目を閉じて見る『夢』と目を開き見る『夢』

 どろりとした泥が、身体に張り付いて、動きを鈍らせているような……そんな感覚がしていた。

 夢の中で、何かから逃げようとするとき、満足に身体が動かせなくなる時のそれに似ていると、アヤネは思った。


「う……」


 くぐもった声が口から零れる。本当はもっと大きな声で叫びたいのに、意識と体が連動していない。

 ちゃぷん、ちゃぷ、ちゃぷ……。

 温かい湯船が、波を立てると、耳障りの良い水音がする。

 アヤネは、また温泉に浸かっていた。

 ここから一度は逃げ出したはずなのに、いつの間にかまたここでぼんやりしたまま、肩までお湯に入って、身体を気怠そうに投げ出しているのだ。


(動かないと……、ここから、出ないと……)


 これが異世界転生者の仕組んだ罠だととっくに分かっている。このまま、この温泉に入り続けていたら、意識もいずれかき消えて、自分がなくなっていくだろう。

 それはとても恐ろしく、抵抗しなければならないのに、身体はだらりと力が抜けきって、湯船から立ち上がることもできない。


「く、う……」


 何とかできないかと、アヤネは力が入らない全身に、緊張を走らせようと歯を食いしばろうとしたが、それも満足にできなくて、かち、かちと奥歯が微かに鳴る程度だった。


「大した抵抗力ねぇ」


 湯煙の奥に、何者かのシルエットが浮かんでいる。

 どこかで一度見たことがあると分かっても、霞みだしていく思考では相手が誰なのか、明確に捉えられない。


 湯煙の影は、リサの母親を乗っ取ったシェイド――異世界転生者だった。

 異世界転生者は、まるで七福神の恵比寿のように、目尻を垂らして、のんびりとした表情を浮かべていた。第一印象は、優しそうな女性で、全てを包んでくれるような母性を携えているように思える。

 だが、その『優しい世界』がアヤネには不気味に感じられた。

 本来なら、穏やかな精神を持つことは悪い事ではないだろう。だが、この空間の穏やかさは『違う』と心が告げている。


 争うな、競うな、穏やかに、安らかに。

 まるで聖母の祈りのような讃美歌が奏でられ、恒久的な平和が約束されるような空間で、アヤネが恐れたことは、『自分らしさ』が溶けてなくなっていくように感じられたせいだ。


「い、いや……」

「しつこい子ねぇ……。この温泉の効能が染み込んでいるはずなのに……本当に頑固なのね」

「……こ、こんなの……間違ってる……」


 アヤネの必死の抵抗だった。まるで自分が幼児になっていくような感覚があった。精神が汚染され、乳飲み子のように、考えることができなくなっていくような、不気味さだ。

 人は、成長と共に自我が完成されていく。それが自分らしさを形作っていくのに、この温泉のお湯は、それを身体から洗い流していくようなのだ。

 抵抗しないでいい、楽になれと、アヤネの身体を余すところなく洗ってゆく。


「け、消したく、ないんです……、やっと、見付けたんだ……。夢中になれる、かも、しれない、もの……」

 アヤネが大事に心の奥底に持っている火種を、消さないように、溶けていく精神に熱を注ぐ。


「駄目よ。それは、多くの人を苦しめるの。あなたの成功は、誰かの失敗……。あなたが諦めることで助かる人が沢山いるの」

 あやす様に優しい言葉だった。気を許せば、あっという間に精神を奪われそうな、誘惑の声に、アヤネは、く、と拳を作ろうと力をこめる。

「あなたはまだ世の中を経験していないから、無鉄砲にそんなことを言うの。大人になれば分かる……。社会はきつい。つらい。若い頃に戻りたい……。色々な者があなたを追い込んでいく……。ストレスという毒が、あなたの清純な夢を汚していくのよ」

