第9話 宿にて起きる神の奇跡(未遂)

 デュランとティアがボルデコでの定宿として選んだのは、赤髭のモグラ亭ではなく少し高めの白髪のアナグマ亭だった。

 宿泊料が少し高いぶん、セキュリティが悪くないというのが大きな理由だ。自衛が最低限で済むのは大きい。

 とは言え、部屋がひとつしか取れなかったのは誤算だった。宿の女将は二人が男女の関係にあると勝手な邪推をして、部屋はひとつしかないと言い張ったのだ。デュランにしてみればいい迷惑なのだが、ティアとカウラが構わないと言うので仕方なく荷物を部屋に下ろす。


「まったく」

「師匠は嫌でしたか?」

「嫌ではありませんが、緊張しますよ。美女と同じ部屋ではいつ間違いを起こしてしまうか分からない」

『ちょっとデュラン!? 私だって女性なんですけど!?』

「剣にそういう感情を持つのはちょっと上級者すぎると思うんだ、僕は」


 たまらずぎゃあぎゃあと騒ぎ出すカウラを壁に立てかけて、デュランは背中を伸ばした。


「さて。僕は赤髭のモグラ亭に顔を出してきますが、ティアはどうします?」

「そうですね。少しだけ身だしなみを整えさせてください」

「おっと。分かりました、では僕は少し表に出ていますね」


 何の気なしに襟元をくつろげるティアに、デュランは慌てて部屋を出た。

 彼女は気にしていなかったのかもしれないが、禁欲生活が無駄に長くなってしまっているデュランには極めて目の毒だ。

 だが、扉を閉めた直後、デュランは表情を冷たいものに変えて気配を消した。

 覗きたいという欲求からではない。カウラが何を企んでいるのか、それを確認しておきたかったからだ。

 カウラは何かを企んでいる。それはデュランにとっては確信だった。

 そうでなければ、旅に女性を。それも掛け値なしの貴族の美女を同行させることを受け入れるとは思えない。

 これまでもそれとなく注視してきたが、尻尾を出さなかったのだ。そろそろ何か、動きを見せても良い頃合だとデュランは考えていた。

 耳をそばだてると、案の定。中からティアとカウラが話しているのが聞こえる――


***


 剣は、自身を三女神のひとり、破壊を司るカウラリライーヴァだと名乗った。

 ティアは驚く。三女神は、この世界を作った父なる天の神と母なる大地の神の娘だからだ。

 創世神話にはこうある。

 怠惰なる父は、母とともに大天と大地、生物を作った。そして、しばらくその営みを眺めた後、飽きてしまったという。

 責任感の強い母は、生まれてきた三人の娘に父の仕事を代行させることにした。それが三女神。曰く、創造と維持と破壊の女神である。

 創造の女神はその権能で自分たちの仕事を更に細分化するべく神と天使を創り出し、自らは天界に住んだ。

 破壊の女神はその権能で不要なものを破壊するために神と悪魔を生み出し、自らは冥界と繋がる場所、魔界に住んだ。

 維持の女神は母の作った大地に住まうものを愛し、その営みを見守るべく大地のどこかに今も住んでいる。


「その中の、破壊の女神様ですか」

『そう。私は破壊を司る女神。戦いと勝利を司るライラスティートや、疫病と呪いを司るゲメスエメリイは私の妹であり、分身。私自身の権能でもあるわ』

「な、なるほど。しかし、それほどの女神様が、言っては何ですが、何故このような」

『デュラン・ドラグノフ・フォースターを見初めたからよ。当たり前でしょう?』

「え? ええと、その」

『あなたがデュランに同行したのも同じ理由から、違う?』

「そ、そうですね」


 ティアは顔が熱くなるのを自覚しながらも頷いた。

 師匠と弟子の関係だったころから、想いをずっと燻らせてきたのだ。


『あなたはライラスティートの信徒ということだから、協力できると思うの』

「協力、ですか?」

『ええ。私にはライバルがいるの。現状では非常に不利だと言えるわね』

「ライバル?」


 天地を統べる三女神のひとりがライバルなどと、理解ができないが。


『この国の王女、メリッサと言ったかしら。あの女は、私の姉妹である創造の女神、エイリウルメーヴェシュが人として生まれ変わった姿よ』

「な――」


 とんでもないことに、このレーガライト王国には三女神のうちふたりまでがいることになる。

 いや、それよりもだ。


「姫様が、創造の女神?」

『権能のほとんどを使えない状態だけどね、人の姿をしているのはやはり有利よ。しかも主筋に生まれるとは』

「それではもう最初から勝ち目がないのでは」

『いえ。あいつが誤算だったのは、主筋とはいえ十五も年下の小娘にはデュランも食指が動かなかった、という点よ。あの我儘女にしては珍しく、デュランを力ずく権力ずくで自分のものにしようとはしていないから、まだ手はあるわ』


