最後の記憶

@YUUDAI

プロローグ

 2013年1月、ロンドン大学病院。


 87歳の誕生日にここで逝去したニック・ウォルターは、脳科学の権威として知られていた。

 2年ほど前から、自身の研究分野でもあったアルツハイマー病を患っていた彼は、死後その肉体を提供し、更なる研究に役立てることを望んでいた。その旨が明記された遺言のもと、彼の遺体は生前の勤務先であったマンチェスター大学の研究チームに送られた。

「複雑な気分だよ」

 研究員のブルーノ・ファインズは語る。「生前の彼をよく知っているからね。分からないことを尋ねると、記憶の図書館から分厚い資料を引っ張り出して、一瞬で答えを引き当てるんだ」

 浅黒い肌に際立つ碧い瞳が揺れる。「この手で彼の頭蓋骨を開いたんだ。責任は重いよ」

 彼の言葉をボイスレコーダーに収めている記者のクレア・マッケンジー自身も、過去に二度ほど、ウォルターへ取材を行ったことがあった。

「お気持ち察するわ」取材を終えると、彼女はブルーノの手を取った。「良い研究結果を聞かせてくれる事を期待してる」

「もちろんだ」彼は頷いた。「あのウォルター博士でもアルツハイマーにかかる事が、僕にとっては驚きだった。必ず解明に繋がる発見をしてみせるよ」


 2年後、ブルーノ率いる研究チームは、ウォルターの遺体の解剖結果から、アルツハイマー病に対する新たな説を見出した。

 これまでアルツハイマー病は、脳内での老廃物の蓄積による神経細胞死によるものだとされていた。原因となるのは主にβ蛋白質、他にもアセチルコリン、グルタミン、酸化ストレス等、様々な老廃物による細胞死説が提唱されてきたが、ブルーノが見出したのは全く違う視点からのアプローチだった。


 微生物による、感染症を原因とした発症だ。


「蛋白質やグルタミンが、それも蓄積されてるといえどごく微量の影響で、脳細胞が死滅するとは考えられない」ブルーノはそう名言した。

 これまで原因とされてきたアミロイドβ蛋白等の老廃物は、脳が微生物と格闘した末に残った空薬莢だ。そう説明すればつじつまが合う。

 ウォルターの遺体の他にも10人のアルツハイマー病患者の検体、そしてもう10人は非発症者の検体からそれぞれ抽出したサンプルを調べた結果、アルツハイマー病患者の脳内には100%の確率で、非発症者には無い真菌の感染が確認された。

「ウォルター博士には申し訳ないが、この説が間違いである事を祈りたい」

 国際研究チームに論文を発表した際、ブルーノはそう言い添えた。「この説が意味するのは、アルツハイマー病のパンデミックが起こりうる可能性があるという事だ。あくまでも極論だが、物忘れという名の感染症が拡大すれば、社会の機能は停止し、文明の崩壊に繋がる事も考えられる。そんな危険をはらんだ仮説だ」

 この説をもとに、世界人口を対象とした2013年から2050年までに予測される認知症患者の増加推移を調査した結果わかったのは、導き出されたグラフが世界の感染症者人口増加推移と酷似しているという事だった。

 3か月後、国際研究チームは、アルツハイマー病が特定の微生物によって発症することを定義づけた〝声明〟を発表した。

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