第3話
「そういえば、貴方、人間なら名前があるでしょう?」
作ってもらった朝食に警戒心を持ち、目玉焼きを突いていた青年に吸血鬼が尋ねた。青年はわずかに顔を上げて彼女の顔を見たが、また目玉焼きに視線を戻す。安全と判断された目玉焼きは、その目玉の部分にフォークが突き刺され半熟だった黄身がとろりと溢れ出した。
「お前に名乗る名などない」
「呼ぶのに不便だわ」
「ここには人間と吸血鬼しかいない。他の吸血鬼同様『人間』とでも呼べ」
「私は他の吸血鬼とは違うの。人を家畜だなんて思ってないわ」
「なら『ハンター』でいいだろう。俺もお前の名前など聞かない」
青年が嫌がるのも仕方のない話だ。何せ、吸血鬼の中には名前を用いて生き物を使役する者もいるという。たとえ本当に彼女が無害だったとしても、会って二日で名前を教えるほどハンターも愚かではなかった。
けれども、この吸血鬼もまあ諦めが悪かった。
「じゃあ渾名でもいいわ。いつもなんて呼ばれているの?」
「………」
青年は何も言わずに彼女を睨んだ。けれどもそんなの痛くも痒くもないようで、女性はニコニコと楽しそうな笑みを浮かべたままである。
はぁと大きくため息をついた青年は席を立つと、崩したばかりの半熟の目玉焼きをゴミ箱にそのまま捨てた。もったいないと吸血鬼が声を漏らしたが、怒っているという感じもなくただ淡々と感想を漏らした程度のようすだ。
青年はおそらく吸血鬼が丁寧にかけてくれたのだろうハンガーにかかったシャツを手に取ると、パジャマ代わりにしていたタンクトップの上から着込んだ。銃のホルダーを腰に着け、弾が装填されていることを視認してから銃をセットする。
上着に手をかけようと手を伸ばすと、その服と青年の間にいつの間にか吸血鬼が割り込んでいた。
「…どこに行く気かしら」
「答える義務は無い」
「貴方を帰すわけにはいかないの」
「俺は吸血鬼に飼われた記憶はない」
吸血鬼の中には趣味嗜好の関係で、人間を飼うものも多い。その目的は犬猫を飼うような感覚だったり、ラブドールの代わりだったり、非常食としてだったり、召使としての利用だったりと様々だ。
吸血鬼たる行動を指摘され、彼女は言葉を詰まらせた。
「貴方が街に帰る気なら、私は先に街に行って人を殺すわ」
「ちょうどいい。なら俺はお前を殺してもいいってことになる」
「…私の目の届かないところにあなたが言った時点で契約は反故よ」
青年は頭の中で例の契約がなくてもこの女性を殺すことが出来るか否かをフル回転で計算を始める。それに気付いた彼女は、牙を見せて狂った笑みを見せた。
「なんなら、貴方を吸血鬼にする方法もあるわ」
「……」
全く状況は平等ではなかった。青年は嘆息を吐いて、上着に伸ばしていた手を引き、もともといた妙に座り心地の良かった椅子にどかりと無作法に座った。
「全く…服ぐらい取りに行かせろ」
「服?」
先ほどの表情が嘘のように、毒気の抜けた顔で吸血鬼はきょとんとする。
「そうだ。ずっと同じ服ばかり着ていては洗う手間もないだろう」
「あら、なら私の服を着ればいいじゃない」
「本気でそれを言っているならお前の目は節穴だな」
白く折れそうな細い腕が代表している華奢な吸血鬼の肢体と、格闘家ほどゴリゴリと言うわけではないが、筋肉質でがっしりとした体躯の青年では、たとえ吸血鬼が男女兼用の服を持っていようと合うわけがなかった。
「冗談よ。そんな怖い顔しないでちょうだい」
「そういう冗談は好かない物でな」
腕を組み、足まで組んだ偉そうな態度の青年に、吸血鬼はぼそっとつぶやく。
「…心の狭い男ね」
「聞こえてるぞ」
「地獄耳っ」
吸血鬼は「いーっ」と怒った顔を向けたが、青年はどこ吹く風だ。自分が不利だという状況を理解していないのだろうか、それとも何か策でも思いついたんじゃなかろうかと吸血鬼は少し警戒する。
「そういえば名前」
「諦めろ」
「嫌よ」
「しつこい女は嫌われるぞ」
「あら、貴方私の事好いてくれていたの?」
色恋沙汰の時に女性が見せる、特有のにやにやとした笑顔を吸血鬼が青年に向ける。しつこさが嫌だったのか、そのからかいが気に食わなかったのか、青年の眉間にしわが深く寄った。
