3.はじめてのめいど
濃紺色のメイド服を着た葵は、廊下を歩きながら窓に映る自分の身体をチラチラと見ていた。
(うーーん、なんて言ったらいいか……)
似合っている。それを着ているのが高校2年生の少年だとは思えないくらいに。
中学生くらいまでならともかく、高校生ともなれば男性は少なからず、いかつく筋肉質になり、手足が筋ばってくるものだ。
無論、遺伝や運動その他の諸条件で多少の個人差はあるだろう。そもそも葵とて、一族の中ではあまり得手ではない方だとは言え、まがりなりにも桐生剣術の基礎くらいは修め、毎日素振りなどもしているのだ。
普段、学ランなどを着ている時は、多少小柄ではあるが普通の少年に見えるし、裸になれば、その細い身体が、バランスよく鍛えられたしなやかな筋肉で覆われていることがわかるだろう。
ところが、今のように身体の大半を覆う衣服、それも女物を着てしまうと、優しい印象の整った小顔と、華奢な体つきのために、完全に女の子に見えてしまうのだ。
自分でも多少自覚はあったので、中学の頃から文化祭などで女装させられそうなイベントなどは巧みに回避してきた葵だったのだが……。
(なんでだろう。ユカねぇの服を着ることにはあんまり嫌悪感がないんだよねー)
さすがに自分から進んで着たいとは思わないが、自室で紫が着せてくるのには殆ど抵抗しなかったし、今もそれほど違和感はない。
ひとつには、小さい頃から慕っている姉代わりの女性の着衣だから、というのはあるかもしれない。
こうやって紫のタンスから取り出した彼女の下着を身に着け、昨日まで彼女が着ていたはずのメイド服をまとっていると、何だか優しい彼女の腕の中に抱きしめられているような、奇妙な安心感があるのだ。
(それに……女性の服って、肌触りとか着心地がいいんだよね)
幼い頃の遠い記憶が甦る。当時、紫の家で彼女のお古を着せられた時は、周囲の人がみんな「可愛い可愛い」と褒めてくれた。
「そうしてると、紫ちゃんと葵ちゃん、まるで姉妹みたいね」と言われてうれしかった。
(たぶん、僕は……ユカねえの「弟分」じゃなく「妹」になりたかったんだ)
あるいは、紫の分身に──紫みたいな素敵な人に。
そして、紫の服を着ている時だけは、その願いが叶うような気がしていた。
けれど、大きくなるにつれ、それは単なる幻想に過ぎないと知り、その時から、葵は「紫の妹」であろうすることを諦めたのだ。
「その願いが……まさか、こんな形で叶うなんてね」
元に戻るまで、葵は自分達以外のすべての人に「六道紫」として扱われるのだ。
いや、自分と本物の紫でさえ、人目がある時は、それぞれ今の「立場」にふさわしい言動をせねばならないだろう。
それは、必ずしも容易ではないが、今の葵にとっては、単に「次期当主」の責務から解放されたという以上にワクワクするような状況だった。
そうこうしているうちに、台所の前まで着た。
なんとなくカチューシャの位置やエプロンのリボンを確認してから、意を決して葵は台所の扉を開けた。
「お、おはようございまーーす!」
途端に朝の厨房特有の熱気と食物の匂いが鼻をくすぐる。
「あら、紫さん、今朝は珍しく遅かったわね」
コンロの前で味噌汁の味見をしてたと思しき30歳くらいの女性──メイド長の牧島晴香が、ちょっとだけ驚いたような声を投げかけてくる。
「す、すみません。目覚ましを止めてしまったみたいで……」
あらかじめ考えておいた言い訳をする。
「あらあら……たしかに春眠暁を覚えない時季だしね。あ、でも紫さんの場合は、遅くまでお勉強してたからかな?」
穏やかな気性のメイド長は別段怒ってはいないようだ。
そもそも、この朝餉の支度の手伝いは、紫が自主的にやってることなのだから、2、3日サボっても差し支えはないだろう。
それでも、律儀に代理として葵を寄越す紫も紫なら、それに従う葵も葵、似た者同士の生真面目さんなのだろう。
もっとも、目の前のメイド長には、今の葵は「紫」に見えているワケだが。
「ええっと、今からだと何をお手伝いしましょうか?」
