第9話

 青年の家は街の中でも割と外れのほうにあるため、門からは距離がある。そのため、まだもう少し到着までには時間がかかりそうだった。

 話の続きが気になる青年が自分なりにいろいろ考えていると、徐に女性が口を開いた。

「吸血鬼って、何を主食にしていると思う?」

「・・・血液だろう」

「そうね。『ただ生きるだけ』ならそれで事足りるわ」

「何が言いたい」

「足を止めちゃダメよ。聞かれたら困る会話でしょう?」

「ならこんなとこで話すな」

「貴方の家まで我慢する?」

「……」

 今いる場所から青年の家までの距離と時間は誰よりも青年が良く知っていた。先ほどの「食事」のところまでなら我慢できたものを、そこまで話を進められて焦らされるのはごめんだ。

 ゆっくりになっていた歩幅を元の調子に戻すと、女性が言葉を続ける。

「外見上の若さを保ちたいのなら、生命力がいるのよ」

「・・・なるほどな」

 そこまで行けば、もう続きなど必要なかった。

 飼育されている吸血鬼は大方新鮮な血をもらうことが多い。それは飼い主が直接飲ませていたり、また吸血鬼のエサとして孤児や誘拐した若い女性をオークションで買って与えるなどと言う話も、裏とつながりのある「ハンター」という仕事をしていると耳にしたこともあった。もちろんそれらの真偽は不明だが、少なくとも「全てが嘘ではない」と思うくらいには確信のある話も聞く。

 吸血鬼は現在の生物カースト上ではかなり上位の生き物だ。当然、野生動物たちはその危険さを本能的に感じ取っているのだろう。彼が女性の家に行ったときにも目撃していたが、彼女の家の周りには鳥も獣も一切の姿がなかった。野生の本能とやらで察していると思われるが、あれでは狩りをするにしても難しい。どんなに身体能力が高くとも、獲物がいなければ狩りにおいて意味を為さない。

 ともなれば、おとなしく過ごしているだけで生命力の豊富な「生きたエサ」に出会うことが出来るのであれば、それほど楽なことはないだろう。吸血鬼のほうが長命なため、飼い主が変わることも珍しくはないが、飼育「される」ことに味を覚えた吸血鬼がおとなしいふりをして転々と様々な人に飼われているのだと思えばまた見方は変わる。

「ほんと、同族として恥ずかしいわ」

「嫌な点だけ、同族と認めるのか」

「そういう嫌なところだけ拾ってくる点は優しくないわね」

「俺のことを優しい人間と思っているのなら見直せ」

 吸血鬼に優しいと言われたのがそんなに嫌だったのか、青年はぴったりとくっついていた彼女を振り払って足早に進み始めた。吸血鬼は簡単なことで機嫌を悪くした青年の子供っぽさに驚かされながらも、ふふっと無邪気な少女のようなほほえみをこぼしてから、青年を追いかけて駆け出す。

 追いついた彼女は再び腕にしがみつこうと手を伸ばしたが、青年にやすやすとかわされてしまう。

「あら冷たい」

「もとより優しかった記憶などない」

「冷たくなければならない理由でもあるの?」

 それは吸血鬼の、興味本位のなんてことのない質問だった。だが青年にとってはあまり気持ちのいい話題ではなかったらしい。苦虫を噛み潰したような反応をした後、彼はだんまりを決め込んだ。そのまま、小走りで追いかけていた女性を置いていくように歩幅を広げて置いていくように歩き始める。

「あん、待ってよダーリン」

 わざと彼を怒らせ反応をいただこうとした吸血鬼だったが、その目論見は叶わず、青年は何の反応もなく人込みに消えていってしまった。

「・・・本当に置いていかれるとは思ってなかったわ」

 敵だらけの街の中で一人、女性は取り残されてしまった。


 自宅に着いた青年は、イライラとした様子で扉を荒々しく開けて入った。肩から下げていた鞄を床に投げ、応接間にある年季の入ったソファに勢いよく倒れ込む。それからバンバンとソファに力のこもった拳を何度もたたき込んだ。ギリッと食いしばった歯のなる音が頭に響く。が、夕暮れの静かな街に佇んだ我が家という安心感からか、彼の苛立ちはゆっくりと鎮まっていった。

「・・・はぁ」

 無駄に入っていた全身の力が抜け、空回りに怒った分の疲労感が彼を襲う。ゆっくりと身体を返すと、歴史を感じる天井が目に映った。冷静になるとどうしてそんなに怒りを感じたのか、青年自体理解できていなかった。ただ、彼女に「優しい」と言われたそれがひどく屈辱的で、青年の逆鱗に触れていたというのが、おそらく正しい回答になるのだろう。

