100. ハグと始まらないお話
「あはは、もうわかってたみたいだね」
「ふふ、あなたとはたくさん話してきたもの。少しくらいわからないとだめでしょ?」
くすくすと笑い合う。言いたいことはわかっているので、ここにあるのは信頼感だけ。
「そうかな。そうかもしれないね。それじゃあ改めて、僕は日結花ちゃんが好きだよ。それは人としてとか、友人としてとか、声者としてとか、色々な意味での好きだし、一人の女性としての好きでもあるんだ」
「…うん」
照れくさそうにしながらもきちんと伝えてくれる。言葉の一つ一つが胸に染み渡るようで、変に言葉が詰まる。
「まあなんていうか、世間一般で言う恋とか愛とか、そういう意味での好きでもあるんだよね。言い方を変えれば、愛してる…とかになるかな」
「…んぅ、あ、あいして…って」
嬉しくて照れくさくて、胸の奥からどんどん幸せがあふれてくる。
なにを返せば…ああだめ、愛してるだなんてそんな…。
「っう…ご、ごめんなさい…あ、あたし…」
「な…だ、大丈夫っ?ご、ごめんね。大げさ過ぎだよね。ええと…タオルは…」
ぽろぽろと涙があふれてきてしまった。幸せな気持ちに胸がいっぱいで、それでも止まらない気持ちが涙となってこぼれていく。
「はい、タオル。ゆっくりでいいからね。落ち着くまで待つから」
「…ぐす…あ、ありがと…ずず…」
…なんでこんな、こんなにも嬉しいのが止まらないのかな。
「あ、あの…あのね、郁弥さん、あたし…」
「うん」
もしかしたらだけど、あたし、あたしが思っていたより不安だった…のかもしれないわ。
「…あたし、抱きしめさせてほしいの」
「……ええ……」
嬉し涙はすぐに止まって、すっきりしたついでにちょうど思ったことを伝えたら、すっごく微妙な反応をされた。
「…だめなの?」
「…だめじゃない…けど。わかったよ。うん」
言葉の途中で苦笑して頷いた。そのまま立ち上がってあたしのいる側に回ってくる。
「よいしょ…っと」
隣に座って座椅子をこちら側に寄せる。距離の近さにほんの少し頬が熱くなる。
「いいよ」
「あ…えへへ、ありがと」
あたしの方を向いてにこりと笑みを浮かべる。言葉は短い一言で、ただ柔らかく笑ってあたしが抱きしめやすく身体ごと向きを変えてくれた。
「ん…ぅ」
「…ふ…ぅ」
ぎゅぅっと強く抱きしめる。左手は腰に回して、右手は肩から背中に通す。
「…はぁぁ…」
深く呼吸をすれば、大好きな人の香りと温もりに包まれる。
あたしが抱きしめるだけじゃなくて、ちゃんと郁弥さんも抱きしめ返してくれた。たったそれだけのことなのに、どんどんと愛おしさが募って胸の内が満たされる。
「えへ、えへへ」
「…嬉しそうだね」
もう我慢することもできなくて、だらしなく笑みがこぼれた。大好きな人と抱きしめ合って、大好きな人の肩に頬を預けて、幸せいっぱいに思うまま返事をする。
「だって幸せなんだもん」
「そっか。僕も今すごく幸せだから…もう少しこのままでいようか」
「うん、ゆっくりしましょ」
このまま満ち足りたまま少し、ゆっくりと……。
「……」
……気分が落ち着いて静かになったのはいいのだけど、これ…すごく恥ずかしくない?
だって、郁弥さんと抱き合ってるわけでしょ?いや抱き合うのはいいのよ。初めてじゃないし、最初のときほどドキドキはないもの。むしろ今はドキドキより幸福感の方が多いから。それより、距離が近い方が問題よ。こんな長時間ぎゅーってしあうことなかったから感覚的に色々気になってきちゃって…息するだけで郁弥さんの匂いいっぱいで、息遣いもしっかり聞こえるし。か、身体が熱くなってきたわっ。
「…ん」
身じろぎしたら抱きしめられる力の強弱が…うう、ちゃんと緩めたあともう一回力込めてくれるなんて…あぁ、とろけちゃいそうぅ。
「…ふわぁ……ふぅぅ…」
ななっ…あ、あくびですって?あたしがこんな、こんなドキドキしてきゅんきゅんしていろんな気持ちでないまぜになっているところに!
