6.そしてそれから

 夢の名残りか、目覚めの気分はあまり快適とは言えなかったが、それでも重い身体を引きずってベッドから出ると、彼女は昨夜のうちから用意しておいた着替えを手にとった。

 ネグリジェを脱いで畳み、ベッドの枕元へ。

 フロントにピンクのリボンがついたちょっと子供っぽいショーツも脱いでランドリーボックスへ入れてから、年相応(?)なデザインのライトグレーのショーツへと履き換える。シンプルな意匠だが、前の飾りボタンと縁取りのレースがちょっとお洒落だ。

 そのまま、お揃いの色のブラジャーを付け、制服の白いブラウスも着てしまう。

 いわゆるはだワイ──「裸にワイシャツ」に近いあられもない格好のまま、洗顔する。

 一応立場としては使用人でありながら、当主の姪でもあるという複雑な位置づけの彼女の部屋には、幸いにして洗面台とトイレが備え付けられているのだ。

 次期当主付き侍女とは言え、一介のメイドには過ぎた待遇だったが、何のことはない。この部屋は元々、「桐生院一族」としての彼女がこの屋敷に滞在する際の客室として用意されていたものなのだ。

 まぁ、実際、一昨日からその次期当主の許婚、つまり「次代の若奥様」と当主に認められた以上、不相応だと非難する人間はいないだろうが。


 冷たい水でシャッキリするととともに、夢の残滓をサッパリ洗い流した彼女は、タオルで丁寧に顔を拭いてから、ドレッサーの前に腰かけ、髪を梳かす。

 クセのない艶やかなセミロングの黒髪は、少しも引っかかることなくブラシを通した。

 ブラッシングで襟足を軽く内巻きにカールさせてから、カチューシャを着け、鏡を覗き込んで、おかしなところがないか検分する。


 「うーん、せっかくだから、もうちょっと髪、伸ばそうかしら」

 何気なく呟いてから、ふと彼女は困惑したような表情を、その可憐な顔に浮かべた。

 「あれ? 私の髪って、こんなに長かったでしょうか?」

 疑問を口にしてしまってから、小首を傾げる。

 (長いって……肩にかかるくらいだから別に長くはないですよね。でも、何だか昨日までとは違うような気が……いえ、きっと気のせいでしょう)

 微細な違和感はあったものの、あまり気に留めず、慣れた手つきでフェイスケアに移る。

 若さのおかげもあってか、彼女の肌は、ほとんどノーメイクでも白く滑らかだが、昨日、メイクしてくれた晴香に「それでもお肌の手入れはキチンとしておいた方がいいわよ」と忠告された。

 「でないと、20代半ばを過ぎてから後悔するからねー。フ、フフフ……」

 アラサー独身女性の虚ろな笑いが本気で怖かったため、コクコクと首を縦に激しく振ったのは、あまり思い出したくない記憶だ。

 とは言え、学校に派手なメイクをしていくつもりもない。

 結局、丁寧に眉毛を切り整え、ファンデは付けずに目元に軽くアイブロウを入れ、リップを無色でなく少しだけ薄紅色の着いたものに変えた程度に留まった。


 スツールから立ち上がると、今度は壁にかけられた制服に手を伸ばす。

 恒聖学園の女子制服は、広義にはブレザーに分類されるのだろうが、ややユニークな形状をしている。

 上着は薄い桜色で、一見セーラー襟タイプのタイトなブレザーと言ってもよいデザインなのだが、下に着るブラウスの襟が喉元まで覆うハイカラーになっており、その上に学年色のリボンタイを結ぶのだ。

 ボトムはオレンジを基調とした格子模様のボックスプリーツのミニスカート。中には膝上15センチまで詰めてる娘もいるが、彼女は比較的スカート丈が長いほうだ(もっとも、それでも膝上5センチくらいなので、駅の階段などでは注意する必要があった)。

 靴下に関する規定は「過度に華美なものを禁ずる」とあるだけなので、割合フリーだ。彼女の場合は、その性格ゆえか真夏以外は黒など濃い色合いのタイツを履くのが定番だった。


