107. 恋人になるということ
「…ん、ありがと」
「どういたしまして」
数十秒か、数分か。落ち着くまで少し時間がかかっちゃった。
「
「なに?」
抱き合って、気持ちを静かにさせて、言いたいことをまとめた。
さっきまでは心の整理ができていなかったけど、今はもう大丈夫。伝えたいことはちゃんと頭にあるから。
「あなたの気持ちはわかったわ。でも、あたしの気持ちもわかっておいて。好きな人を、大好きな人を傷つけたくないって気持ちはあたしにもあるの。郁弥さんはあたしを傷つけたいだなんて思わないでしょ?」
「それは…うん。当然だよ」
目を伏せて頷く。
ちゃんとあたしが言いたいことも伝わっているみたい…だけど、納得はしてもらえてないと思う。
「あたしもあなたと同じ。傷つけたくなんかないのよ。きっとあたしが何を言ってもあなたはわかってくれないと思うわ。だってあなたが許してくれても、あたしがあたし自身を許せないもの」
「……」
無言で見つめ合う。郁弥さんにも言いたいことはあるはずなのに、あたしの話をただ聞いてくれている。
「あたしが悪い子だったのはわかってる。あなたのこといっぱい傷つけちゃったし、いっぱい悩ませちゃった。それは一番あたしがわかってる」
郁弥さんはあたしに甘いから笑って許してくれるけど、そんなのだめ。ちゃんとあたしは反省するから。それで、それから。
「わかってるのよ。わかってはいても、それでもやっぱり好きなの。ずっと好きだったのには変わらないし、今の気持ちをなかったことになんかできないわ」
今までの全部が全部嘘だったわけじゃない。あたしに惚れてもらいたいとか、微妙な距離感でデートしたいとか、その辺の気持ちだって本当。今を変えたくない心が根底にあっただけで、どれもこれも好きの気持ちから来ていたこと。
「あたしは、あなたが好き。あなたが思っている以上に郁弥さんのことが大好きよ」
目を閉じて、開いて、一直線に目の前の愛おしい人だけを見つめる。
「良いところもたくさんあるけど、だめなところもいっぱいあって。面倒くさくてうじうじしてて、なんでもすぐ悩んじゃうような人だけど、とびっきりに優しくて温かくて、あたしのこと安心させてくれる誰よりもかっこいい世界で一番素敵な男の人。それがあたしの大好きな
思い返せばいくらだって想いがあふれてくる。この人への気持ちは、どれだけ言葉を尽くしても足りないくらいに膨らんでいるから。
「好きになっちゃったんだもん。あなたに悪いことたくさんしちゃったと思うし、あなたが気にしないって言ってもあたしは気にしちゃう。それでも、それ以上に好きだから、言葉じゃ伝えきれないくらい大好きだからっ。あなたと、郁弥さんと前に進みたいの!」
「僕と、か」
ぽつりとした呟きが耳に届く。
目の前で顔を曇らせている人が何を考えているか、今のあたしには手に取るようにわかる。
この人はきっと、ずっと悩んで迷ったまま。
「うん。もう止まったままじゃいられないから。あなたのことをこれ以上傷つけたくないし…それに、この気持ちをちゃんと形にしたいから」
彼の頬に手を添える。
ごめんね、あたしばかり喋っちゃって。あと少し。もう少しだけ時間をちょうだい。
「あたしだめな子だから、また傷つけちゃうかもしれないわ。これから先もだめな子のままかもしれない。あなたの前だとわがままばかりの悪い子になっちゃうのよ。それでも、そんなあたしでも好きでいてくれるなら」
息を吐いて、目を閉じる。見えない中でも手のひらから伝わる頬の柔らかさと温かさ、身体を包む温もりは変わらない。
「あたしと、恋人になってほしいの…。だめ、かしら…」
言えたは言えたけど…。すごく自信なさげになっちゃった。もっとわかりやすく真っすぐな言い方で伝えるはずだったのに…。
「……」
あたしの言葉を聞いて、黙ったまま目を閉じる。
考え込むこと数秒か、数十秒か。彼の頬に触れた手のひらからいやに汗が出ているような気がして恥ずかしい。
けど離さない。これはもう意地よ。
「…僕は」
手に手が重ねられた。短く区切って、ゆっくりと一度の瞬きをする。