「名前は個人を特定し、限定するものだ。たとえ魔法や呪術が使えなくとも、使役や拘束の効果を持つ。教えてもらえると思う方がおかしいだろう」
「でもハンターとして名前の登録をしているんでしょう?」
「偽名だ」
当然、と言う雰囲気を醸し出しながら、青年は即答した。が、それは吸血鬼は驚いたあと、口元に手を当てて嘆きだした。
「可哀想…っ!貴方の本名は誰にも呼ばれないのねっ」
「何も可哀想じゃないだろう」
「いいえ、可哀想だわ」と断言すると、吸血鬼は青年の前まで歩いていき、組まれたその脚に手をついてぐいと顔を近づける。
「名前には意味があるの。その意味が機能しないのはとても可哀想な話だわ」
「意味が解らん」
「解らないでしょうね。でも本名を呼ばれることはこの上なく幸せなことなのよ。他の誰でもない貴方だとするものだし、貴方自身が自分がどんな人間だったのか忘れないでいられる要素の一つでしょう」
なんでこんな名前一つで熱くなるんだと、青年は面倒くさく感じた。近付けられた額に自分の額をぶつけるようにして、超至近距離で色気のないにらみ合いを始める。
「俺は自分を見失わない」
「見失うわ。それに気付いてないだけよ」
「俺は馬鹿じゃない」
「馬鹿とか関係ないの」
「お前に俺の何が解るんだ」
「解るわよ。名前を呼ばれない寂しさは、人をおかしくするんだから」
「何をわかったような口ぶりを…」
腿に乗せられていた女性の腕を乱暴に退けると、青年は立ち上がった。顔の位置が頭一つ分変わる。顔を下げずに見下ろすと、女性の肩が小さく震えていた。
「…解るのよ。だって私…名前を覚えていないんだもの」
「覚えていない?」
「そうよ」と肯定すると、女性はばっと顔を上げて彼を見る。その大きな瞳はいくらか水分を多く含んでいるように見えた。
「名前なんて忘れないだろうって思って生きてきて、ずっと名前を呼ばれなくて、呼んでもらえなくて、気付いたら名前を忘れてて、そうしたら自分がどう生きてきたのか解らなくなってしまって、自分がどんな人だったのか思い出せなくて…」
「おい」
「貴方にとっては馬鹿だと思うことかもしれないわ!でも名前は使わないと死んでいくのよ!」
ぼろぼろと、吸血鬼の目から涙があふれ出した。一体この吸血鬼の過去に何があったのか解らないが、とりあえず青年は吸血鬼の中のトラウマに触れてしまったらしい。この相手が吸血鬼だと、化け物だと頭に言い聞かせても、女性を泣かせたという罪悪感が青年にまとわりついて仕方ない。
「…解った、名前が大切なのは解ったから落ち着け」
「じゃあ教えて頂戴」
「それは無理だ」
あくまでも理性的に返す彼の腹に、吸血鬼が弱々しくパンチを入れる。鍛えられた青年の腹には何のダメージもなく、けろりとしたその顔が悔しくて何度も叩いてから、吸血鬼は徐に青年に抱き着いた。
――――なんなんだ、一体…
服がないと言ったばかりなのに、吸血鬼の涙が青年のシャツに染み込んでいるのが分かった。気付いた彼は慌てて剥がそうとしたが、先ほど叩いた時とは異なる異様な力の強さに敵わず、青年は彼女をはがすのを諦める。
子供のようにしがみついて離れない女性に辟易しながら、青年はその小さな体を上から見る。吸血鬼は不老不死だ。厳密に言えば不老ではないのだが、人の血肉から若さを保てるという性質から言えばそういっても過言ではないだろう。だからこそ、この女性が何年生きてきたのかなど解らなかった。ましてや、なぜこんなところに一人で住んでいるのか、どんな闇を抱えているのかなど青年の知れるところではなかった。
そしてふと、彼は気付く。
「…待て、さっきの話が本当なら、お前は自分の名前を知らないのか?」
彼の問いに、女性はしがみついたままこくりと首を動かした。つまり迂闊に名前を教えていれば青年の名前だけが縛られ、意図していようがなかろうが状況はなおさら不利になっているところだった。
――――油断も隙もない
吸血鬼が泣き止むまでの数十分、濡れた服をいかに早く乾かせるか、着替えをどうやって調達するか考えながら、彼が物理的に拘束され続けることになったのは言うまでもない。
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