 アヤネの抵抗を削ごうというのか、相手はゆっくりと、催眠術でもかけるかのようにアヤネの耳元で囁いてくる。

「だったら、ここでゆったりと、温泉スローライフを楽しみましょうよ」


 アヤネは屈しないように、相手を睨みつけようとした。だが、それさえできなくて、とろんとした顔で、敵を見上げるしかできなかったのだ。

 歯がゆくも、その様は、完全に蕩けた表情で、快楽の世界に沈んだようにも見えてしまう。


「ほら、お友達も……もうあんなに、くつろいでる」


 そう言ってアヤネの顎をくいと持ち上げる転生者。アヤネは無理やり、湯煙の方を見せられるようになって、そこに、自分同様に温泉に浸かっている友人たちを見付けた。

 カナもハルカも、アヤネのようにぼんやりとした顔をして、『スローライフ』の世界に囚われているように見えた。


(カナさん……ハルカさん……)


 アヤネは声を掛けようとするのだが口がぱくぱくと開閉するだけだった。もう、いよいよ身体の自由が利かなくなってきていた。

 アヤネはなけなしの『自分らしさ』で、風の刃を作り上げ、自分の指先を斬った。

 じくりとした痛みがして、蕩け切ってしまいそうな心を無理やりに覚醒させた。

 今のアヤネには、痛みのほうが、恋しかったのだ。


「く……」

「この娘、どこまでも……!」


 なかなか屈しないアヤネに、穏やかだった転生者の声に、怒りが滲んだ。


「あなたは……この世界で、ノンビリとした生活を夢見て、やってきた転生者なんですね……!」

「そうよ。私は社会の忙しさに殺されたの。こんな世の中は間違っている……だから捨てたの」

「厳しいから、諦めるなんて、私は……もうしたくない……!」


 アヤネは今度こそ、歯を食いしばった。

 そして、震える足腰で湯船から立ち上がる。指先に感じる痛みだけが、今は命綱だった。

 ほんの少し前のアヤネなら、この転生者の言葉に簡単に流されただろう。社会は世知辛く、トゲを隠さなければ自分も他人も傷つけるから。だから、ただただ平穏と安寧を求めただろう。

 でも今は、少しだけ違う。

 リサが見せてくれたライブは、アヤネの中の燻る心に熱いものを届けた。

 もしかしたら、と期待が浮かんだ。とても小さな儚い期待だ。


 期待なんか、するだけ損だ。

 そんな風に考えていた自分が、もうそこにはいなかった。

 傷ついても、何かにぶつかり、相手を転げさせてしまっても、今は駆けてみたい。前に走って、跳んでみたい。願わくば、誰かと一緒に。

 共に駆け、共に跳び、共に着地し、その距離を確認しあって、自分と他人の距離を知りたい。

 重なる摩擦が、熱を生むと、リサが教えてくれた。

 それが夢を追う人間だと、リサは語らずに、行動で示していた。


 バンドがしたいから、作ろうと動き出したリサ。

 独りだけの戦いに対して、リサは動いた。困難だと分かっていても動いた。


「リサさんは、どこですか……」

「何をしたって、無駄よ。リサは夢を諦めるの……。音楽なんてやったって、将来安定しないもの……」

「安定がほしいなんて、リサさんが言ったんですか?」

「若い頃はね、なんでも無茶をして試すことが良い事だなんて思っちゃうのよ。でもそれは大人になれば分かる。なんてもったいない人生の使い方をしていたんだろう……とね」

「リサさんは、もったいないなんて、思わない……。例え、夢が叶わなくても、アイオリアの皆さんみたいに、終わりの時だって笑いあっていられる」


 かくかくと膝が笑う。立っているのもやっとのアヤネを、シェイドは見下していた。なんと愚かな娘だろう、と。

 若気の至りとはよくいったものだと、アヤネを哀れんですらいた。


「あのアイオリアってバンドだって、三十にもなってフラフラとして。情けないと思わない? いい歳した大人が、夢を追うなんて」

「……っ」

 キッ、とアヤネは俯きそうになってしまう顔を持ち上げ、シェイドを睨みつけた。

「噂を自分たちで流して、姑息な手を使った挙句、やっぱりダメだからって諦めたのよ。だったら、もっと早くに諦めてしまうほうがいい」

「だからって、こんなぬるま湯の世界が、素晴らしいなんて、思えない!」


 アヤネの風の剣が、大きくなっていく。消え入りそうな自分らしさを、精一杯あふれさせた。


「のんびりとゆったり過ごしたいと願う事の何が悪い!」


 シェイドの猛る声に反応して、温泉のお湯がザバリと波打った。そしてアヤネの身体を浴びせかかってくる。

 周囲の湯気すら、アヤネの肉体に纏わりついて、サウナのようにのぼせ上がらせようとしてきた。


「はぁ、はぁ……! ううっ……」


 アヤネは、どうにか風の剣でその靄を払おうと力なく振り回す。それで少しは蒸気が晴れるものの、今度こそ、アヤネの限界が見えてきた。片膝をつきそうになって、膝が笑うのだ。