「んん…んふ」
「っ」
あ、びくってした。ふふん、しがみつくくらいにぎゅーってしてあげたもの。そうなるのも当然ね。あたしだけドキドキさせて一人で眠ろうとするから悪いのよ。
「ふふ、あはは」
「…あぅ」
わ、わざと腕の力強めて抱きしめ返すのなしっ!ずるい…そんなの、あぁぁっ。今まで以上に抱かれてる感じすごくなっちゃう……。い、いえ?実際に抱かれてるのだものねっ。冷静よ冷静。あたしは冷静。
「…日結花ちゃん」
「ひゃぅっ」
と、突然すぎっ!!変な声出しちゃったじゃない!!!惚れちゃうわよ!?もう惚れてたわね!大好き!
「耳元で囁かないでっ」
「ごめんごめん、でもこの距離じゃどうしようもないよ」
「だ、だからって…んぅ」
囁きの言葉が続いて、きゅんと胸が
照れる。ほんとに照れるっ。
「…ええと、少し眠くなっちゃったんだけど、日結花ちゃんはあんまり眠くないみたいだね」
「ど、どうしてかしら?」
はぁぁぁ、耳が熱い。ううん。耳どころか顔、全身が熱いわ。囁かれるのがこんなドキドキするなんて…前にも似たようなことあったはずなのに、その頃とは全然違う。変にぞわぞわするし、嬉しいし大好きだしでおかしくなっちゃいそう。
「ふふ、だってドキドキしてるでしょ?」
「…き、気のせいじゃない?」
な、なんでばれて…って、これだけ密着してたらそりゃわかるか。納得。
「これだけくっついていればね。僕だって結構ドキドキしてるんだよ?」
「……」
言われて胸の辺りを意識してみる。
……とくとくって聞こえる、かも?たしかに割と鼓動が強い気はする。というか、それよりも胸を押し付けていた事実に顔が熱くなったんだけど…。
「…そ、そうみたいね?」
「うん。僕以上にドキドキしてたら眠れなんかしないよね」
あなただってドキドキしてるはずなのに、どうして普通にあたしと話していられるの?なんでそんな落ち着いてるのよ。こっちはブラしてるか平気、でも胸を押し付けてるのには変わりない、でもブラが。とかいうことばっか考えてるのに…。
「それ、で?あたしが眠くないからなんなの?」
「あぁ、うん。それならこのまま話しちゃおうかなぁって」
「このままっ?」
うそでしょ…。こんな幸福と羞恥にまみれた状態でお話なんてまったく頭に残らないわよ?全部右から左に流れちゃうじゃない。いいの?ほんとに?
「どうしたの?いきなりびくってしたけど…そろそろ離れる?」
「離れないから。手の力緩めるのはやめなさい」
「あ、うん」
…反射的に言っちゃった。いえ、あたしは悪くないわ。郁弥さんがふざけたこと言うから悪いのよ。なに?離れる?この体勢から?冗談やめて。そんなことされたら怒るわよ。ついちゅーしちゃったりするかもしれないから。……それも悪くないかも。
「じゃあこのままでもいい?」
「…んー」
改めて抱きしめ返してもらいながら悩む。
あたしの人生的にリルシャのお仕事決まったときレベルで幸せな状況を捨てるのはありえないし、かといってこのままお話されても真面目に聞けるとは思えないし…。
「うー…」
どうしようかなぁ。…よし、このまま聞こう。離れるって選択肢はありえないんだからこのまま聞くしかないわ。話聞いていればそのうち落ち着いて真剣な感じになるでしょ。たぶんなんとかなる。大丈夫よ。
「このままでいいわ。話してちょうだい」
「そう?よかった。じゃあこのまま話すね」
聞こえた声に安堵が入っているような気がした。
もしかして。
「ねえ郁弥さん。あなたもあたしと離れるの嫌だった?」
「それは…うん」
より小さな声で肯定が返ってきた。
はぁ…どうしてあなたはそうなの?あたしを惚れさせたくてしょうがないのね。いいわ。惚れてあげる。
「ふふ、そう。そっかー。そんなにあたしと抱き合っていたかった?」
「…だめだったかな」
あぁっ、そんな恥ずかしそうにそわそわしちゃって!顔なんて見なくてもわかるわ。頬赤くしてすっごく愛おしいあたし好みな表情してくれているのよね。ほんっと郁弥さん大好き。
「んふ、ふふふ、いいわ。このままでいてあげるっ。ぎゅーってしたままお話しましょ?ぜーんぶ余すことなく聞いてあげるから。なんでも話しなさいな」
「うん…ありがとう」
ここまでイチャイチャしながら真面目な話をするなんてどう考えても普通じゃないとは思いながらも、やっぱりあたしたちはこうでなくっちゃとも思う。
しっかりと郁弥さんの体温と鼓動を全身で感じながら、彼の話に耳を澄ますことに―――。
「―――あ、そうだ」
「……ねえ、また?」
…完璧にいい雰囲気でお話に入れると思ったのに。また忘れ物?物じゃないわ。忘れごと?
