第10話

 青年も驚いてそちらの方に目を向けたが、言われた男のほうが目を丸くして驚いていた。ダーリンなんて古い呼び方、おそらく物語以外で聞いたのは初めてなのだろう。

「でもあなたなら、きっとほかの人も誘えるから大丈夫よね」

「ねーちゃん、断るにしても、ダーリンがいるなんて今時嘘にもなんねぇぞ」

「あら、でもいるのよ?」

 体の良い断り文句だと判断した男に対し、彼女は真顔で答えている。反応としては男のほうが正しいはずなのだが、彼女のそれがあまりにも自然で、彼女の言葉に違和感を抱いたこちらの方が間違っているのではないかと思うほどだった。

「ほう、そのダーリンとやらは何処にいるのかね?」

「おいていかれちゃったわ」

「そりゃひどい男だ!俺ならこんな美人なねーちゃん、おいていかねぇけどなぁ」

「ふふ、あの人は私が『美人なねーちゃん』じゃなくても、置いていかないわよ?」

 吸血鬼であれば、と言う言葉を伏せたのは意図的だろう。そして青年はもうわかってしまった。彼女は青年がいることに気付いている。あの発言はわざとだ。

 こんなところでも敵わないのかと、青年は自分を情けなく思いながらも、仕方なく二人のところへ割り込みに行かざるを得なかった。

「失礼、連れが何か?」

 大柄でわりとがっしりとした体形の青年の登場に、遊び人の男は少々、いや、かなり怯えて「何でもねぇよ!」と走り去っていった。

―――嫌いなタイプだが、今回は同情する

 走り去る背中を見送りながら、青年は吸血鬼の女性の相手をすることの大変さを知った彼に憐みの視線を送る。

「待ってたわよ、ダーリン」

 何も気付いていなかったかのように、にこっと嬉しそうな笑顔を向けてくる吸血鬼に対して、青年はまたため息が零れた。ため息の数だけ幸せが逃げるのなら、彼女はどれだけの不幸を青年に持って来ているのか数が知れない。

「誰がダーリンだ」

「迎えに来てくれるって信じて動かなかったんだからいいでしょう?」

「信じるな」

「でも来てくれたじゃない?」

「たまたまだ」

 そう言って彼はまた歩き出す。吸血鬼がほほえまし気にその背中を見ていると、彼がくるっと振り返った。

「何してるんだ、さっさと行くぞ」

 その言葉に、吸血鬼は満面の笑みで「はーい」と返し、追いかけていった。


 家に着くなり、吸血鬼はきょろきょろと室内を見回す。生活感の感じられないキッチンに年季の入ったソファ、カーペットなど敷いているわけもなく、布団もふんわりと言うには少し物足りない。床は汚くはないが最低限の綺麗さで、この世界では珍しい脚の低いちゃぶ台のようなテーブルの上は、どこで食事をとっているのか解らないくらいに書類が散漫していた。

 そんな空間を楽しそうに見学した吸血鬼は、とてもうれしそうにくるりと青年のほうを振り返って笑いかける。

「あなたが普段どういう生活をしているのか、とても解りやすい部屋ね」

「皮肉を言うなら出ていけ」

「褒めたのよ?伝わらない?」

「伝わるわけがない」

 青年が食料補完庫の扉を開けたので、吸血鬼は後ろからこっそりと覗き込む。中には冷気が閉じ込められていて、これも言うところの「機械」なのだと知った。

「・・・え、これだけ?」

「なんだ?」

「いえ、貴方の食料補完庫ってこれ一つなの?」

「そうだが?」

 吸血鬼が唖然としたのも無理はない。何せ食料補完庫の中身は、吸血鬼の家のそれに比べてもほぼ空に近い状態だった。最低限の食料しかなく、青年のその体格を維持していける量とは思えなかったのだ。

「貴方…ずいぶんとエネルギー要らずなのね」

「出先で食う事のほうが数倍多いんだ。ここにあっても悪くなるだけだろう」

「でも今日二人分のご飯はなさそうよ?」

「お前の飯は考えていない」

「さすがにそれはひどくないかしら?」

「言っただろう、俺は優しい人間じゃない」

 ばたんと勢いよく扉を閉めると、青年は顔を傾けもせず、威圧的に吸血鬼を見下ろした。けれども吸血鬼は堪えることなく、平然と上目遣いで彼を見上げてきた。

「でも私の事を迎えに来てくれたでしょう?」

「あの状況で行かないわけにはいかないだろう」

「けれど貴方が私を迎えに来てくれていなかったら、私は今頃どうなっていたのかしら?」

「自力で逃げていただろうな」

「私もそう思うわ」

 青年の回答に、彼女は否定するどころか肯定した。一体何が言いたいんだとため息をつき、彼は棚にしまってあった食材の確認を始める。すぐに、吸血鬼はその背中に声をかけた。

