第2話

 ふわりと柔らかな温かさを持った朝日が青年のベッドに差した。妙に上質なベッドで、自分はこんなところで寝ていただろうかと彼は自分で不思議がる。けれどもその謎はすぐに解けた。

「あら、起きたのね寝坊助さん」

 思い出した。昨晩、青年はこの吸血鬼の家に泊まったのだ。


 時は約束をした時まで遡る。

「あんたが吸血鬼になったらって…もう吸血鬼だろう」

「だから、血を吸っていないのだから人と同じでしょう?」

「生物学的な話をしてるんだ」

「生物学的に有害だからって無害な生き物を殺すなんてひどい話だわ」

 むすっと吸血鬼は頬を膨らませた。大人の女性がやる動作ではなく、妙な子供っぽさがある。青年が少し引いた顔をすると、それも「ひどい」と責められた。

 苦手な流れになってきた青年は、こほんと咳払いをして区切ると元の話に戻す。

「あとから有害になると解っているのなら、無害なうちから殺す方法もあるだろう」

「なら吸血鬼より人間のほうがずっと有害になるじゃない。その理論を正論とするなら、貴方は吸血鬼より人の子を殺すべきよ」

「人は数が少ない」

「吸血鬼だって同じくらい少ないわ」

 しばしの沈黙が走る。だがそこで青年は悟ってしまった。吸血鬼は人間の何倍の物年月を生きるという。ましてや彼のような若輩者よりは、この女性のほうが数倍物を知っているだろう。つまり知識量で完全に負けているわけで。

――口論では勝ち目がないな

 元々人間で言ったって男性より女性のほうが何倍も口が上手いという。とてもじゃないが敵う気がしなかった。体力の浪費を得策ではないと考えた青年は銃にかけていた手をハンズアップの姿勢で上げる。無理やり殺してもいいのだが、銃にひるまなかったこの吸血鬼に奇襲をかけても殺せるように思えなかったのだ。

「解った。お前の望む時に殺してやる」

 嫌悪の籠った鋭い視線を向けると、彼女はとてもうれしそうに、ただし人を殺す牙をしっかりと見せて笑った。

「理解力のある人で良かったわ」

 脅しだ。そう青年は思ったが、特に吸血鬼に対して何も言う気は起きなかった。

 すぐに殺せないのであれば長居は無用だという考えも生まれ、青年は踵を返し来た道を戻ろうと足を踏み出す。と、後ろにいたはずの女性が彼の目の前に立っていた。

「あら、どこ行くの?」

「……」

―――この吸血鬼、かなり強いな

 分身したわけではない。目の前のこの女性は、いや、この女性の肉体は方向転換する前に彼の目の前に立っていたそれと全く同じものだ。つまり、彼女の動きは人ならざるものだったのである。

 青年は眉間にしわを寄せると、しかし一歩も退かずに、むしろ男女の顔の距離としておかしいほどにまで距離を詰めて威嚇する。

「帰るだけだ」

「何処へ?」

「家に決まっているだろう」

「あら、それはダメよ」

「は?」

 あっさりと、至極当然といった様子で否定した女性に、青年は眉間にしわを深くさせた。けれども女性にとってその変化は注目するに値しない物らしい。

「私、いつ吸血鬼になるか解らないのよ?」

「…それは脅しか?」

「脅しじゃないわ。だって私、血を飲まずにきて今のところ1000年は経っているもの。いつ血に飢えて人を襲うのか、私自身解らないのよ」

 吸血鬼は整った面立ちを存分に発揮する笑顔で彼の視界を埋めるように、その白い腕を青年の首に回した。

「だからあなたは私を見張ってなければならないの」

 冬の青空のように冷たく澄み切っていた青色の瞳が、ほんのりと血に染まる深紅色に輝く。

「私の望む時に、私の事を殺してくれるんでしょう?」

 完全に言質を取られた。別に家族がいるわけでもないし、恋人が待っているというわけでもない。三日四日家を空けることはもともとざらにあったもので、盗まれて困るようなものも置いていないし、その前にセキュリティもしっかりとしていた。青年がすぐに困るようなものなどなかった。