「僕は、
一瞬言い返そうと思ったけれど、郁弥さんの瞳がゆらゆらと揺れていて上手く言葉が出せなかった。
「それだけ大好きなのに、それでもまだ踏み出そうとしないくらい
困ったように続ける。重ねた手をきゅっと掴んできたので、向きを変えて手のひらを合わせる。指を絡ませて手を繋げば、くすりと微笑を見せてくれた。
「少し、長くなるけどいいかな」
「…ん、いくらでも聞くわ」
「ありがとう」
手を繋いだおかげか、さっきよりも表情が柔らかい。それでもまだ瞳は迷いに揺れていて、言葉を選ぶようにゆっくりと話を続ける。
「…最初は、今みたいな気持ちは持っていなかったんだ」
「それは、あたしと初めて会ったとき?」
「うん。歌劇で会った頃。あの頃は本当に"恩人"でしかなくて、感謝の気持ちが一番だったよ。それは"神様"に対する想いと似たものかな。感謝とか尊敬とか、そういった気持ちはもちろんあったけど、それだけじゃなくて、縋る対象としても見ていたから」
神様だなんて
「何回か会って話していくと、どんどん印象は変わっていったかな。思っていたより全然普通の女の子で、僕と同じようにいろんなことに悩んでいる普通の人なんだなぁって」
「ばか。当たり前でしょ?」
「ふふ、うん。そうだよね。今はちゃんとわかってるよ」
軽く伝えたら笑顔を返ってきた。あたしを見る彼の眼差しが温かくて頬が熱くなる。
変に恥ずかしくて、それをごまかしたくて恋人の身体に頬を預けた。
「相談も受けたりしたけど、その頃もまだ異性としては見ていなかったよ」
「…そうなの?」
片手は恋人繋ぎで手を合わせて、もう片手は相手の身体に回す。郁弥さんの方はあたしの頭をさわさわなでてくる。
ドキドキはしてるけど、それ以上に安心して落ち着けるからくっついている方がいいわ。顔合わせてるときはすぐ恥ずかしくなっちゃうんだもん。
「うん。どこまでいっても僕にとって日結花ちゃんは"恩人"だったからね。それが変わったのは、"恋人として見られてもいい"って言われたとき。覚えてるかな」
「…初デートのとき?」
言葉の細かい部分まではわかんないけど、そんな話をしたのは覚えてる。郁弥さんが臆病怖がりさんだーって教えてもらったきっかけだったのよね、それ。
「そう初デートのとき。それだけ僕のことを考えてくれてるってわかって、一気に意識するようになっちゃったんだ。親しくするのは怖かったし信頼に応えたい気持ちはあったけど、こんな可愛い子に少しでも好意を寄せられているって思ったら…そりゃ気にしちゃうよ。僕の知ってる女性の中で一番に素敵な人だっていうのはわかってたからね」
「一番って、それは恋愛的な意味じゃないでしょ?」
「そうだけど、それでも君が魅力的なことには変わりなかったんだよ?」
"わかってる?"とでも言うように身体を離して目を合わせてきた。
直接的な褒め言葉が気恥ずかしくて照れる。
「わ、わかったからほら、続き話してっ」
「ふふ、日結花ちゃんを意識し始めてからは早かったかな。ドキドキすることばかりで今までと違った悩みばかりになっちゃったくらい」
彼の言う悩みは、たぶんあたしと似たような感じ。どうすればいいかわからなくて、気持ちを持て余しちゃってたんだと思う。
「そうやって考えてたら、いつの間にか好きになってた。もともとあった人としての尊敬とかも含めて、ずっと一緒にいたいって思うくらい大好きになっちゃってたんだ」
「…そうなんだ」
郁弥さんもあたしと同じなのね。
「鈴花ちゃんに"ちゃんと気持ちを伝えるべきです。もっと自信を持ってください"って言われちゃってさ。それで今日気持ちを伝えているんだけど…」
言葉が止まって、再び瞳が迷いに揺れる。口を引き結んで難しい顔をする。
「…さっきも言ったけど、僕は一人ぼっちだし、きっとすごく重たいよ。僕の好きは異性としての好きだけじゃないんだ。こんな想いを抱えているくらいだから、もしかしたら日結花ちゃん以上に自分勝手かもしれないし、すごいわがままを言ったりするかもしれない」
ぎゅっと繋いだ手に力が込められる。あたしがここにいることを確認するような弱い力の入れ方に、ぎゅぅっと力を込めてしっかりと握り返す。