「優しいことは良いことよ」

 唐突に、吸血鬼に向かって包丁が投げられる。彼女はそれを黒い影となって交わし、凶器は一直線上の壁にドスっと突き刺さった。

「化け物が知った口を叩くな」

「なんでそんなに怒るの?」

「敵に『甘い』だなんて見くびられて、嬉しいハンターがどこにいるというんだ!」

「誰も『甘い』なんて言ってないじゃない」

 吸血鬼があまりにもきょとんとした顔で言うので、青年は「は?」と、つい拍子抜けしてしまう。とはいえその感情的になった彼の態度に、吸血鬼は思うところが出来たのだろう。とても愉快そうに、ふふふと笑顔をこぼした。

「何が『優しい』なのか、それはきっと主観なのだけれど・・・でも、誰に対しても甘くあろうとしない、貴方の真摯な態度は、おそらく多くの人にとって『優しい』なのではないかしら?」

「・・・詭弁だ」

「そう思うのならそれでも構わないわ。でも優しくない人は罪悪感も持たないし何より…」

 そういって身を翻すと、吸血鬼は投げられた包丁を壁から抜いた。そしてそれを片手に、今度は恐ろしいほど純粋に、嬉しそうに微笑む。

「約束なんて、守ってはくれないでしょう?」

「約束を破れるものなら即刻破っている」と返そうとして、青年は言葉を呑んだ。本当に破れるほどの能力があったとして、破ったとして、彼女を殺さないという選択肢がない限り、彼は嫌が応にも彼女の願いを叶えざるを得ない、彼女にとって「優しい」人物だ。

「相変わらず質が悪いな」

「褒め言葉として受け取らせてもらうわね」

「どうやったら褒め言葉になるんだ」

 青年は吸血鬼に近づくと、その手から包丁を力任せに奪った。突然のことで特に抵抗もできず、あっさりとその凶器は青年の手元に戻ってしまう。

「もうちょっと優しく没収は出来なかったのかしら?」

「凶器を持っている吸血鬼を前に、優しさなど持ち合わせられん」

 彼の言葉に不平不満をぶぅぶぅと漏らす吸血鬼を後ろに、青年は残っていた食材をキッチンに並べた。

「・・・絶対に残すなよ」

 二人分の食材を前にした彼が零した言葉に、吸血鬼がとてもうれしそうに返事をしたことは記すまでもない。


 食事を済ませた二人は、並んで食器を洗っていた。

「凄いわ!これ、油がとてもきれいに落ちるのね!」

「吸血鬼は科学と連なるものは苦手だと記憶していたが?」

「苦手よ?得体が知れないもの」

 平然と返した当の吸血鬼は、洗剤という未知のアイテムに感動し、洗い物の傍らでシャボン玉を作っては遊んでいた。何処をどう見たら「苦手」と分類される行動なのか、青年の理解力が追い付かない。

 思い出してみれば彼女はそうだった。食料補完庫といい、鮮度維持装置といい、機械や科学に対して非常に順応性が高い。感心して、すぐに興味を持つ。まるで子供のようだが、吸血鬼は先ほど彼女が言った通り、「得体のしれない未知」に対しての警戒心が高い生き物のはず。

「不思議そうな顔をしてるわね」

 そんなに表情豊かというわけではなかったはずだが、彼女の観察眼には敵う気がせず、素直に言葉を受け入れた。

「当然だろう」

「そうかしら?」

「人間の『文明』に恐怖心を持たない吸血鬼など・・・」

「それは人の『文明』とやらが吸血鬼を殺すものだと、本能が察知するからよ」

 指で輪を作ってシャボン玉を作る技術を着々と向上させ、大きなシャボン玉を次々と彼女は作りだした。しかし息で作られたシャボン玉は空には上がらず、ゆっくりと地面に落ちては消えていく。

「得体のしれないものは命を脅かすかもしれない。だから怖いの」

「お前はその本能がないのか?」

「あるわよ?」

 意味が解らない。そう青年が眉間にしわを寄せると、彼女は楽しそうに笑ってその眉間を指でとんと突いた。

「思い出して?私が貴方と一緒にいるのは何故?」

 そう言われて、青年は「ああ」とすぐに納得する。彼女は死にたがりの吸血鬼だ。だから死ぬかもしれない、自分を殺すかもしれないそれらへの関心がとても高いのだ。そして同時に、それらを恐れることもない。なぜなら―――

「死ねるから・・・か」

「物分かりのいい子は大好きよ」

「お前に好きと言われても何も嬉しくないな」

「たまには連れてくれてもいいんじゃない?」

「無茶を言うな」


 けれどもこの時、青年の心にはわずかばかりの変化が出来た。

―――なぜ、この吸血鬼はそんなにも死にたがっているのか

―――なぜ、生きることを、血を吸うことをそんなに恐れているのか

 そう、関心を持ち始めていた。

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