 さすがに戦いの女神の側面を持つというべきか、カウラは中々に計算高い部分があるようだ。

 つまり、本題はここからということだ。


『さて、ミリティア。あなたには才能がある。美しさもある。そして研鑽によって培われた強さがある。私はあなたならデュランの隣に立っていても相応しいと、掛け値なしにそう思うわ』

「そ、そうですか。ありがとうございます」

『だけど、敵は中々に強大よ。肉体を持たない私と、神の権能を持たないあなた。協力しなくては勝てない』

「そうですね」

『私を手にしなさい、ミリティア。あなたの体を借りて、私という存在をこの世界に受肉させます。そしてデュランと唯一無二のパートナーになるの』

「師匠と唯一無二の……」

『ええ。デュランは必ず天界に届く。私たちが取り合うくらいだもの、英雄としてだけではなく、神の座にきっと。その時に隣に立つ者が只人では、あらゆる意味で釣り合わない。違うかしら』

「た、確かに」

『私があなたの中に入ることで、あなたは神性を獲得するわ。生きながら女神として力を振るい、デュランを導くの。さあ、私を手に――』


 ごくり、と喉が鳴った。

 師のスケールの大きさを垣間見ると同時に、この世界の主神たる女神から誘いを受けるなんて。

 まだ頭は混乱しているが、ティアはこのチャンスを逃すべきではないと感じていた。

 意を決して手を伸ばそうとした、瞬間。


「そこまでです」


 優しく触れる暖かさと、冷たい声が。

 ティアの後ろから伸ばされていた。


***


 デュランがティアの右手を掴んだ時、ティアは混乱しながらも笑みを浮かべていた。

 魅了されたと見るべきか、女神からの説得で心が動いたと見るべきか。

 デュランは大きく溜息をつきながらティアの手をやんわりと離し、カウラを手にする。


「すみませんでしたね、ティア。うちの魔剣が下らないことを」

「え、師匠? え?」

『でゅ、デュラン⁉』


 カウラすら気付いていなかったとなると、自分の忍び足は神を欺くこともできるということだ。段々と人間離れしていく自分の肉体に軽い戦慄を覚えながら、デュランは刀身を曲げようとかなり強く力を込めた。

 無論、カウラは普通の剣ではない。ランドドラゴンを振り回す膂力であっても曲がりはしない、が。


『痛い! デュラン、痛い痛い!』

「痛くしているんです。当然でしょう。うちの大事な弟子に何を吹き込んでいるんですか、本当にもう」

「師匠、何を怒っておられるのです?」


 混乱から覚めていない様子のティアに、神妙な面持ちでデュランは詫びた。


「いえ、すみません。盗み聞きをしてしまったことと、こんな危険物を君とふたりきりにさせてしまったこと。重ねてお詫びします。そして二度とこんなことが言えないよう、近くの火山にこいつちょっと捨ててきます」

『待ってデュランーっ! 謝る、謝るからぁ! それにこの娘、ちょっと乗り気だったじゃないのよーっ!』


 言い訳を口にするカウラを凍てつくような視線で見下ろし、デュランは厳かに判決を下す。


「あなたに体を貸したら、ティアはどうなりますか」

『え、そりゃ魂の総量が違いすぎるから、同化するというよりは飲み込まれるか押しつぶされるか弾け飛ぶか……』

「その辺りをティアには説明していませんでしたね? まったく、邪悪な取引を持ち掛ける」

「師匠、それって」

「ミリティア・アレキア・ユフィークトは確かに女神になるでしょう。ただし、その中身はカウラリライーヴァであり、ティア、君ではなくなるというわけです」


 怒りが収まらずに、デュランは今度は絞るように力を込めた。

 カウラが情けない悲鳴を上げる。


『やめてぇ、デュランーっ!』

「ティア、この剣は神剣ですが、同時に重度に呪われた魔剣でもあります。カウラは元々、僕の体を自分の依り代にしようとしていたわけですね」


 神剣カウラリライーヴァ。

 この世界で最大最強の剣は、同時に持ち主の魂を蝕むどころか木端微塵に打ち砕く魔剣なのだ。


「もともとカウラは、この剣の持ち主を乗っ取って、現世で破壊を楽しむのが趣味という危険な女神です。悪魔の母である魔界の主神の面目躍如と言いましょうか」

『えへ』

「褒めていません。悪魔の元締めですからね、こういうロクでもない取引を持ち掛けることはあるかと思ってましたが、まさかここまでするとは……」

『ちゃ、ちゃんと死後には神としての立場を用意してるわよ! ライラスティートだってゲメスエメリイだって元々そういう娘たちだったんだからぁ! た、確かに魂は殆ど砕け散って無くなっちゃうから、私の一部ってことになるけど……』