「あ、あはは。ごめんね。先に見てもらいたいものがあったんだよ。完全に忘れちゃってた」
「はぁ…いいわ。なにを見てほしいの?」
顔が見える距離まで身体を離せば、照れりと笑う彼に毒気を抜かれて軽く返す。今回は忘れごとじゃなくて忘れ物だったらしい。物とは珍しい。少しだけ興味が出た。
「ええっと……あの、鞄がないんだけど」
「…もしかしてリビング?」
さっと周囲を見渡して困ったように言う。これからの展開を予想したせいで自分の声が暗くなった。
「そうみたい。あっちに置いてきちゃった。取りにいかなくちゃ」
「……」
はぁ。…まあそうなるわよね。
「ええと…取りにいってもいいかな」
「…その」
抱きしめてくれる腕の力を緩めながら話す郁弥さんに、短く区切って言葉を伝える。
「その見せたいものって、今じゃないとだめなの?」
緩められたぶんだけ離れないように抱きしめる力を強めた。
「……うん。ごめんね。先に読んでもらった方が伝わると思うんだ」
申し訳なさの中に少しだけ真剣さも混じった声。
…ずるい人。
「…ばか。そんな言い方されたら断れないじゃない」
「じゃあ…」
「ええ。離してあげる。早く行って早く戻ってきなさい。待っていてあげるから」
「うんっ。ありがとうっ」
ニコリと笑って立ち上がる。それなりの時間抱き合っていたから体温の温かさが離れて少し肌寒い。その寒さ以上に、どうしようもないほどの寂しさが胸に押し寄せる。まるで突然の吹雪に襲われでもしたかのような気分。別に吹雪になんて遭ったことないけれど、とにかく寂しい。
全部雨のせいだわ。雨音がすっごく寂しさを助長しているのよ。
「…日結花ちゃん」
「ん…なに?」
唐突な寂しさを自分なりにごまかそうとしていたら名前を呼ばれた。顔をあげれば優しく笑う彼氏さんが一人。
「すぐ戻ってくるから大丈夫だよ」
「あ…うん。えへへ」
頭をなでてくれた。嬉しい。ぽかぽかする。
「ありがと。えへへ、いってらっしゃい」
「ふふ、いってきます」
さわさわ撫でつけるようになでてくれて、それから客間を出ていった。
「……」
…なんか、すっごく恥ずかしいことをした気がする。嬉し泣きしちゃったのはいい。ほんとに嬉しかったし。抱き合ったものいい。気持ちよかったし幸せだったから。なでてもらったのもいい。超嬉しかったし。よくないのは、"いってらっしゃい""いってきます"のやり取り。
なにそのやり取り。ただリビングまで荷物取りに行くだけよ?時間にしたら数分。下手したら一分もかからないのよ?それなのに"いってらっしゃい"って、ほんとなに考えてるのよ。付き合いたてのカップルみたいなこと……そう考えたら別に恥ずかしくもなんともなくなってきた。そっか。付き合いたてだと思えばいいのね。納得。
「…付き合いたてかぁ」
今日のお話でちゃんとお付き合いまでできたらいいけど…。どうなるかなぁ…。
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