 ひととおりの準備が出来たところで、ゆかりは厨房へと足を運ぶ。

 学校のある平日は、朝はメイドとしての業務はしないのが習わしだが、それとは別に個人的な用事があるのだ。

 「おはようごさいます、晴香さん、美雨さん」

 「はい、おはよう、紫さん」

 「モーニン、紫っち」

 厨房では、メイド長の晴香と、平日の通いのメイドである東雲美雨(しののめ・みう)が朝食の準備を進めていた──と言っても、もう既に殆ど終わっているようだが。

 「えっと、調理場、使わせてもらってもいいですか?」

 「ええ、あとは配膳だけだから問題ないわ。頑張ってね」

 「は、はい……」

 優しい目をした晴香の言葉に勇気づけられ、早速調理を開始するゆかり。

 無論、言うまでもなく学校で摂る昼食のための“二人分の”弁当を作っているのだ。


 「ニヒヒ~、聞いたよ紫っち。昨日、坊ちゃんとおデートだったんだって?」

 ふたつ年上の美雨は、このテの話が大好物だ。晴香から聞いたのか、早速、ゆかりをイジリ始める。

 「え、えーと、その……はい」

 「おーおー、赤くなっちゃって、メンコイのぅ。流石「ミス・優等生」も、恋愛関係は完全に専門外なんだねぇ。いやぁ、おねーさん、ちょっと安心したよ」

 バンバンッとゆかりの肩を叩きながらアハハと豪快に笑う美雨。

 「美雨さん、からかわないの! さ、座敷に配膳に行きますよ」

 「ヘイヘイ。あ、初デートの話は、午後にでも聞かせてねン」

 メイド長に叱られつつ、ウィンクを投げて同僚が出て行ったことで、ようやくゆかりは弁当作りに専念できた。

 料理するのは好きだし、晴香などは筋がいいと褒めてくれるが、誰かに食べてもらうお弁当を作ったのなんて、昨日が初めてだ。

 しかも、今日は晴香の手助けもないとあって、卵焼きや鮭の照り焼き、菜の花と大根のおひたしといったメニューを、ゆかりは慎重に仕上げていく。

 その甲斐あってか、どうにか大きな失敗もせずにお弁当箱にできたおかずとご飯を詰めたところで、ふと壁の時計が目に入った。

 「たいへん! そろそろ起こしてあげないと」

 手早くランチマットで弁当を包むと、ゆかりは台所を出て、足早にイトコの部屋へと向かった。


 ──コンコン


 「あおい君、もう起きてますか?」

 軽くノックして遠慮がちに声をかけると、中から「あー」とか「うー」とか言う眠そうな声が聞こえてきた。

 一応起きてはいるようだが、心配なので「入りますよ」と声をかけてから、ドアを開ける。

 中に入ると、ボサボサ頭の少年がボーッと虚ろな目をしつつ、ちょうどベッドの中で上半身を起こしたところだった。

 「おはようございます、あおい君」

 「んーーーあ、ゆか姉、おはよ~ふわぁ」

 「眠そうですね、昨晩夜ふかしでもしたんですか?」

 「いんや、昨日はそんなに遅くなかったんだけど……ちょっと夢見が悪かったからかなぁ?」

 「あれ、あおい君もですか? 実は私もなんです」

 そう口にした瞬間、ふたりの心に何だか奇妙な違和感が浮かびあがる。

 まるで、結婚式の場に喪服で出席しているような、あるいは部活の剣道着姿で体育の授業を受けているような、「方向性はあってるんだけど、やっぱり何か間違っている」的もどかしい感覚。

 互いの顔を見つめ合い、昨晩の夢に思いを馳せて何かを思い出し……。

 

 ──ジリリリリリリリリリ!!!


 ……かけたところで、唐突に葵のベッドの枕元に置かれた目ざましが古典的なアラーム音をがなり始める。


 「うわっ、確かに7時だ。ごめん、ゆか姉、話はまた今度」

 「ええ、それじゃあ、私は台所に戻りますね」

 言いながら、部屋を出ようと背を向ける直前、パジャマの上を脱ぐあおいの素裸の上半身を目にしてしまい、ゆかりはドギマギする。

 ……と言っても、単に剣士らしく鍛えられ、引き締まった背中を見ただけなのだが、どうやらこの「純情お嬢さん」にはそれだけでも刺激が強かったらしい。

 「じゃ、じゃあ、なるべく早く着替えて、座敷に来てね!」

 頬をほのかに染めながら台所に戻ったゆかりが、朝食を摂りつつ美雨にからかわれたことは、言うまでもない。


 * * * 


 いつものように玄関前の廊下で待ち合わせして、いつものようにふたりで学校へと向かうふたり。

 それなのに──。


 「お待たせ、ゆか姉……ゆか姉?」

 「え? あ、ご、御免なさい。何でもないの」

 あおいにポンと肩を叩かれるまで、ゆかりは彼に見とれたままだった。

 (ど、どうしてかなぁ。なんだかあおい君が、いつもよりカッコよく見えるよ~)