紫の格好をした葵(ややこしいので、以下「ゆかり」と表記する)は、テーブルを見渡したが、すでにほとんどの料理は出来上がっているようだ。
「うーん、あとは焼き魚だけだけど、それも焼き上がるのを待つだけだから……あ、お漬物を切っておいてくれる?」
「はい、わかりました」
味付けその他の難度の高い作業を任せられなかったことに「ゆかり」はホッとした。
こう見えても(いや、見かけ通りという説もあるが)家庭科の成績は優秀なのだ。
沢庵やキュウリ、茄子の漬物を切って盛りつけるくらいならわけない。
流しのそばの調理台にまな板を置き、鼻歌混じりに包丁を使う「ゆかり」。
1分と立たずに、皿には色鮮やかな漬物が盛り付けられていた。
──が、それをビックリしたような目で見るメイド長。
「紫さん、腕を上げたわね。いつもは、いちいち確認しながらゆっくり丁寧に切り分けてるから結構時間かかるのに」
「! あ、あはは……練習、したんですよ、これでも」
忘れていた。紫の数少ない欠点……と言うか不得意なジャンルが料理だったのだ。
無論、あの優等生で努力家の紫のことなので、料理が全然出来ないとか激マズな代物が出来上がる──ということはない。正確には、この屋敷に来た当初はそれに近かったのを、根性で克服したのだが。
とは言え、掃除や洗濯、裁縫などに比べて、不得手な分野であることには変わらず、未だなみならぬ苦労しているようだ。あるいは、朝食の支度を手伝っているのも、その
対して、手先の器用な葵の方は先ほども言った通り、家庭科や図画工作は得意とするところ。
さらに余談だが、剣士としても、標準的な長さの打ち刀を振るう紫に比べて、葵は小太刀や懐剣などの短めの得物を使う方に適性がある。包丁程度の刃物であれば、それこそ己が手の延長のように自在に操ることが可能だ。
その気になれば、キャベツ丸一個の千切りを30秒フラットで終えられるという、あまり意味のない特技も持っているくらいだ。
「まぁ、紫さんは、相変わらず頑張り屋ねぇ」
一瞬ヒヤっとしたが、幸い普段の紫の性格から、怪しまれることはなかったようだ。
「ん、お魚も焼けたわね。さ、お盆に並べて、旦那様達のおられる居間まで、運びましょ」
「はい、わかりました」
(あぶないあぶない……ユカ姉の普段の行動を詳しく思い浮かべて、それをなぞるようにしないと)
内心、冷や汗をかきながらも、メイド長の指示に従い、配膳の準備をしていく「ゆかり」なのだった。
食器を満載したお盆を両手で持ち、メイド長の晴香のあとに続く。
ちなみに、「メイド長」という大層な肩書がついているものの、この屋敷に常勤するメイドは彼女以外にふたりしかいない。あとは、臨時アルバイトが水金と火木、土日にそれぞれひとりいる程度だ。
紫は、まだ学生との二足の草鞋だし、葵直属ということもあって、厳密にいえば晴香の指揮系統には所属していない。
もっとも、調理・清掃・裁縫といったメイドに必要な家事技能もさることながら、仕える相手を思いやり、快適な生活をサポートするという点において、先代メイド長である母の薫陶を受けた晴香は、非常に有能だった。
その流れるような挙措と言い、的確に主の意を汲んで動くタイミングと言い、メイドとして見習うべき部分は多々ある。
(……って、まじめなユカねえなら、考えるだろうな)
実際、今まで給仕される側だったから気付かなかったが、紫の立場に立てば見えてくるものは色々あった。「ゆかり」としても、それだけでこの入れ替わりは実行してよかったと思う。
また、前から思っていたように、やはり自分は人から指示されて動くなら、それなりに器用な働きを見せられるようだ。
(何せ、これまで見てただけのメイドさんの業務を、それなりにしっかりこなせてるもんなぁ)
いくら常日頃「見ていた」とは言え、また、彼が家庭科方面に秀でているとは言え、ぶっつけ本番に近い紫の代役を、こうもスムーズに果たせているのだ。やはり人間、適性というものはあるのかもしれない。
──もっとも、実は、そればかりが理由ではないのだが、幸か不幸か「ゆかり」はそのことに気付かなかった。