「そのスローライフが、『夢』ならば、私は何も言いません……素晴らしい事です」

「な、なんですって?」

「でも……あなたのは、『夢』じゃない……。あなたは、ただ楽な日々を妄想して、そこに逃げ出そうとしているだけの存在です……。自分を取り巻く世界が気に入らないから、別の世界に逃げて心地よくなりたいと、甘えているに過ぎない!」

「説教言えるような年齢か、この小娘が……!」


 アヤネの啖呵に、いよいよシェイドは穏やかだった気配を崩して、憎悪の念を膨らませた。


「ガキの躾をしてやるわよッ!」


 吠えたシェイドは、リサの母親の肉体から、ブシャブシャと熱湯をまき散らして巨大な温水の人型になった。まるで、ファンタジーに出てくるウンディーネのように、液状の女の姿だった。


「それが、本体ですか……!」

「もういいわ、あなたの脳みそを溶かして、直接アヘ顔極めさせてやるッ!」

「下賎な!」


 アヤネの剣が水の精霊を模した愚者に襲い掛かった。風圧でかまいたちを作り、一閃する。

 ザッパアッ!


 ウンディーネの水の身体を切断するアヤネの剣風であったが、それは液状の相手にはあまり効果的とは言えない様子だった。シェイドは身体を波打たせて、切断された箇所を直ぐに埋め合わせすると、ニタリと笑む。


「そんなもので倒せはしない……!」

「く……。本当に……相手がどんどん強くなってる……」


 カナが言っていた通りだと思った。次から次に出くわすシェイドはどんどん手ごわくなっている印象だった。シェイドの強さは憑りついた『噂』『話題』によって比例すると言う。

 アイオリアのCDの噂は、それなりに知名度が高く、音楽の与える波紋は広いものだ。これまで相手にして来た、高校の噂程度とは格が違うのだろう。


「これからアイオリアのCDは、爆発的に売れていくわ。本人たちが辞めたって関係ないの。作られた音楽は広まっていく。いいえ? むしろ作った本人たちが解散したからこそ、さらにこのCDは話題性が強まって多くの人間が耳にしようとするでしょう。すると、私の『スローライフ』はどんどん音楽を通じて広がっていくのよ」

「そ、そんな音楽の使い方なんて……!」

 まだ駆け出しのバンドメンバーのアヤネでさえ、その言葉には許せないものがあった。

 音楽は、多くの人々の心を動かすためのものだ。

 それを、堕落のために広めさせようだなんて、音楽への侮辱だと思ったのだ。


「さあ、私の『スローライフ』はどんどん広まる! 止められるものなら――」


 ゴウウウッ――!

「ウグッ」


 シェイドが調子付いて高笑いをしようとした隙を突いた、業火が見事に直撃した。


「止めてやるさ」

「か、カナさん!」


 いつの間にか、カナが意識を取り戻して、右手を突き出していた。アヤネのように、『スローライフ』の能力に抗ったのだろう。


「アヤネが、時間を稼いでくれたから、こっちも立ち上がれた……!」

「ちっ! 厄介な! 火炎が水に敵うと思うなッ」


 転生者が凄まじい水しぶきを発射してカナに攻撃した。カナはそれをどうにか回避したが、シェイドの言う通り、水圧に対して、カナの火炎の術は効果的とは言えない。


「だったら、今度はあなたが、『砂風呂』を経験してみる?」


 どざざぁあッ!