 けれども彼女の変化に本能的に青年は焦りを感じる。殺されるという、被食者としての本質的な警告音が脳内に鳴り響いたのである。

 彼はすぐ懐から拳銃を取ると、彼女に向かって発砲した。ほんの数秒の出来事だ。けれども彼女の身体はすぐそれに反応し、黒い蝙蝠のような姿に分散しその身を散らばせ、彼から少し距離を置いたところでそれらが集まってまた女性の形を成した。そしてその女性はとても…ぶりっこのような格好で涙ぐんでいる。

「ひどいわ…っ!私まだ吸血鬼になってないのにっ」

「そんな芸当しておいてよく言う」

「殺されそうになった時に何が何でも生きようとするのは人間だって同じでしょう」

「人間は霧散しない」

「それはただの能力の問題よ。吸血鬼がそれを使わないのと同じだわ」

 吸血鬼は使わない、と彼女が指差したのは拳銃である。吸血鬼には機械文化がなかったため、機械系の代物はほぼ扱えないと言っても過言ではなかった。


 そんなこんなで夜まで青年は逃げられず、吸血鬼の家での監視状態となった。「薬草を取りに行く」だの「晩飯用に肉を調達してくる」だの、何を言っても必ず彼女は付いてきて、彼から一歩も離れずまとわりついてくる。

 ただ、夜だけは違った。

「貴方、テントは持ってる?」

「…夜は外で寝ろ、ということか」

「そうじゃないけど…私、一応女性なのよ?気を遣わない??」

 既出事項だが吸血鬼は繁殖として性行為は行わない。吸血行為によって種族を増やす人種のため、厳密には男女などないに等しいはずなのだ。そのため何が言いたいのか青年にはよく解らなかった。

「お前が人間だったら気を遣っただろうな。というか余計な心配をするな」

「吸血鬼とそういうことをするのを好む人だって世の中にはいるんだから、身構えてしまったっていいでしょう!ああ、もう恥ずかしい」

「だいたい、この状況なら襲われるのは俺のほうだろう」

「それよ。それもあるわ。怖くないの?」

 普通、吸血鬼とともに過ごせば、夜の間に食事にされるか眷族にされるかが多いだろう。つまり女性が襲われる可能性より青年が襲われる可能性のほうが数倍高かった。だが。

「女性に襲われてやられるほど、やわじゃないんでな」

 昼間さんざん言っても口では勝てなかった女性の真っ赤になって慌てふためく姿がひたすら愉快で、青年はにやりと笑いながら手持ちの寝袋を広げた。そしてその中にもぞもぞと潜り、嗤いながら「そうじゃなくて…」と林檎のように赤く染まった彼女を見やる。

「それに、俺が襲われた時はお前が吸血鬼になった時だ。殺せる絶好の機会を今更逃してやる気はない」

 監視体制はとられていたが、そもそも青年にはもうほとんど彼女から逃げる意志はなかった。危険な吸血鬼が殺せるのであれば、この茶番にも付き合ってやろうとすでに腹をくくっていたのだ。

 ぽかんと虚を突かれた顔をしている吸血鬼の顔は愉快だったが、獣すら通らない山道の散策に疲れていた彼は、すぐに眠りに落ちてしまったのだった。


「…待て」

 部屋を去ろうとしていた女性の腕をつかんで青年は引き留めた。女性がぎょっとした顔で振り向いた後、妙に身を固くした。

「そうすぐ身構えるな、自意識過剰」

「その言い方は傷付くわ…」

「そんなことより、俺の寝袋は何処だ」

「あら、夜のこと覚えてないの?」

 ちょっと照れたような動作をする女性に、青年はまさか…とサーっと青ざめていった。

―――寝ぼけてベッドにもぐりこんだとでもいうのか?俺が?

 女性の手を握っている手がゆるゆると緩んでいき、彼女の手が自由になった。吸血鬼は彼の脚に乗らないように気を付けながらベッドに縁に座ると、彼の顔をじっと覗き込む。しばしの間があって、彼女が続けた。

「昨晩、私あなたに躓いて転んだの。で、邪魔だから持ち上げてベッドにポイって」

「お前が引きずり込んだのか…」

「ええ。貴方の理性を信じたのよ?野獣さん」

 彼女のにこやかな笑顔に彼が殺意を覚えたのは言うまでもない。

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