響く。
湿り気を帯びた暑い空気が、その一瞬は清涼な風に浄化されていくようにも感じられる。
「ムダよ。声なんか届かない」
水龍は陰湿な笑みを浮かべ、カナの言葉を踏みにじる。そして、アヤネの正面に向けた舌先をヘビのように二又に裂けさせて、右と左に分けさせるとアヤネの両耳にそれぞれ向かっていった。
「あなたは、随分と頑固だから……直接脳みそに注ぎ込んであげるわ」
ジュルル、と嫌な水音を立てて、不気味な管が、アヤネの耳朶を舐め上げた。耳の孔から侵入し、そのまま脳に『スローライフ』の温泉を浴びせようというのだろうか。ゾッとするやり口に、アヤネは表情を青ざめさせる。
アヤネに危機が迫っていることに、カナの顔にも焦りが浮かんでいた。
無駄などと言われても、カナはリサに語り掛けるしかなかった。リサ自らが、あの自堕落の温泉から抜け出すことを願ったのだ。
「リサッ! お前がウザいくらいに言ってた夢を、なんで投げ出す! お前が追いかけたアイオリアの解散のせいかっ?」
ゴボゴボ、と水の流れにリサは弄ばれて反応を示さない。
「アイオリアでも叶えられなかった、メジャーデビューの夢が、こんな駆け出しの私たちに叶えられるわけがないって思ったのか!」
「フフ、無駄無駄。さあ、風使いのお嬢ちゃん……心地よい快楽の世界に連れて行ってあげるわ」
じゅぷっ――。
アヤネの耳の中に、二又に裂けた舌先が挿入されてしまった。気色の悪い温度が存在感を妙に感じさせる。耳の中に、ジュルジュルという水の粘着質な音が脳の中にまで伝わってくるようで、アヤネはおぞましさに鳥肌を立ててしまう。
「ひっ……」
「怖がらないで。天国に行くだけだから」
余裕の笑みを浮かべる転生者のその表情が、悔しかった。アヤネは、悲鳴を上げながらも、敵である相手の隙を伺い続けていた。
必ず、チャンスは訪れると信じていた。自分が生きる世界を、社会を、信じたいと思う、若く清々しい心が、目の前の堕落した精神に負けるなどあってはならないことだからだ。
若く、経験の浅い自分たちは、まだまだひよっこで、世の中で『自分らしさ』を訴えかけたって、理不尽に踏み潰されるだろう。
正論に似た『堕落』によって。
「お前が言ったんだぞ! 世界征服をしたいって!」
「あひゃひゃひゃッ! なぁんだ、そのバカまるだしな夢はぁ!」
嘲笑うシェイド。
舌先が、アヤネの耳の中をべろりと舐めていく。
「人の心に、ぶつかるような音楽で! 雑多な世の中に! 世界に響く音楽で、『自分らしさ』をぶつけたいって!」
「世の中が、音楽なんかで変化するかぁ! 堕落堕落堕落の社会! 世の中を憎み、愚痴だけは立派に零す人間が、社会を変えようなんて微塵も思わない! 忙殺されて溺れて死ぬのが社会なんだよッ」
「私は音楽なんか、どうだってよかったッッッッ!」
カナが、これまで以上に熱く吠えた。自分の能力の火炎よりも、熱く、内側に生まれるエネルギーに従うように。
「私が、バンドをする理由は、リサの夢を追う姿が尊かったからだッ!」
その言葉に、恐怖に染まりかけていたアヤネも同調した。
もう、耳の奥に潜り込まれた毒薬を噴き出す管が、今にもそれを吐き出そうとしているが、カナの声に頷いて、アヤネも訴えかけた。
「リサさん! 何もなかった私に、教えてくれたのは、あなたなんです! おねが――」
ブジュジュジュジュッ!