 首にかかるぐらいの長さで揃えた髪を、起きぬけとは異なりキチンと整え、皺ひとつない恒聖学園の男子制服をパリッと着こなしたあおいの姿は、どういうワケかとても「新鮮」な印象をゆかりにもたらしたのだ。

 まるで「彼」が「初めて詰襟を着ているのを見た」かのように……。

 (そんなはずないよね。確かに、あおい君が恒聖に入ったのは今年の4月からだけど、先週末までの2ヵ月半ほど、毎日のように目にしてきたんだし……)

 字面だけ言えば、「彼女」の思考は確かに正しい。「六道紫」は、確かに毎朝「桐生院葵」とともに通学しているし、普通に考えれば葵の制服姿も既に見慣れているはずだ。


 ──そう、「普通」に考えれば。

 あるいは、じっくり腰を据えて思考をめぐらせれば、今の状況が「普通」ではないコトに思い至ったのかもしれないが、慌ただしい朝のタイムテーブルが、それを許してくれなかった。


 「それじゃ、行こっか」

 「あ、待って! そのぅ、こ、これ、よかったら……」

 ゆかりは、おそるおそる手に持った包みを差し出した。

 いぶかしげに受け取ったあおいは、中味が何かを察すると、パッと顔を輝かせた。

 「もしかして、コレ、お弁当?」

 「えぇ、あまり巧く出来たか自信はないんだけど……」

 「そんなコトないよ! ゆか姉の作った弁当なら、なんだって美味しいに決まってるさ!」

 「も、もぅ……調子いいこと言っちゃってェ」

 手放しで喜ぶあおいの様子に、謙遜しつつ満更でもないゆかり。

 「あ! あおい君、そろそろ行かないと、朝練に間に合わないかも」

 「おっと! 行ってきまーす! ホラ、ゆか姉も」

 慌てて玄関にある学園指定のローファーを履き、晴れて恋人同士となったイトコに手を引かれてに駆け出す「彼女」は、だから気がつかなかった。

 自分が本来何者であるのか。

 そして、昨日までは小さくて履けなかったはずの「紫の靴」に、なぜかすんなり足が入っていたことを……。


 ──それも無理はないのかもしれない。

 そもそも、金曜の夜に「鳥魚相換の図」の説明書を悪戦苦闘しつつ読み解いたふたりは、しかしながら重要な部分を読み飛ばしてしまっていたのだから。


『なお、本図の使用に際しては、以下の点に留意すること。

 壱。入れ替わった後は、七日以内できれば三日以内に元に戻すこと。

 弐。また、入れ替わった者は、可能な限り屋敷内に留まり、外部の人間に接触せぬようにすること。

 これは、入れ替わりが長引くにつれ、「立場」の交換のみに留まらず、仕草や習慣、さらには言葉遣いや考え方なども、立場にふさわしいものに変わっていくからである。さらに長期にわたって戻らないでいると、身体的な影響が生じる可能性もある。

 また、外部の人間と接触することで、ふたりに結ばれた因果の鎖に負担がかかり、前述の「その他の影響」が出るのが早まる公算が強い。とくに、不特定多数の人間と接触することは、本来のあるべき縁を壊し、新しい縁、すなわち今の立場にあることをより強めてしまうのだ』

 ─鳥魚相換の図・但書より─


 六道ゆかりと桐生院あおい。ふたりの少年少女が、その後、どのような人生を送ったかについて、詳しく述べる事は省こう。

 ただ、その日以来ずっと、ふたりは自他共に認める大変仲睦まじい恋人(許婚)同士であり、また、あおいが大学を出ると同時に婚礼を挙げて、正式に夫婦となった。

 結婚と同時に若くして当主の座を継いだ夫を、優しい妻はよく支え、子宝にも恵まれて幸せな生涯を送った──ということを付け加えておく。


 -終-

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次期当主はメイドさん!? 嵐山之鬼子(KCA) @Arasiyama

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