第55話
日の光に気が付いてヒトミは目を覚ました。時刻はすでに昼前になっていた。
頭をもたげると自分がソウタの真横で寝ていた事に気が付いて思わず飛び退く。
「私……」
彼女が着ていたのはTシャツ一枚だけ。湧き上がってきた衝動に身を任せて、ソウタの寝込みを襲おうとした昨夜のまま。
あの時、襲う寸前に目を覚ましたソウタに全てを洗いざらい告白した事。そしてそれをソウタが拒絶せずに受け入れてくれただけでなく、プロポーズさえしてもらった事を思い出す。
「あれは夢、だったんだよね。あんな都合がいい事あるわけないよ。そうに決まって……」
自嘲しながら左手を見てみた。すると自分の左手薬指に、あの指輪が嵌められていた事に気が付く。
慌ててソウタの左手薬指を見ると、対になっている指輪が彼の指にも嵌められていた。
「夢じゃ……なかったんだ……。本当にソウタくんは私を……。私なんかを選んでくれたんだ!」
涙がとめどなく溢れてきて止められない。
ソウタは静かに寝息をたてていて覚醒する気配は無い。ヒトミは本当に涙が完全に枯れ果ててしまうまで、ソウタの傍に座ってさめざめと泣き続けた。
ソウタが目が覚めたのは朝だった。それまでより回復は進んでいるようで、体は多少軽くなっていた。外出は厳しいが、家の中なら動けるだろう。
頭を傾けると、隣でヒトミが安らかな寝息を立てて寝ていた。
服装が自分のTシャツ一枚だけでなく、きちんと彼女用のパジャマ姿である事を確認する。隣に布団が敷いてあったが、そこから抜け出してソウタの真横に、同じ掛け布団に潜っていたのだ。
しばらくヒトミの寝顔を眺めていたが、気が向いたので起こすことにした。
「おはよう」
「ふぁ、ふぁい!」
突然起こされてパタパタと慌てふためくヒトミの様子にくすりと笑う。
「添い寝しくれてありがとう」
と言えば、顔を真っ赤にしてしまう。
「こ、これはその、あの!」
「今朝は着崩れしてない……な。約束守ってくれてありがとう」
朝食のお粥を食べる。自分で口に運んだ食事が久しぶりだろうか。とにかく体にしみる。
「おいしい」
「昨日も準備してたけど、ソウタくんずっと寝てたから……」
「って、じゃあ俺は丸一日寝ていたのか」
「うん……。ずっと寝てたんだよ」
ソウタは、どんぶり一杯のお粥をきれいに平らげる。
「まだ、残ってる?」
「うん。あと一杯分はあるよ」
ヒトミが鍋からお粥をよそる。その左手には指輪がしっかりはめられていた。
「指輪、ちゃんと付けていてくれたんだな」
「うん。昨日目を覚ましたときね、指輪がちゃんとついていたから、びっくりして嬉しくて、涙が止まらなかったんだよ……」
ヒトミの目に薄っすらと涙が光って見えた。思わず涙ぐんでしまったのだ。
二杯目を食べ終えると、シャワーを浴びることにした。
「シャワー、一人で大丈夫?」
「ああ。体は動かせるから」
「か、体、私が流さなくていい?」
「自分でできるから大丈夫だ。それに今、風呂場でヒトミに体を洗ってもらったら、今度は俺の方からヒトミに襲い掛かりそうだから」
「わ、わたしはべつにそれでも……」
「でも今やったら、その分完治が遅れるからな……。今は快復最優先だ」
「そ、そうだよね……」
「ヒトミ、俺がきちんと快復するまで待っててくれ。完全に快復したら、気が済むまで一杯愛し合おう」
「うん!」
それからは睡眠と三度の食事を規則正しく行う日々が続いた。
食事も消化によいお粥から、三日後には通常の食事に切り替えられるようになっていた。
トイレや入浴も肩を借りずに自力で行えるようになり、その気になれば近所のコンビニまで自力で行けそうなぐらいに体力が戻ってくるのを実感する。
ヒトミはあの夜以降は、ただただ懸命にソウタの身の回りの世話と看護を続けてくれた。
寝込みを襲う事は無くなり、就寝時にソウタの寝床に甘えて転がり込んで来ることと、朝の起床と夜の就寝前に唇を重ねるだけに留まる。
ふわふわと綿菓子のように甘い時間のなかで、深く消耗していた体と心の疲れを徐々に癒していく二人。
「経過は順調なようだな」
一週間後に見舞いに来たリュウジは、高級な和牛を惜しみなく使ったすき焼きを振舞ってくれた。
「しっかり食べれるようになったらもうすぐだ。だが油断して、二人で遊びまわったりしないようにな」
『はい!』
リュウジは二人が同じ指輪を嵌めているのに気付いていたようだが、あえて触れなかった。
それから三日経過したところでようやく体から疲れが抜けきった。病院での診断も良好で、完治証明書ももらうことができた。
「さて、これでやっと戻れるな」
「……」
ヒトミの顔に曇りが浮かぶ。
「ヒトミ、俺は今更引いたりしない。お前が向こうに勝手に行っても絶対に追いかけるからな」
「うん。大丈夫だよ。これからはソウタくんと一緒だから」
赤信号で停車中の車内で、二人はその手を重ねた。
その足で二人は役所に赴き、書類を受け取り、買い物を終えてから帰宅した。
夕食後にヒトミは、エリから完治したら開封するよう言い含められていたアタッシュケースのことを思い出した。
「そういえばエリちゃんから、ソウタくんが全快したら開ける様にって言われてたんだった」
アタッシュケースは中身が詰まっているようでとにかく重たい。ソウタでさえ驚く重量だった。
「エリの奴、何を俺たちに……」
封印の札を剥がし、ヒトミに渡されていた暗証番号に合わせて開錠した。
「こ、これって……」
「間違いなく現金だ」
開封してみると入っていたのは一万円の札束が10。即ち一千万円分の札束だった。
そして現金の上に二人宛ての手紙が置かれていた。二人で一緒に手紙に目を通す。
“ヒトミとソウタへ。ソウタが完治したなら、もうカ・ナンに来る必要はありません。二人とも今まで十分すぎるくらい私たちを助けてくれた事を心から感謝しています”
“このお金は私の両親が残してくれた、万一日本に逃げる事になった時の資金ですが、もう私には必要ありませんので、今までの、せめてものお礼に差し上げます。二人で半分ずつ分けてください”
“大好きなヒトミへ。小さい頃から私の我侭につきあってくれて本当にありがとう。もう私のために命を落とすような危険な目にあったり、無理やり好きでもない人と結婚させられる必要なんて無いから、ソウタと末永く幸せになってください”
“大好きなソウタへ。あなたも小さい頃から私の我侭につきあってくれて、今度は身体を壊すまでカ・ナンのために尽くしてくれて本当にありがとう。ここまでしてくれればもう十分です。だから今度は同じだけの情熱で、ヒトミを末永く幸せにしてあげてください”
読み終えた直後、ヒトミは身体を震わせて泣き崩れた。
「エリちゃん!エリちゃん!エリちゃん!」
ソウタは怒りに身を震わせていた。
「あのバカ、この期に及んで一人で抱え込む気か!」
「放っておけないよ!」
ヒトミも同じ気持ちだった。
「ああ。三人揃ってこっちに帰るか、向こうで戦うかのどっちかだ!」
二人は改めてカ・ナンに戻る事を決意した。それがエリの意に反する事であっても、必ずエリを救うのだと。
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