気味の悪い音が身体の中でしたように思ったアヤネは、最後まで言葉を発することなく、意識を飛ばした。
耳の奥で『スローライフ』が温泉を噴射したのだ……。アヤネはそれでがくん、と倒れ、反応を示さなくなった。
「アヤネぇッ!」
「フウ~~。あとは一匹」
じゅぽ、とアヤネの耳から舌を引き抜いたシェイドは、ゆっくりとカナに振り返る。
そして、シュルシュルと蛇の舌のように、熱湯を噴射する舌先を出し入れする。
「リサ……! 夢を諦めるのは、いつじゃないといけない?」
リサは水龍の中で揺蕩う――。
「私はこんな世の中が気に入らない……。転生者を生み出すような世の中が……。だから、世界を征服しようってあんたの言葉、本当に眩しく思った」
きらり、と、小さな光が見えた。
水龍の腹部付近に。
小さな、針くらいの何かだった。それが、反射して光ったのだ。
「だから、私は、戦っていた。独りでも、戦ってやるって……。周りが認めなくても、自分の求める世界を作りたいから」
「さあぁ、炎使い……。あんたはちょっとばかり、事情が違うんでねェ……。簡単には天国には逝かせないよ……?」
水龍の眼光が妖しく光る――。カナを嬲り者にしようという意思が垣間見えた。
「でも、アヤネが仲間になって、ハルカも思い出してくれて……。あんたは、そのままでも十分なくらいかっこよくて……」
水龍の腹部の小さな、小さな光は、空気で作られた針だった。
それが水の流れに乗るように、中に囚われているリサに接近していった――。
――カナが猛りをぶつける様子に気を取られたシェイドの隙を突いて、アヤネが打ち込んだ、小さな、小さな『らしさ』の風の針だ。
「私、バンドがやりたいんだ」
ちくり、とリサの指先を貫いた。
痛みが、走る――。心地よいだけの世界に溺れていたリサに、リアルの痛みが。
「リサ……諦めるな。お前の『らしさ』は、誰よりも真っすぐなんだ。それが好きなヤツがいるんだよ!」
水龍の化物が、口を大きく開き、そこから凄まじい水圧を伴った水流を吐き出した。
激しい水しぶきがカナを襲い、カナは強烈な打撃に声も出せずに吹き飛ばれた。
「うぐ……」
激痛が走った。もろに腹部に直撃したのがまずかったのか、吐き気すら襲ってきた。あばらにひびが入っていると自覚できた。
「このケダモノが。調子付き過ぎちゃったねェ。異世界転生を認めないから、こうなるんだよ」
五メートルはある巨大な蛇に似た水龍は、その身体で倒れるカナに巻き付いて締め上げてきた。ヒビの入った肋骨がいよいよ悲鳴を上げ、ミシミシと背骨が鳴く。
「うがあ……っ」
「まったく、大した問題児だよ。人間でもないあんたが、しゃしゃりでてきてアタシらを否定する権利があると思ったか?」
憎悪に満ちたシェイドの声に、カナは肺を圧し潰されて声も出せない。呼吸が乱れ、ゼヒュゥ、と嫌な空気漏れが口から出るだけだった。
「あんたは、どこの穴から、注がれたい? 口か? 耳か? それとも……くくくっ」
不気味な管の舌が躍っていた。捕らえた獲物を弄ぶことを嬉々としているらしく、カナの身体にずるずると執拗に這わせて、反応を楽しむ残虐性も見せた。
「くたばれ……ゴミ」
カナはそれだけ言ってやった。気丈にも笑みすら浮かべて見せた。
体が限界を訴えていた。嫌な音が身体のあちこちからしている。激痛が走っているのに、意識がもうろうとしてきて、『終わり』が近いのかと思わせる――。
――――。
――。
(痛い……)
何かがちくりと、指を刺した。そこからじんじんと痛みが走って、どろりとしている視界をゆっくりと覚ましていくように感じ取れた。
何がどうなっているか分からない。全身麻酔でもかけられたかのように、身体の力が入らない。
目を開く。
(ハルカ……? アヤネ……)
ハルカとアヤネが倒れ込んでいた。何があったんだろう。
(カナ……)
一番近くに、カナの身体があった。手を伸ばせば届きそうだった。リサは、痛みが走るその手なら、動かせると思った。
(……でも、なんでアタシ……こうなったんだっけ)
よく覚えていない。覚えているのは、アイオリアが解散するということだ。