座敷に入り、晴香と手分けして料理を卓上に並べ終えたちょうどその時、「あおい」──葵の格好をした紫が、部屋に入って来た。
「おはようございます、葵様」「……ございます、「あおい」様」
傍らの晴香に一拍遅れて「ゆかり」も頭を下げて挨拶する。
「おはようご……おはよう、晴香さん、「ゆか姉」」
どうやら「あおい」の方も、何とか間違えなかったようだ。
チラッと「ゆかり」が目配せすると、「あおい」も小さく頷いた。
程なく、この家の当主である葵の父、桐生院馨が姿を見せた。
「「おはようございます、旦那様!」」
今度は晴香と声を揃えて挨拶することが出来た。
それにしても、自分の父親に対して「旦那様」と呼びかけるのは、何だか奇妙な気分だった。
もっとも、今の彼は「ゆかり」なのだからコレが自然だし、考えようによっては、あの厳格な父を
今朝は紫が給仕をする当番のようだが、その程度なら普段の見よう見真似でもなんら問題はない。
「ゆかり」はメイド服のスカートの裾さばきに気づかいつつ、楚々とした動作で馨と「あおい」への給仕を済ませた。
朝の食卓は、いつも通りほとんど会話らしい会話無しで進んだ。重苦しい沈黙、というわけではなかったが、当主の馨が食事中の会話をあまり好まないので、こればかりは仕方がない。
もっとも、ここに葵の母にして馨の妻たる夕霧がいれば、まったく様相は異なったのだろうが……。
いかにも淑やかな大和撫子風な外観に似合わず、夕霧は気さくで話好きなタチだった。彼女がそこにいて笑うだけで、この厳格な屋敷の空気も、随分と明るく華やいだものに変わったものだ。
「──紫くん?」
馨に呼びかけられて、一瞬追憶に入りかけていた「ゆかり」は自分を取り戻した。
「へ!? あ……何でございましょうか、旦那様?」
かろうじて、「メイドのゆかり」らしい態度を保持する。
「いや、そんなに畏まらないでくれたまえ。以下の話は、「葵付きの侍女」としてではなく、「我が姪にして葵の従姉」たる君への話だと思って聞いてくれ」
意外な馨の言葉に、「ゆかり」のみならず「あおい」もまた、驚きに軽く目をみはる。
しかし、その後に告げられた彼の言葉はさらにふたりに当惑をもたらすものだった。
朝食後ふたりを執務室へ招き、楽にするように言うと、馨は話を続けた。
「実は、夕霧の容体がだいぶ安定してきてな。今すぐというワケではないが、ひと月後くらいに退院して、自宅療養に切り替えて様子を見ることになる」
桐生院家当主たる馨のその言葉は、その場にいる誰にとっても朗報であり、緊張していた「ゆかり」と「あおい」は、ホッと胸を撫で下ろした。
「お…おばさまが!? それはおめでとうございます」
かろうじて「お母さん」と言うのを堪えた「ゆかり」こと葵が、晴れやかな笑顔を見せる。
「よかった。長かったね、お…父さん」
こちらも「おじさま」と呼ぶのを間一髪言い直す「あおい」こと紫。
「うむ。アレがいない間、おまえたちにも色々苦労をかけたな。とくに、葵」
普段の「厳格な当主」としての顔ではなく、珍しく「我が子を慈しむ父親」の表情になって、息子(に見える紫)に馨は声をかけた。
「? 何でしょう?」
「昨日、その件でアイツに怒られたよ」
「「!」」
夕霧の体調がよいこともあって家族の近況報告などをしていた際、自分の仕事の一部を葵に「当主見習い」として代行させていると言ったところ、こっぴどく叱られたらしい。
いわく、「子供は勉学と遊ぶことが仕事」、「そもそも、カヲルさんだって当主の仕事を始めたのは大学時代の、しかも成人後」、さらに「息子の体調不良に気づけないようでは父親失格」。
「いちいちもっともで耳が痛かったぞ」
苦笑しつつも嬉しそうなのは(別に罵られるのが好きなマゾだからではなく)、妻とのコミュニケーションを十分に行うことができたからだろう、たぶん。
「そういうワケで葵、今預けている仕事はともかく、今後新しく仕事を預けることは、少なくとも高校在学中はしないでおこうと思うが、どうだ?」
