2.相換発動
その夜、相談の結果、葵が魚の、紫が鳥の絵を枕の下に敷いて、各自の部屋で眠りについた。
ふたりとも、「鳥魚相換の図」の効能に関しては半信半疑──いや、一信九疑くらいのつもりではあったが、それでも何となくワクワクする気持ちは抑えられられない。
そして……ふたりが、ほぼ同時刻に眠りについた時、その場を見ている者がいれば、アッと驚いたに違いない。
ふたりが頭を置いている枕が、暗闇の中でボウッとほのかに光っていたのだから。
* * *
「あれ……ここ、どこ?」
少年は、自分が深い翠色をした水底にいることに気がついた。不思議なことに、水中であるにも関わらず、少しも苦しくない。また、寝る前に着ていた普段着姿なのに、水の抵抗もほとんど感じられない。
「え! 嘘っ? なに、ここ!?」
頭上から聞こえてくる「声」に顔を上げると、姉代わりの少女の姿が水面越しに透けて見える。紫は、いつものメイド服を着たまま、なぜか空の上に浮かんでいるようだ。
「ユカねえ!」
「あ、アオイちゃん!」
ふたりが互いの姿を認識した瞬間、葵の身体が浮き上がり、紫の身体は逆に下降してくる。
「ちょ、ユカねえ、スカート!」
「へ……あ!」
距離が近づくにつれ、お互いの姿がはっきり見えるのはよいが、位置的に微妙なことになってしまう。
「──アオイちゃん、見たわね?」
「ふ、不可抗力だよ~。それに遠かったし、ハッキリとは……」
完全に近づく前に少年が注意し、少女もスカートを押さえたので、確かにハッキリ目に焼き付いたという程ではない。
「でも、ボンヤリとは見たんでしょ。色は?」
「えぇと……その、白、かな」
「! やっぱり見たんじゃない!!」
「はわわ、ゴメンなさいぃ」
しかし、ほとんど手が届く距離まで来たところで接近は止まる。
ふたりは、水面を境にして、上下に分かれて会話することとなった。
「それにしても……ここって夢の中、よねぇ?」
「うん、多分。だって水の中にいても苦しくないし」
「あ、そう言えばそうねぇ……って、ホントに大丈夫なの?」
あたかも水面が丈夫なアクリル板であるかのように、水の下と上に分かれて会話するふたり。
「いずれにしても、これってきっとあの絵の仕業よねぇ。これからどうしたらいいのかしら」
「さぁ、僕に言われても」
「ええぃ、頼りないわねぇ。ともかく、合流しましょ。ほら、手出して」
水面に座り込んだまま、少女は何気なく水面に手を差し伸べた。不思議なことに、その手はさしたる抵抗もなく水中に差し入れられる。
「あ、うん」
少年が少女の手を取り、少女が少年を水上に引っ張りあげようとしたとき、ソレは起こった。
──ザパーーーン!!