『優しいなぁ、お前は』

 人間の知り合いからも、何度だって言われた言葉だ。多くの人は褒め言葉として受け取る言葉。それでも青年にとって「優しい」とは、「甘さ」の象徴だった。誰に対しても甘く接しているつもりはないのに、甘いと言われる。厳しくなれないそれが、彼にとってはとても惨めで、不完全で、自分自身が哀れだった。

―――それを・・・よりによって天敵である吸血鬼に言われるとは

 青年はもそっと動いて扉の方を見る。それからゆっくりと部屋全体を見回した。静かで、誰もいない、居心地のいい部屋。だが。

―――あいつは、どこ行った?

 青年はばっと起き上がって、再度周囲を見回した。どこにも吸血鬼の姿はない。何処までいたのか、どこではぐれたのか、青年は必死に記憶をたどる。

―――どこだった?あいつはどこまでいた?俺は何処であいつを置いてきた?

 冷たく嫌な汗が、筋肉質な太い彼の首筋を辿った。吸血鬼には「はぐれたら知らない」と再三言っていた。それではぐれたのだから、自分には非はないはずだと言う考えが巡る中、それでも青年が意図的に彼女を置き去りにしたという感覚も否定することが出来ず、青年の罪悪感を苛んだ。

「いや、でもあいつは吸血鬼だから俺なんかには置いていかれないはずだ…」

 不安なあまり思考を声に出してみたが、青年の心にかかった靄は全く晴れることがない。むしろ、この環境で吸血鬼と疑われるような行動をとれるのかと責め立ててくる自分自身を青年は諫めることが出来なかった。

『――――――』

 青年の中で、晴れやかな笑顔で何かを言う彼女の顔がよぎる。

「くっそ!胸糞悪いっ」

 大きく舌打ちをすると、彼は鞄も持たずに家を飛び出した。


 通ってきたのは意識しなくても帰ってこれるくらいの最も慣れた道だ。彼らの歩いていた時間は人通りが多かったが、夕日も沈み、月が顔を出した夜ともなれば、昼間の賑わいは地に沈みきっていた。街灯がところどころを照らしていて、人を探せないというほどではなかったが、女性一人でいては人だろうと危ない夜道と化している。吸血鬼の彼女が襲われるということはないだろうが・・・

 彼女が動いていないという確証もないまま青年が彼女とはぐれただろうと判断した大通りに出ると、すぐに下品な声が聞こえた。

「よお、ねーちゃん、えらい美人じゃねぇの」

 昼間の彼女ではないが、ああいった輩を青年は「人間の男」という同種として嫌悪していた。機械油をわざとしみこませたような服に、首にゴーグルを付け、いかにも働いているような身なりをしているが、ゴーグルの綺麗さや腰回りに工具入れを付けていないこと、機械油以外の汚れが全くついていない点など、青年から見れば一目で遊び人だと見破れる荒い変装である。

 声をかけられた女性を助けるか、吸血鬼を探すかで少し葛藤をしていると、その女性は聞きなれた声でその男に返事をする。

「あら、ありがとう。褒めてもらえると嬉しいわ」

「謙虚な女だなぁ。俺ぁそういう女が好みだ」

「うふふっ、あなた褒め上手ね」

「おっと、笑い方も上品と来た。さては家出でもしてるいいとこのお嬢さんだな?」

「お嬢さんだなんて…もうそんな歳じゃないわよ」

 声をかけられている女性が吸血鬼だと、青年の中で確信を得たが、その話の中に割り込む度胸は無かった。嫌悪しているような輩を助ける義理もなければ、吸血鬼がどうなろうが青年にとってはどうなってもいいことだ。どちらが死んでも青年にとっては万々歳の結果になるはずだったのだが…

「なぁねーちゃん、ちょっとそこの路地にある酒屋で楽しいお話でもしようや」

「あら、それは楽しそうね」

 男の指した路地に普通の酒屋はない。いわゆる歓楽街と言われる路地で、下心のある男や体を売る女が多い、青年が嫌うような道だ。

 助ける義理はないが、相手がたとえ吸血鬼でなくとも気持ちのいい話ではない。青年は家に戻ろうとしたその時、会話をシャットアウトしたはずの彼の耳にわずかだが彼女の声が届いた。

「でも私、ダーリンを待ってるの。だからそのお誘いには乗れないわ」

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