「……というわけです。危険ですからちょっと火口に放り込んできますね。約束の店に行くのがちょっと遅くなりますが、まあ仕方ないでしょう」

『やめてーっ! もうしない、二度としない! 誓うからーっ!』

「駄目です。まさか自分の信徒を乗っ取ろうとするなんて。絶対に許しません」


 デュランは表情を変えずにカウラを背負った。完全に本気だと察したのか、泣きわめく声を聞き流して部屋を出ようとしたところで、ティアが口を開く。


「あの、師匠。……その、カウラ様が危険なのはよく分かりましたが」

「はい? どうしました、ティア。まだ魅了が解けていませんか」

「いえ。ちょっと気になったので。師匠はなんで無事なんです?」

「え? ああ。男だからじゃないでしょうか。カウラも好き好んで男の体には入りたくないのでしょう」

『違うわよ! 入り込めなかったの!』


 涙声になりながら、カウラが叫ぶ。なんだか背中が軽く湿ってきたような気がするが、泣くと刀身が濡れるのだろうか。


「師匠には入れなかった?」

『そうよ! エイリウルメーヴェシュの加護かと思ったけど、あいつは違うって言うし! 魂の強さが明らかに女神の力を超えていたのよ、人間なのに……子供だったのに!』

「えー」

「そんな恐ろしいものを見るような目で見ないでください。というか、その話は初耳ですよ?」

『そんな人間初めてだから、気になるじゃない! そうしたらいつの間にか好きになってたのよ! 恥ずかしいじゃない! 言えないでしょっ⁉』

「いや、知りませんけども」


 デュランが呆れながら言うが、何やらティアが非難するような目でこちらを見てきた。


「師匠、それは減点ですよ」

「何で僕が減点される流れになってるんですか……」

「で、ですね。師匠、師匠という前例があるなら、私もそうなれるかもしれませんよね?」

「そう、とは」

「カウラ様の干渉をはねのけるくらい、強く」

「ああ、まあ。ほかの事例を知りませんから、無理だとは言い切れませんが。ティア?」


 なんだかティアの目が据わっている。

 一抹の不安を感じながら声をかけると、ティアは真剣なまなざしでこちらを見てきた。


「師匠!」

「はい?」

「私はカウラ様以上に強くなってみせます! そうすれば女神の域に至って、師匠の隣に立ってもおかしくない女だと名乗れるわけですよね⁉」

「いやその理屈はおかしい」

『そう、そうよミリティア! そうすればあなたはライラスティートなんか目じゃない、新しい武の女神を名乗ることができるわ!』


 何やらカウラがティアの話に乗っかる。

 余程火口に捨てられたくないのか、今度はティアの背中を押し始める。


『ねえ、デュラン! 私は今この場で誓うわ! ミリティアの肉体には二度と干渉しない、この娘がしかるべく成長した暁には、私の片腕として天界に招きましょう! そしてミリティア、私はあなたとならデュランを共有しても構わないわっ!』

「カウラ様!」


 謎の結託である。何だこの流れは。


「あのですね、ティア。君のまっすぐな気持ちは嬉しいのですが」

「師匠、その先はまだ聞けません! どうか、どうか私が師匠の隣に立った時に」

「聞けよ」

『そうよデュラン、待つの! その日はきっとそう遠くないわ! だってこの娘の想いと力は本物だもの!』


 カウラも必死だ。何とかこの流れに乗って話をうやむやにしようという魂胆が見え見えなのだが……。

 きらきらと輝くティアの瞳に、根負けする。それはそれとしてカウラを火口に放り込むべきだとは思うのだが、ティアがカウラ側に回ってしまうとそうする意味が分からなくなってしまう。


「ああはい、分かりました。分かりましたよ……」


 デュランは力なくベッドに腰を下ろした。

 力なく息を吐き出す。


『やったわミリティア、いいえ、ティア! これから私とあなたは戦友よ!』

「はい、カウラ様!」


 喜び合うティアとカウラ。

 デュランは取り敢えずカウラを雑に放り投げた。


「神様絡みはもうほんと、こりごりなんですけどねえ……」

『何でよぉ!』


 ここまでやらかしておいて、自覚がないからだ。

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