アイオリアと出逢ったのは中学生になったばかりの頃だ。ひょんなことからバンドメンバーと話す機会があって、軽音を知った。
聞かせてもらった演奏は熱く、胸が躍った。
自分もこんな風にやってみたい、と、純粋に思っただけだ。それが、リサの一歩を動かした。
弦楽器は苦手だった。歌もへたくそできちんと歌えない。でも、リズムを刻んで心地いい振動に身体を動かすのが最高に気分を高揚させてくれた。
ドラムを触らせてもらった。
自分の心臓を更に激しく動かしてくれるような音が、リサを虜にした。
音楽を、やりたいと、走り出していた。
貪るように音楽を聴いた。同年代の女の子が音楽作りをして、評価されていることも知った。音楽を作れるソフトを買って、パソコンで曲作りを始めた。
駆けているうちに、独りだけで何度もトラックを周回していることに気が付いた。
共に走る仲間が欲しいと憧れた。
アイオリアのように、アイオリアのように――。
高校生になった。夢が実現に近づく、もっともヒートアップできる青春の時期。
ここなら、仲間を見付けられる。いないなら、伝える。それが音楽だから。あの日のアイオリアみたいに。
友達ができた。無理やりに誘ったと自覚していた。
それでも、ハルカは笑顔でついて来た。ハルカの友人であるカナもめんどくさそうにしながら、アタシの目をきちんと見てくれていた。
こいつは、捻くれてるけど、ちゃんとアタシの言葉を受けてくれてると、すぐに分かった。それが嬉しかった。
転校生が来た。
なんだかおどおどと自信がなさそうにしていた。初日にカナに絡まれたせいだろうが、だったらアタシが仲間に誘わなくちゃならないだろう。それが部長(仮)の責任だから。
――学校に、閉じ込められた?
……え? そんなことあったっけ。
アヤネがもう一人居て、アヤネを襲った。アヤネはアタシの仲間だ。アヤネを渡したくなかった。だから我武者羅に、アヤネに縋りついた――。
カナが、何かと戦ってるんだ……。
あいつは、良く分からないけど、確実なのは『夢を追う』ことを評価できるいい子だってこと。
だから、カナが苦しんでいるなら。アタシだって、手伝ってやりたい。
すぐ傍で、カナが苦しんでいる。
だから――。
リサは、痛みを感じる手を伸ばした。ぬるま湯のなかで、ゆっくりと、手を動かすと、カナの手を握ることができた。
「! なにッ?」
不気味な怨霊のような声が驚愕していた。動かないはずのリサが、カナに手を伸ばした事実が、信じがたかったのだろう。
「リ…サ……」
「カナ……」
「解き放て……『らしさ』を……」
「らしさ……」
「なんでも、いい……自分の内側の……、熱い塊を外に放つように……」
内側の、熱い……心臓に芽吹く種のような何かを感じ取れた。
リサは、それを強くイメージした。
それが、解き放つように……。
種が、芽吹き、芽を出す、ように――。
「な、なに! まさかッ、まさかコイツまでッ」
水龍は腹の中に閉じ込めていた無力な少女の内側に、危険な異能が放たれ始めているのを感じ取った。
このままだとマズイ、と本能が告げる。腹の中にこんなものが居たら……、と恐れた。
リサとカナの繋がれた手から、緑が生まれた。
それは生命力あふれる、緑葉であった。たちまち、そこから、蔓が伸び、葉が増え、水の内側から植物が大きく育ちだす――。
バシャリと、堪らずシェイドがカナとリサを身体から引きはがした。この植物は、こちらの水分を奪って成長していると分かったためだ。
植物は、命あるものだ。
それを具現化させる異能は、他の三人とは明らかに違う。
強大な可能性を孕んだ、リサのエネルギー。『らしさ』が顕現していく。
「バカなっ……植物を生み出す……チカラだと!」
「リサ……、やっぱり、お前……最高だ……」
体のダメージが深刻なカナは、身を動かせないまま、地面に崩れ落ちていたが、その正面に立つ、リサの姿を誇らしく思った。
「アタシの仲間に……手ェ出してんじゃねぇッ!」
リサの威勢のいい声が、異世界にヒビを入れる――。
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