「「うわぁ!」」
派手な水飛沫とともに、少年と少女の悲鳴が重なる。
一瞬の後、少年は水上に引っ張り上げられたものの、その反動でか今度は少女が水面下に没してしまった。
さらに、先ほどとは逆に、ふたりの身体は、片や水底に沈み、片や空中へと浮かび始める。
「ユカねぇーーー!」
「アオイちゃーーーん!」
だが、ふたりはどうすることもできず、互いの身体が離れていくのを見ているしかなかった。
やがて、その動きが止まり、最初に声をかけあった時と同じくらいの距離でふたりは対峙する。
と……。
「ぷっ! アオイちゃん、何それ?」
「へ?」
状況も忘れて噴き出す少女の言葉に、首を傾げる少年。
「あはは……アオイちゃん、自分の首から下、見てみなさい」
言われて反射的に視線を下に向ける少年。
そこには、屋敷で見慣れた紺のエプロンドレスを身にまとった自らの…………
* * *
「……ちゃん、起きて! アオイちゃん!」
耳元で小さな、しかし鋭い声で囁く女性の言葉に促されて、桐生院葵は目を覚ます。目の前には、見慣れた従姉、六道紫の顔があった。
「ふわぁ……おはよ、ユカねぇ」
「ん、おはよ……って、呑気にしてる場合じゃないのよ」
なぜか焦ったような口調で言う紫。
「うーーん、何かあったの?」
のほほんと聞きながらも、眠っている間のことが何故か葵は気になった。
(なんだろう? 何か変わった夢を見たような気がするんだけど……)
と、昨晩見た夢の内容を思い出そうするのだが、よく思い出せない。
「しっかりしてよ。あのね、例の絵、本物だったみたいなの」
「え、ホント?」
ぽやぽやしてるように見えても、そこは現代っ子。さすがの葵も「ひょっとして、もしかしたら、万が一くらいの可能性で本物かも」くらいのつもりでいたのだが、幸運にも(あるいは不運にも)、どうやら「鳥魚相換の図」は正真正銘、不思議な力を持っていたらしい。
「今朝早めに起きて、確かめてみたのよ……」
と、紫は自分の確認してきた事実を説明し始めた。
紫の話を整理するとこうだ。
今朝、1時間程前に目を覚ました彼女は、自分がなぜか葵の部屋のベッドに、彼のパジャマを着て寝ていたことを発見したのだと言う。
「コレはもしかして!」と思った彼女は、そのままの格好で台所へと顔を出してみたところ、朝食の準備をしていたメイド長(もっとも、この日本家屋では使用人頭という方がしっくりくる)が、「あら、葵坊ちゃん、どうしたんですか?」と聞いてきたらしい。
適当に話を合わせて葵のフリをしてから台所を出て、ほかにも何人かの人物と会ったが、彼の父も含めて誰もが、彼女をこの家の跡取り息子と見て接してきたそうだ。
「どうやら、例の絵は本物だったみたいよ」
「そうみたいだね。でも、僕、もし本当に効果があるとしたら、てっきりふたりの身体というか魂? みたいなモンが入れ替わるものだと思ってたよ」
「まさか身体はそのままで、立場だけが入れ替わるなんてねぇ。あ、でも、あの書付けが正しいなら、他の人にはわたし達の外見が入れ替わって見えてるのかもしれないわ。
──ところで、アオイちゃん、ココまでの話を聞いて、何か気付かない?」
それまでの真剣な顔つきからうってかわって、紫は悪戯っぽい表情になる。
「へ? えーっと……あ! ココ、僕の部屋じゃない!!」
付け加えると、今まで彼が寝ていたのは紫のベッドだ。
「て言うか、この話の流れで今まで気づかなかったアオイちゃんのヘッポコさが、紫おねーちゃん、はてしなく不安だわ」
まぁ、目が覚めるなり、枕元に紫が座って話し出し、葵自身はまだ布団に入ったままだったから、仕方ないのかもしれないが。
「それと……ホラッ!」
バッ! と勢いよく紫が掛け布団をめくりあげると……。
「うわ、な、何コレ!?」
当然とも言うべきか、その中から現れた葵の身体は紫お気に入りのネグリジェを着ていた。
もっとも、マンガなどでよくあるピンク色したスケスケの扇情的なタイプではなく、コットン製のダボッとした長袖ワンピースみたいな代物なので、男の葵が着ていてもそれほど見苦しくはないが。