そう問われた「あおい」(=紫)は、素早く頭を回転させる。
「──そうですね。仕事を減らしていただくという点については、正直ありがたいです。
ですが、我がままを承知で言えば、重要度の低い仕事を今の半分程度任せていただけるなら、半人前のボクでも何とかなります」
傍らで聞いている「ゆかり」(=葵)などは「えっ!?」と思ったのだが、何か考えがあるのだろうと、この場は自分を演じる従姉に任せる。
「ほぅ……いいのか?」
「はい。その代わりと言ってはナンですが、正式にゆか姉──紫サンをボクの秘書兼相談役として任命してもらえませんか?」
「──なるほど、独力では無理でも二人三脚ならば、と言うワケだな。ふむ。ワシとて、金勘定の面では弟の輝の助けを借りているわけだし、信頼できる腹心を持つのも、当主の度量か。
どの道、紫くんに関しては、卒業したらそれに近い立場になってもらうつもだったのだから、少し早まるくらいはいいだろう。それと……」
謹厳実直な馨にしては珍しく、いたずらっぽい光が目で踊っている。
「これは、夕霧や輝たちとは内々に話し合っていたことなのだが……紫くん、君は葵のことをどう、思っているのかね?」
あまりに直球な質問に、顔にちょっと困ったような表情を浮かべつつ、内心では「ちょっと」どころではないパニックに陥る「ゆかり」。
「えぇっ!? そ、それは……そうですね。従弟であり、もっとも親しい幼馴染であり、大切な弟分、というトコロでしょうか」
立場を入れ替えていることもあり、とりあえず無難なコトしか言えない。
当然、その程度の答えでは、当主は満足しなかった。
「ふむ……では、葵、お前の方はどうなんだ?」
「ゆかり」としては、「あおい」の方も、当然、それに類する無難な返事をすると思っていたのだが……。
「──幼馴染のイトコ、というのはもちろんですけど、それ以上に、守りたい、そして共に歩んでいきたい、大事な人です」
その言葉は、明確にそれ以上の関係──恋人、いやむしろ「伴侶」という関係を視野に入れたモノだった!
「ほほぅ、言うではないか!」
息子(実は、姪っ子)の漢らしい物言いに、ニヤリと笑う馨。
「紫くん、葵はこう言ってるが、キミの気持ちはどうなのかね?」
「あの、その……こ、光栄です」(ポッ)
今なら、仮に例の認識変換が行われていなかったとしても頬を染めて恥じらう葵の姿は「女の子らしく」可憐に見えたことだろう。
「はははっ! うむ、ふたりとも両想いなら、問題ないだろう。実は、再来月の盆の一族が集まる際に、紫くんを正式に葵の許婚とすることを発表しようと思っているのだ」
上機嫌な馨とさらに2、3言葉を交わしてから、ふたりは執務室を出て、葵の私室へと戻って来た。
「ふぃ~、やっぱり緊張したわね」
さすがの学園一の才媛も、やはり一族当主の迫力の前では、少なからずプレッシャーを感じるらしい。無論、「今のふたりの状態」も関係しているのだろうが。
「そりゃ、ね。でも、ユカねぇ、あんなコト言って良かったの?」
「あら、アオイちゃんは、わたしと結婚するのは嫌なのかな?」
「そんなワケないよ! 僕にとってはユカねぇは憧れだし……。でもユカねぇなら、桐生院家を出て行っても自由に生きられるし、僕よりもっといい
言い募る「ゆかり」の唇を、「あおい」が自らの唇で塞ぐ。
そのまま長い口づけを交わすふたり。
いつの間にか、「ゆかり」が「あおい」の胸にすがるような格好になっている。着ている服もさることながら、「あおい」に「ゆかり」が抱きしめられていることもあって、まるで本当に「男」と「女」のように見えた。
十数秒が経ち、ようやくふたりの唇が離れた時、思いがけないキスに頬を染め目を潤ませている「ゆかり」の瞳を、「あおい」が覗き込んだ。
「馬鹿。そのつもりがあるなら、2年前にこの家で学生兼業メイドになろうなんて思うはずないじゃない。言ったでしょ、「守りたい、そして共に歩んでいきたい、大事な人」だって」
「! ありがとう……すごく、うれしい……」
よりいっそう真っ赤になりつつ、それでも素直にそう答える「ゆかり」を見つめながら、「あおい」はニヤッと人の悪い笑みを浮かべる。
