106. 恋する心、臆病な心



「僕ってもう家族もいないから、恋人なんかになったらすごく重たいよ?自分で勝手に人のこと"恩人"にして、言っちゃえば心の支えにしちゃったんだし。そんなのと付き合ってたら疲れちゃうかもしれな」

「こらっ」

「むぐ…」


くっついていた身体をわざわざ離して聞いてくる郁弥いくやさんを遮った。彼の唇に指を当てて言葉を止める。先ほどの天ぷら油とかいう嘘はもう通じないので、遠慮なく唇を塞がせてもらった。


「自分のこと"そんなの"だなんて言わないのっ。もう」

「…ん…」


無言で抗議の眼差しを向けてくる。可愛い。ちゅーしてあげたくなっちゃうわね。しないけど。


「ふふ、そんな目してもだめよ。離してなんかあげないわ。いい?あたしはあなたのことが好きなの。あなたが面倒な人だとか、重い人だとか、あたしのこと"恩人"にしていようが…。それこそ"そんなの"よ」

「……ん」

「いいじゃない、勝手に心の支えにしたって。それであたしに悪いことしたの?あたしに迷惑かけた?なんにもしてないでしょ?それはあたしが一番知ってるわ。郁弥さん、いっつもあたしのことばかり考えて、あたしが求めることを、あたしが喜ぶことをしようとしてくれていたじゃない。たまに空回りもしてたけど、それでもあたしのこと思っていたのには変わりないんでしょ?」

「…うん」


小さく頷いたのを見て、そっと指を離す。

いつまでも迷っている恋人にきちんと伝えてあげなくちゃ…あたしが言わなきゃいけないから。


「さっき、少しだけ考えたのよ。あたし、どうしてこの人のこと好きになっちゃったんだろうって」


郁弥さんの話を聞く前に考えたこと。話を聞いてからもその気持ちはまったく変わらなくて、むしろ大きくなったような気さえする。ううん、実際に気持ちは大きく膨らんだわ。


「あなたと初めて会ったとき、あたしがどんな風に思ったかわかる?」

「…わからないな。緊張してるなぁ、とか?」


半分正解、かな。


「それもあるわね。でもそれと同じくらい、どこかで見たことあるなぁって思ったの」

「…そっか」


本人から話を聞いてみれば既視感があったのも当然。前に会って話していたんだもの。


「会えば会うほど気がかりは大きくなって、どうしてか信頼できちゃっていたのよね。気づいたら相談までしちゃって、そのあとは友達になったでしょう?」

「うん…」


頷くだけに留める郁弥さんもその頃のことを思い出している様子。目を細めて懐かしむ表情。


「友達になって、それから恋人(仮)にもなって、あなたのことを知っていくたびに好きになっていったわ。きっかけは"この人知ってる人かも"、くらいの気持ちだったけど、知れば知るほどあなたに惹かれる自分がいたの。たぶん、すぐに好きになっちゃってたんだと思う。頭の中郁弥さんのことでいっぱいだったもん。言葉とか仕草とか、気づかいとか思いやりとか。することなすこと一つ一つに優しさが詰まっていて、あたしのこと考えてくれてるんだなーって、あたし、ちゃんとわかってたんだからね?」

「そんな、別に僕は…」

「普通にしていただけ、でしょう?」


言葉を被せて続ける。

郁弥さんが言いたいことくらいわかるんだから。言わせてなんかあげないもん。


「いいのよ。あなたの普通があたしは嬉しかったんだからそれでいいの。一緒にいられることが嬉しくて、お喋りするのが楽しくて、そんな風に思うようになってくると…ただの友達じゃ、ただの恋人(仮)じゃ満足できなくなってもおかしくないわよね」

「…いや、恋人(仮)は"ただの"がついたりしないと思うんだけど」

「変な言い訳しないの!」

「は、はい…」


まったく、ほんの少し隙があればすぐ文句言うんだから。いくら可愛くしょげてもだめ。…ちょっぴり抱きしめるの強くしてあげるだけよ?


「ちゃんと恋人になりたいって気持ちはね、実際結構前から持っていたものなのよ。でも…なかなか踏み出せなくて、ほら、郁弥さんって心開いてくれなかったでしょ?」

「それを本人に聞きますか…。事実だから何も言えないけどさ」


むくれてそっぽを向くあたしの可愛い彼氏さん。拗ねた表情なんてものをこの人が見せる機会は少ないので、胸を打たれる。つい抱きしめようと…もう抱きしめてたわね。


「ふふ、そうむくれないの。可愛いんだからぁ」

「ちょっ、ほほをふにふにひないでもらえるかな!?」

「んふふ、ごめんごめん。ついね?」


出来心で柔らかい頬に指を沈ませてしまった。

はぁ…幸せ。


「ともかくね?郁弥さんが心開いてくれなくて、どうにか秘め事を全部打ち明けてくれないかと試行錯誤しこうさくごしてたのよ。ただ…結局は、そういうのってあたしのわがままなだけだったわ」


語尾が薄くなる。ここからの話はあたしとしても楽しいものじゃないので、どうしても暗さが混じってしまう。それでも郁弥さんと抱き合っているからリラックスした状態で話せる。

ありがと郁弥さん。

お礼は口に出さず、代わりにきゅっと身体を密着させた。


「それは…鈴花ちゃんに言われて?」

「…ええ。そうね。言われて気づいたわ」


顔が近づいたぶん彼の瞳がよく見える。表情だけじゃない。瞳の奥からあたしを心配するような優しい気持ちが伝わってくる。

これだけ思いを寄せてくれているのだから、なおさら伝えないといけない。一つ深呼吸して、滑らせるように言葉を吐き出した。


「あたし、怖かったのよ。関係を変えたくなくて、今のままが心地いいから変えようとしなくて、ずっと言い訳ばかりしてた。郁弥さんなら一緒にいてくれる、この人があたしから離れることなんてない、だからわざわざ踏み入れなくたっていい。本当はそう思ってたの」