「ププッ、結構似合ってるわよ、アオイちゃん」
紫の言う通り、小柄で線が細く、優しい顔立ちの葵がそういう格好していると、むしろ本物の少女のようにさえ見えた。
葵が身長164センチで体重が49キロ。一方、紫が165センチで体重は「禁則事項」キロなので、互いの衣服を取り換えても、殆ど無理がないのも幸いしたのだろう。
「わ、笑わないでよ、ユカねぇ」
とは言え、それは傍から客観的に見ていればの話であり、思春期真っ盛りの少年本人にとしては、目が覚めたら女装していたなんて、恥ずかしくてたまらない。
しかも、先ほどまで気にもとめていなかったが、寝ていたベッドや着ているネグリジェには紫自身の匂い──愛用しているトワレとほのかな体臭が入り混じった香りが染みついており、それが彼の羞恥心をより刺激し、ヘンな気分になってしまう。
「あら、本当のことよ。そ・れ・に……」
手慣れた動作で、紫は葵から素早くネグリジェを剥ぎ取ってしまった。
「うわっ、なになに、ユカねぇ……って、あっ!」
いきなり裸にされた葵は抗議しようとしたが、ネグリジェの下から現れた自分の身体を見て固まる。
寝間着なのでブラジャーこそ着けてはいないものの、下半身にはしっかりライトパープルのショーツを履いていたからだ。
「あら可愛い。ホント、よく似合ってるわ、葵ちゃん」
数年前から身の回りの世話をしているため、紫にとっては少年の朝の生理現象も見慣れたものだ。むしろ、体格に見合った小さめの陰茎が女物のショーツの前をピンと膨らませている様は、倒錯的な愛らしさすらあった。
「うぅっ、ユカねぇ、ヒドいよ……」
「それは別にわたしが着せたわけじゃないでしょ。その位でメゲてちゃ、先が思いやられるわよ」
そう言いながら、紫はタンスから下着を一揃い取り出す。
「ま、まさか……それを僕に着ろ、と?」
「ンふ、せーかい♪ だって、傍目には今のアオイちゃんはわたしに見えるんだもん。女の子が女物の下着をつけるのは当然でしょ?」
紫の理屈自体は至極まっとうなモノだったが……。
「──ユカねぇ、ぜったい、楽しんでるでしょ?」
「えへへ、それも当たりかしら。いやぁ、小さい頃のことを思い出すわねぇ」
イトコ同士であり1歳違いの幼馴染でもあるふたりは、幼い頃からよく互いの家を行き来して遊んでいた。ふたりは本物の姉弟のように仲が良かったが、かわいらしい弟を持った姉の何分の一かが持つ悪癖を、幼少時の紫も持ち合わせていたのだ。
すなわち──弟分を着せ替え人形にして遊ぶというヤツだ。無論、着せる服は紫自身のお下がりだ。
実際、紫の過去のアルバムには、どこからどう見ても愛らしい幼女にしか見えない葵と並んで撮った写真が、かなりの枚数収められている。
さすがに小学校に入ったあたりから葵が嫌がり出した(逆に言うと、それまではむしろノリノリだった。お姉ちゃんと同じカッコをできるのが嬉しかったらしい)ので、それ以降は封印された黒歴史になっていたのだが……。
(でも、今、その封印を解き放つ! ……なんちゃって)
──どうやら、
紫が放つ異様な迫力に半ば腰を抜かした葵がベッドの上をズルズルと後ずさりするが、呆気なく壁際に追い詰められ、水色と白のボーダー柄のショーツ(いわゆる縞パン)を履かされてしまう。
「へっへっへっ、おとなしくしろ~、きむすめじゃああるまいし」
「言ってる事の内容は間違ってはいないけど、使う場所を激しく間違ってるよ!」
葵の抗議も意に介さず、ショーツとお揃いの柄のブラを彼に着せる。
「うんうん、よく似合うわよ、アオイちゃん」
「褒められても、嬉しくないよ……」
そう言いつつも、あきらめ顔でスリップを受け取ってかぶる葵。
己れの羞恥心を度外視すれば、紫の言ってること自体は現在の状況下では真っ当なものだし、それに従うのもやぶさかではない。
──もっとも、紫がノリノリで楽しんでいることには、いまいち納得がいかないが。
「さて、次はアレね」
「アレ、ですか……」
壁にかけられたその衣装(コスチューム)をふたりの視線が捉える。
