山の奥から大海原へ

第35話

 この日、ソウタは四ヶ月ぶりに国内の視察に出ていた。街道をあの時と同じように馬車、ではなく今回は自転車だ。


 護衛はアタラと、彼女が引き連れるマーニとソールらの狼たち。リンは先にカ・ナン湖の中心町ナナイに向かわせていた。


 道行く途中、色々な人たちとすれ違うが、交通手段も四か月前とは大きく変化していた。人々はソウタが持ち込んだ大量の自転車とリヤカーを用いていたのだ。これで一般の輸送から牛馬の使用を大きく軽減させることになっていた。


 軍の移動も自転車で行えるよう、歩兵たちには運転教育が行われ、ほぼ全員が乗れるようになっていた。


「確かにこの自転車という乗り物は、平地での便が良いな」


「アタラの自転車は山道用の種類だよ。まあ狼には負けるだろうけど」


 ソウタは猟兵用にマウンテンバイクを与えていた。用途が用途なので放置自転車ではなく専門店で購入したものである。


 しばらく進むと、街道に沿って木柱が等間隔で立てられているのが見える。


「タツノ宰相、あれは……」


「そう、電柱。あと三ヶ月で主な町をこの柱の上に通した電線で繋ぐんだ」


 この日はまだ建柱作業は行われていなかったが、街道に沿って電柱が次々と建てられているのだ。


「ニホンで見たあの柱と線か……。あれを伝う雷神の力が、宰相の世界を動かしているのだったな」


「そう。まずその初歩の初歩、通信から始める。通信ができるようになったら、次は明かりだ」


「あの明かり。火に頼らず家々に太陽をもたらし、地上を星空に変えるのだな」


 アタラは日本で見た夜景を思い出していた。


 街道をカ・ナン湖に向かって進む一行。周辺が針葉樹の森に変わる。街道の真上には空が見えるが、気が付くと日が頂点に昇っていた。


「そろそろ昼食にするかな」


「ならばもう少し先に泉がある。そこなら新鮮な水も飲める」


 程なく脇道があった。前回の視察では通過したので気が付かなかったが、この先に泉があるという。


 脇道をしばらく進むと、一気に視界が開けた。


 ソウタは泉と聞いて、神社の手洗い水程度のものを想像していたが、目の前の泉は水量も豊富で、池と言える規模のものだった。


 持ってきていた温度計をつけると水温はおよそ24度。日本の定義で言えば、鉱泉と呼ばれるものだ。


「ここにはヒルのようなものもいない」


「確かに弁当を食べるにはうってつけの場所だな」


 靴を脱いで裸足になって泉のほとりの岩に腰をかける。水が澄んでいて底が良く見えるが、岸辺でさえ目視で底まで1メートル以上あるだろうか。足が泉に冷やされてとても心地よい。


 そこに小魚が近づいてきて足をこそばゆくついばみ始めた。皮膚の老廃物がエサになっているのだろう。


 弁当は焼き上げたナンのような生地で葉物野菜と鳥肉を挟んだものだ。水はそのまま飲んでも問題ないのでカップで直接汲んで飲む。なお、アタラの弁当も同じものだった。


 食事を終えるとそのままソウタは寝そべって空を眺める。薄い雲が流れていくのが見えた。


「タツノ宰相、すまないが時間をもらっていいかな?」


「いいけど?」


 するとアタラは身に纏っていた衣服を事も無げに脱ぎはじめた。

 

「おい!ちょ、ちょっと!」


「ニホンで教わってから、入浴が好きになったのでな」


 上着はおろか下着に至るまで、全ての衣類を木の枝にかけると、一糸もまとわぬまま泉に入るアタラ。さながら泉の精霊のような美しさだが、直視ははばかられるので目を外に向けるソウタ。


「なあアタラ、誰か来たらどうするんだ?!」


「マーニとソールが見張っているから問題ない」


「俺のことはいいのか?!」


「無論構わない。前にも言ったがこの身体、匹夫の類に見せるほど安くは無いが、タツノ宰相であれば話は別だ」


 アタラは泉に浸かったまま泉に生えている鮮やかな緑の水草で身体を磨くと、ソウタの足元まで泳いで来た。


「タツノ宰相も一緒にどうだ?気持ちいいぞ」


「遠慮しておく。というか男の前でそんな姿を晒すって、意味は分かって……」


 ソウタは天を仰いでいた。アタラは鮮やかな緑の長い水草の束を肩から下げてソウタの隣に上がってきた。


「ちょ、ちょっと!」


「無論だ。マーニとソールの恩、弓の恩、他にも諸々タツノ宰相には恩がある。望むならこの身体で返せる分は返したいのだが……」


 顔色も表情もいつものままでアタラが迫ってきた。泉の女神に全裸で迫られては、鈍感なソウタもさすがに顔を真っ赤にしてうろたえてしまう。


 と、その時。マーニとソールが二人の傍に駆け寄って、泉に向かってうなり声を向けて警戒し始めた。


『?!』


 直後、眼前で巨大な物体が宙を舞った。青み掛かった銀色の太く長い身体に、赤とオレンジの長いヒレ。3メートルはあろうかという巨大な魚だった。大きな水しぶきを上げて着水すると、彼らの頭上にしぶきが掛かる。


「泉の主はご機嫌斜めのようだな。私が荒らしたからか……」


 アタラは木陰に下げていた鞄から鳥肉の塊を取り出すと、主が着水した付近に投げ入れた。


「すまない泉の主よ!これは詫びだ!」


 鳥肉を投げ入れた付近で再び尾びれが水面まで上がって叩きつける。どうやら鳥肉を食べたようだ。


「タツノ宰相、見ての通りだ。あまり長居しては無礼になるようだ」


「あ、ああ……」


 アタラは枝に下げていた大きな布で身体をすぐに拭きあげると、手早く服を着る。髪は拭ききれなかったので、布を髪に巻いた。


「タツノ宰相、時間をかけて済まなかった。私は出立できる」


「あ、ああ。じゃあ先を急ごう」


 ソウタは泉の水で顔を洗って気を落ち着けると自転車にまたがった。漕ぎ出そうとした時、アタラはソウタに淡々と告げた。


「先ほどの件、気が向いたらいつでも声を掛けてくれ。死に際でない限り、いつでも応じるつもりだ」


 窮したソウタは返答しないまま自転車を漕ぎ出した。

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