「…実際本当のことだから、そう思っても仕方ないよ」


苦笑して事実だと認める。

けど…。


「けど、本当のことだとしても、あたしは自分をごまかしていたのよ。変わることが嫌で、どうなるかわからないのが怖くて…。前に、あなたが自分のことを臆病だって言っていたでしょ?あたしもそれと同じ。あなたとの関係に対して臆病になっちゃってた。好きだから、大好きだからどうしても踏み出せなくて、自分に嘘ついてた」

「それは、人間当たり前のことだよ。誰だってそう思うさ」

「そうね。そうかもしれないわ。でも、あたしの悪いところは他の人を巻き込んじゃったこと。郁弥さんがどんな気持ちでいるか考えず、鈴花ちゃんの気持ちを無視して、あまつさえその鈴花ちゃんから背中まで押してもらって…。そこまでしてもらってようやく気づけたの」

「……」


何か言いたげに震えた唇が、音を出さずにそのまま閉じる。

あたしが続きを話すのを静かに待ってくれている。それだけで、緊張が解けて安心感が心を包んだ。


「だから…ごめんなさい。あなたを、郁弥さんを傷つけたわ。勝手なことばかり言って、わがままに付き合わせて、いっぱい傷つけたと思う。あたし、自分のことしか考えてなかった。ごめんなさい」


…よかった。ちゃんと言えた。一番言わなくちゃいけなかったこと、ちゃんと言えてよかった。


「ほんとは今日会ってすぐ言わなきゃいけなかったのに…。なかなか言えなかったの。ごめんなさ」

「はいストップ」

「…んぅ…」


ほっとして話続けたら唇に指当てられちゃった。さっきと逆の展開。


「…日結花ちゃんの唇柔らかいね」

「んん…」

「あはは、ごめんごめん。冗談…ではないけど、今言うことじゃなかったね」


うう…変なこと言わないでよ、もう。…ばか。


「別にさ、僕は日結花ちゃんに傷つけられてもいいんだよ」

「…ん…」


まだ顔が熱いままなのに、さらりと告げられた言葉に反応して目を合わせる。彼の瞳には動揺がかけらもなくて、それこそ心の底から話しているように見える。


「日結花ちゃんがわがままなのは知ってる。結構強引だし、振り回されたような気がしないでもないよ。でも、さっき伝えたよね?」


言ってあたしに触れていた指を離す。さっきというのは、きっと…。


「…あたしが、あなたの心の支えだったこと?」

「うん。僕にとって日結花ちゃんは人生の指標なんだ。そんな人に何をされても僕は気にしないよ。それがすべて相手のためになっているんだから、文句なんて言えるはずもないさ」

「でも、でも。あなたが傷ついたことは事実なんでしょ?」


いくらあたしが"恩人"だとしても、傷ついた心は変わらないし、痛いのだって変わらないはず。


「…どうだろう。鈴花ちゃんが何を言ったのかはわからないけど、なんとなく見当はつくよ。僕がずっと悩んでいるからいつまでも引き伸ばすのは可哀想…みたいな感じかな」

「…うん」


苦笑いして呟いた予想はだいたい合っていた。実際にあたしが言われたことと近い。


「そっか。…確かに僕は悩んでたよ。もう伝えたけど、仲良くなるにつれて離れるのが怖くなってね。それはずっと変わらなかった。どこまでいってもいつかはいつかは…って、未来のもしもを考えてばかりで。自分でもばかだと思うよ」


諦めたように目をつむって喋る。


「悩んで考えて、暗い気持ちにもいっぱいなったけど。でもさ。それでも」


閉じたまぶたを持ち上げて、明るい光を宿した瞳であたしを見つめる。そこに暗い色は一つもなくて、ただ穏やかで落ち着いた柔らかな光だけが見えている。


「それでも昔よりは苦しくなかったんだ」


昔って…。


「あぁ、うん。日結花ちゃんのことを知る前までだね。やることに追われて自分を見ないでいられた時間」


あたしの物言いたげな視線を察して答えてくれた。

あたしを知る前って、さっき教えてくれたことよね。ほんの数年前の話。


「空っぽのまま生きていたあの頃より、何倍、何十倍、何百倍にだって楽しいんだ。だから、そんなに気負わないで。どんな季節、どんな日だって、空高くに輝いている太陽みたいに明るく笑って、世界中どこかで必ず吹いている風みたいに、自由に振り回してくれていいからさ」


…もう。どうしてあなたは。どうしてあたしに笑いかけてくれるのよ。優しくて優しくて、優しすぎて…そんなんだからいっぱい甘えちゃうのに…。


「…ばか」

「っと」


ぎゅぅっと抱きついて、しっかりと温もりを感じる。怖いくらいに優しくて、泣いちゃいそうになる自分の顔を見せたくなくて。心に押し寄せるたくさんの気持ちが落ち着くまでただ強く抱きしめる。


「……」

「……」


"ばか"だなんて、こんなことしか言えなくてごめんなさい。もっといっぱい…言えたことはいっぱいあったはずなのに、気持ちが止まらなくなっちゃいそうで上手く言葉にできなかったの。

これからは…今これから言うことはちゃんとするから。だからもう少しだけ待ってて。

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