「そんな僕が日結花ちゃんを好きでい続けて、日結花ちゃんと恋人になってもいいと…そう言うの?」
この人が悩んでいるのは、きっとあたしと同じで臆病だから。前に進もうと思って、足を踏み出してみたからこそ生まれた迷い。
それなら、あたしが伝えるべきことは……。
「おばかさん。あたしを好きでいることに許可なんて必要ないわ。今はあたしがお願いしているの。恋人になってほしいって、そうお願いしてるのよ」
家族がいないとか、友達がいないとか。特に家族のことは聞いてすごく驚いたし悲しくなった。でも、それであたしの郁弥さんへの気持ちが変わることはない。
重くたって、自分勝手だって、わがままだって別にいい。そんなことを気にするほど、あたしの好きは小さくないから。
「あたしは郁弥さんが好きよ。郁弥さんはどうなの?」
「好き、だよ」
「あたしはあなたと恋人になりたいわ」
「僕もなれるならなりた…あ」
自分で言っておいてはっとしたように目を見開く。
「そっか…。そうだよね」
ふ、っと息を吐く。見つかった答えに苦笑いをこぼして一人頷いた。
こんな近くにいるというのにあたしの姿が見えていないような振る舞い。きちんと抱きしめて抱きしめ返してもしているというのに…。
「うう…えい」
「うわぁ!あっぶな…くはないか」
「…ちゃんとあたしのこと見えてる?」
抱きついた体勢から全体重をかけて押し倒した。彼の頬に髪がかかり、さっきよりも顔の距離が縮まった。
「あぁ、それでか…。ごめんね、ちゃんと見えてるよ」
言いながら繋いだ手をほどいて、あたしの後頭部に右手を回しゆっくりと抱き寄せる。
ごく自然に抱き寄せてくれたことが嬉しくて、もやもやとしたものがとろりと解ける。
「あ…えへへ」
「色々話してきたけど、結局僕は日結花ちゃんの恋人になりたいんだ。だから昔のことも話せたし、今までしてこなかったボディタッチだってたくさんできる。こうやって抱きしめていられるのも、僕が恋人になりたいって、そう思ったからだったんだ」
郁弥さんが嬉しそうにしてるのはあたしも嬉しくなるけど…けど…。
「あ、あたしの髪なでながら…んん、いっぱいぎゅーってしないでよぉ…」
どこまでもとろけちゃう。幸せすぎて、ずっとこのままでいたくなっちゃうから。
「あぁ、ごめんね…日結花ちゃん」
「…ん、なに?」
なでるのをやめてくれたおかげと、なんとなく真面目な声色だったからあたしの方も落ち着いて返せた。
「僕は本当にだめな男だよ。好きな子にこれだけ言われて、これだけ抱き合って気持ちを伝え合ってもまだ悩んでるくらいなんだから」
「…ん」
「だけど、こんな僕でもいいと言ってくれるなら…」
顔は見えないけれど声のトーンは静かなまま。
「僕と恋人になってくれますか?」
…なにを言うかと思えば。まったく。いっきに頭冷えちゃったじゃないの。せっかくぽかぽかあったかくて幸せ気分だったのに。今でもぽかぽかしてるけど、すっごく落ち着いちゃったわ。
「それ、さっきあたしが言ったから」
「…あ、うん。ちょっと頭熱くなってたかも。ごめんね」
顔を離してみれば、照れりと頬が赤くなっていて目をそらされた。
郁弥さんらしい表情に笑みがこぼれる。
「じゃあ改めて、日結花ちゃん」
もう一度名前を呼ぶ。けれど、今度はさっきと違って柔らかく優しい笑顔のまま。
瞳には既に迷いがなく、真っすぐ前に定まっている。
「僕のこと、よろしくお願いします」
まるで頭を下げるかのように…でもあたしに押し倒されているから下げられなくて、目を伏せて言った。さっき以上に頬を朱に染めて恥ずかしそうにしているのが郁弥さんらしい。
言い方は堅いのに顔赤くして照れちゃうなんて、結構大事なところだったのにね。あたしはむしろそういうところが好きだったりもするけど…。でもま。
「ふふ、任されました。あなたこそ、あたしのことよろしくね」
あたしたちは、これでいいかな。
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