その視線の先にあるのは、肩の部分がパフスリーブになった紺色の長袖ワンピースと、フリルでかわいらしく縁取られた白のエプロン。首元の赤いリボンタイがアクセントだ。
俗に「メイド服」と呼ばれる代物である。
「今日は土曜だから学校はないけど、使用人としてのお仕事は夕方5時まであるから。それ以降と明日はお休みなんだけど……」
「うん、わかってるよ、ユカねぇ」
学年首席の姉貴分ほどではないにせよ、彼だってそれなりに頭は良いほうだ。今の葵は傍目には紫にしか見えないのだから、ここで彼がダダをこねれば、紫の評判に影響する。その程度のことは葵だって十分理解していた。
溜め息をつきながら、自らのメイド服を着付けてくる紫に身を任せる。
「──で、頭にカチューシャを付けて完成、っと。あ、忘れてた。えーと……」
再びタンスをゴソゴソ漁る紫。
「はい、ストッキング。これくらいは自分で履けるでしょ」
「そりゃ、まぁ……」
前後だけ紫に確認してから、葵はベッドに腰掛け、メイド服のミディ丈のスカートをめくりあげた。
(あ……)
男にしては生白く、すね毛もほとんど見当たらない自分の脚が、黒いスカートの中から突き出ている様は、なんだか妙に扇情的だ。
僅かに目を逸らしつつ、葵は紫に教わったとおり黒いパンストを履く。
伸縮性の強いナイロン繊維が、つま先、くるぶし、ふくらはぎ、太腿と順に包んでいく感触は、不思議な心地よさがあった。
視覚的にも、スラリとした足が黒いナイロンの細かい網目に覆われていく様子は予想以上に艶めかしいが、極力意識しないよう努める。
それでも、パンティ部分を腰まで引き上げた時は、その優しく締めつけるような刺激に思わずショーツの中の分身が反応しそうになったため、慌てて頭の中で素数を数える。
「は、履いたよ」
「どれどれ……うん、よし。じゃあ、アオイちゃん、ごたいめーん!」
頭のてっぺんから足先まで彼の姿を眺めた紫は満足げに頷き、背後から葵の両肩に手を置いて姿見の前に押しやる。
「え、ウソ……」
鏡に映る自分の姿を見て硬直する葵。
見苦しかったわけではない。むしろ真逆で、あまりに自然だったのだ。
化粧ひとつしてないにも関わらず、そこに映るのは、どこからどう見ても気弱そうなメイド少女そのものだった。
「似合うとは思ってたけど、これ程とはねぇ。つくづくアオイちゃんは生まれて来る性別を間違えたと思うわ」
普段そうからかわれた時は、反射的に否定するのだが、この時の彼は自失状態だったせいもあって、つい素直に頷いてしまう。
「うん、そうかも……」
「へっ!?」
かえって紫のほうが驚いてるようだ。
おかげで、葵は自分を取り戻すことができ、クスリと笑った。
「でも、よく考えると、今の僕って、他人にはユカねぇの姿に見えるんでしょ? 別に僕自身が似合うかどうかは関係ないんじゃないかなぁ」
「うーん……でも、身だしなみをキチッとしてるかどうかは、わかるんじゃない?」
成程。それも道理だ。
ベッドに並んで腰かけ、互いに今日の予定について話し合う。
「じゃあ、わたしもアオイちゃんの部屋に行って普段着に着替えてくるから。アオイちゃんは……そろそろ台所に行って春季さんのお手伝いしてきて」
本来、紫の仕事は葵付きの侍女兼秘書役だ。皿洗いや配膳くらいならともかく、厨房の手伝いまでする義務はないのだが、謙虚な彼女は他のメイドの仕事もできるだけ手伝うようにしていた。
「うん、わかった」
「あ、それとしゃべり方にも気をつけてね。アオイちゃんは、あんまり乱暴な言葉遣いするほうじゃないからいいけど、自分のことを「わたし」って呼ぶのと丁寧語を心がけて」
「ええ、わかりましたわ、あおい様……こんな感じ?」
「ププッ、何それ、似非お嬢様っぽい。普段はそこまでしなくていいけど……いや、そのくらい心がけてるほうが、ボロが出なくていいかな。
じゃあ、またあとで会おう、ゆか姉!」
ウィンクひとつ残して颯爽と部屋を出ていく紫──「あおい」を見送った後、葵も覚悟を決め、「ゆかり」として台所を手伝いにいくのだった。
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