 土砂がウンディーネの頭上に出現し、そのまま覆いかぶさるように降り注いだ。それはハルカの放った『自分らしさ』のカタチであった。

 砂を操れるハルカの攻撃は、液状の相手に対して、有効打になる。


「ぬううっ――。身動きが……!」

「ハルカさんも……!」

「アヤネちゃんの言葉、目が覚めたよ」


 弓矢を構える姿で、ハルカも立ち上がってくれた。三対一。いくら相手が大物のシェイドだろうと、これならば形勢逆転と言えるだろう。

 ハルカの砂の雪崩に水分を奪われたシェイドは、自分の肉体の半分を失って、明らかにダメージを受けている様子だ。必死に、水分をかき集めて、砂の海から脱出し、歪んだ顔を三人に向けた。


「異世界転生者を次々と消し去った異能者……まったく話の通り面倒な奴らだ!」

「話の通り……? やっぱりお前も誰かが手引きしたんだな!」

「なんだ、尋問のつもりか? まさか勝った気でいるのかッ? 状況はまだ、こっちが有利なのよぉッ――!」


 異世界転生者の言葉の端を捕えたカナに、あぶくがかき混ぜられるような不気味な声で叫ぶシェイドは、温泉の湯を全て集めて、自分の身体を膨らませていく。

 たちまち巨大な水の塊となっていき、五メートルを超える温水の龍に姿を変えた。

 しかも、それだけではない。その水龍の内部、お湯のなかに、意識を失っているリサが居たのだ。


「り、リサちゃん!」


 ハルカが悲痛な声を上げた。

 あのままでは呼吸なんてできそうにない、溺れてしまうのではないかと恐れたのだ。


「アハハハ。動いたら、この娘の脳みそを溶かしながら、溺死させる」

「どこまでも、卑怯な……」


 アヤネは剣を構えながらも、手出しができず、顔をしかめた。相手が高笑いしては、湯の体内でリサを水流で舐めるように弄ぶのを見せつけられ、何もできない自分が悔しかった。


「さて……動いてはダメよ、お嬢ちゃん達? 分かってるわねェー?」

「くっ……」

「よぉし、いい子だ。じゃあ、まずは厄介なあなたから、ヤっちゃおうかしら」


 ぎろりと水龍がハルカをねめつけた。凝視されたハルカは、表情を強張らせたが、相手がリサをゴボゴボと、いつでも殺せるんだぞと言わんばかりに弄るのを見せるので、抵抗も許されなかった。


 じゅるり、と水龍の口から舌に似た水の管が伸びていく。それがハルカに近寄っていくと、ハルカの口内を無理やり開けさせて、中に入り込んでいく。

 ずじゅるっ。

「んうっ……」

 口の中に奇妙な管を入れられたハルカは呼吸がしにくくなって、くぐもった声を上げた。だが、続いて、その水龍の舌から、ドクドクと、熱い液体が溢れてきて、ハルカに飲み干せと言わんばかりに注ぎ込んでくる。


「んんっ、んぐうっ……」

「ハ、ハルカ!」

「動くなよ、フフフ。ほうら、どうだい。効能がたっぷり含まれた有難い温泉だよぉ。気持ちよくなってくるだろう」


 んぐ、んぐ、とハルカの喉が動いていた。無理やりにシェイドの温泉を飲まされているのだろう。

 カナもアヤネも、ハルカを助けたいが、リサのこともあり、どうしようもなかった。

 ハルカは、ごく、ごくと嚥下音を立てて、やがて、がくりと膝を折った。じゅぶりとハルカの口から舌が引き抜かれたあと、ハルカの目は今度こそ、光を失って、だらりと口を開いたまま舌を垂らしているようなものになっていた。

 完全に、シェイドの毒に侵されてしまったのだ。


「さて……次は……生意気に抵抗した、風使いのほうかなァ。炎使いなんざ、目じゃないしね。あんたは最後にじっくり嬲りまわしてやるよ」


 ぐちゅりと水龍の舌がアヤネに伸びてきた。

 アヤネとカナは、リサを救おうと隙を伺うが、異世界転生者は、完全にアヤネとカナを手中に抑えていた。

 最早、敗北するしかないのかと、アヤネたちは背筋に悪寒を走らせる――。

 舌が、アヤネの口元に近づいて行った……。

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