「──そう言えば、小さいころのアオイちゃんの口癖は、「ぼく、ゆかおねーちゃんのおよめさんになる」だもんね♪」
「はぅわッ!」
それは葵にとって、遠い日の思い出したくない記憶のひとつ、いわゆる黒歴史というヤツだ。
当時は、「けっこんする」と言うことの意味もよくわかってはおらず、ただ、好きな人と「けっこん」するには「およめさん」になればいいのだ、程度の知識しかなかったため、そんな言葉を漏らしてしまったのだ。
「……お、お願いだから、忘れて、ユカねぇ」
「だ~め。それに、今の状態なら、ソッチの方が自然でしょ、「ゆか姉」?」
都合良く、この立場入れ替わり状態をネタに「あおい」にからかわれる「ゆかり」なのだった。
* * *
「ところで、どうするの、コレ?」
「ゆかり」の立場になっている葵は自らが着ているメイド服をつまんで、紫──「あおい」に改めて聞いてみた。
「今晩、もう一回、アレを使って元に戻る?」
「今晩は無理ね。あの鳥魚相換図って、一度使ったら最低でも中一日は空けないと使えないらしいから。たぶん、魔力だか霊力だかが溜まるのに時間がかかるんじゃない?」
「ああ、そう言えばそんな注意書きもあったね。でも、24時間なら昨日より少し遅めに寝ればいいんじゃないの?」
「その時間の計算が、「使用者が朝目覚めた時」からのカウントだったら? 溜まりかけた力を無駄に浪費するだけだったら意味ないでしょ。それに……」
ふと真面目な顔になって「ゆかり」の肩に両手を置く「あおい」。
「さっき、叔父様とああいう話になったけど、アオイちゃんも精神的にはまだ疲れてるんでしょ。明日までこのまま、わたしが残りのお仕事を処理してあげるから、アオイちゃんは「ゆかり」としてのんびりして頂戴。
今朝も言ったけど、「ゆかり」の仕事の方は今日の5時までで、明日はお休みだから」
「えーっ、そんなぁ……ユカねぇに悪いよ。明後日からは学校あるのに」
精神的ストレスが主体の葵と異なり、メイドと女子高生を兼任している紫は身体を休める時間が必要なはずだ。
「いいからいいから。弟分のピンチを救えないなんておねーちゃん失格でしょ。それに、実際問題として、さっき叔父様にああいうタンカ切った以上、「あおい」が真面目に仕事に励んでみせないと不自然だし」
正論と感情論を交えて説得されては、押しの弱い葵に抗するすべはない。不承不承うなずく。
「……わかった。今回は、ユカねぇにお願いする」
「アハハ……もぅ、そんな顔しない。
──じゃあ、これからボクは部屋に籠るから、「ゆか姉」はメイドのお仕事、頑張ってね」
部屋のドアから送り出しつつ、「ゆかり」のほっぺにチュッと軽くキスする「あおい」。
許婚のそんな愛情表現に、つい舞い上がってしまった「ゆかり」は、ボーッとしたままフラフラと歩き出し、気が付けば紫の部屋のベッドに腰かけていた。
「あれ、いつの間に……」
そう思いながら立ち上がる。
ふと傍らの姿見を覗き込むと、そこには幸せそうに顔を上気させた「メイド娘」が映っていた。
「や、やだ……あおい様にキスされたって、わかっちゃうかな?」
とくにキスマークなどがついてるワケでもなかったが、このまま台所に行ったら晴香さんあたりには見透かされそうな気がする。
自分の気を落ち着ける意味も込めて、「ゆかり」は鏡に向かって髪と服装を整え、軽くリップを引く。
「……これでよし、っと」
時計を見ると早くも10時半を回っている。そろそろ昼食の手伝いをしに台所に行ったほうがいいだろう。
パタパタと忙しく「自室」を出て台所に向かう「ゆかり」は、だから気づいていなかった。
自分が、ごく自然に紫のことを「あおい様」と呼んでいたことを。
とくに気負うでもなく、ごく自然に「女の子としてのみだしなみ」を整えていたことを。
そして──詳しく教えられたワケでもない今日の紫の予定が頭に入っていたことに。
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