青年と吸血鬼の話

神田 諷

第1話

 鬱蒼とした森の中を青年が一人、歩いていた。彼の行くその道は足首はおろか、下手をするとひざに触れるほど立派に育った雑草に溢れ、人の出入りはおろか、獣すらその周辺に近寄っていないと言う事が感じ取れる。

 ぐっと、青年の長いコートの裾を何かが引っ張った。振り返った彼は、コートの先を見てチッと舌打ちをする。コートの裾が折れた木の枝に引っかかっていたのだ。彼は乱暴にコートを引っ張ると、びりっとさらに最悪な音が耳をつく。

「気に入ってたのに…」

 残念がるというような可愛さは微塵もなく、その言葉にはただただ天災によって折られただけの木への殺意が向けられていた。もしここに野生動物がいたのなら、彼のその殺気に飛び退いて逃げたであろう。

「もし情報がデマだったりしたら、あの酒屋の親父に払った金を返してもらうか」

 そう。彼はある目的があってこのような辺境地へと赴いていた。

 吸血鬼。昔から伝承だったり畏怖の対象として知られている存在。それはこの世界でも同じで、その存在の有無さえ議論になるようなほど遠い生物だった。

 しかしほんの数十年前、薬学と魔法で成り立っていたはずのこの世界に機械化が進んだ。魔法が使えない者や魔力の少ない物でも機械があれば同等の火を起こすことが出来、水を動かすことが出来た。この画期的な発明と発展は人々に希望をもたらしたが、同時に資源不足と言う解消されない渇きも与えることになった。そこで初めて、人々は自分たちが暮らしていた領域を飛び出し、他の生物の領分を侵し始めた。今まで不可侵で平和を保っていた世界は均衡を失ったのである。

 資源を求めた人々の力と言うのは、激しくも恐ろしいものだった。巨大な魔物が出る地域に行けば、その魔物の子供を捉えて飼いならし、機械を動かす動力としての利用価値を見出した。また人喰い植物が現れる区域に行けば、否応なしに火を灯し、その植物の悲鳴を肴に酒を飲み、祭りを開いた。

 けれども、その邁進もある日を境に撤退を始める。

 それが、吸血鬼との出会いだった。不老不死で身目麗しいという特徴を種族として持つ吸血鬼に人々は占領された。だが同時に吸血鬼たちにとってもそれは、今まで主食としていた魔物よりも遥かに美味い食料であり、繁殖能力の低い彼らが簡単に寄生し眷族にすることのできる最高の生物との出会いでもあった。

 人々がそれに気付いた時にはもう時すでに遅かった。人類は再び元の住処に戻ることで絶滅、乃至は戦争は回避したが、その数は明らかに激減してしまっていた。

 今では吸血鬼が襲ってくることはめったにない。とはいえ全くないわけではないので、人々はその近付きすぎた異質に常に怯えて暮らしている現状だ。

 青年がこの森に来たのも、この森に吸血鬼が住んでいるらしいという噂を聞いたためだった。

 森に入ってから獣も鳥の声もなく、ただ風に揺らされ擦れる葉の音だけが耳をつくなか四時間。もはやデマだったのではと青年が酒屋の親父に対し慰謝料やら確認に行った手間賃などの請求を考えて始めたその時だった。

 大きく、広く開けた場所に彼は出た。深さよりも広さに目が行く川が流れていて、茂っていた雑草も踏みつけられてかかなり短い状態で成長を止めていた。そしてその川沿いを目で追っていくと、一件のログハウスが目につく。

「…ビンゴか」

 青年は歩きやすくなった道を、ログハウス一直線に向かって進んだ。

「あらあらまあまあ、お客さん?」

 唐突に掛けられた声に、彼は警戒心と殺気を高めてばっと振り返る。するとそこにはこの世の物とは思えないほどの白い肌をした、美しい女性が佇んでいた。見る人によってはこの森の精霊、ないしは女神とのたまう輩がいても笑うことは出来ないほどの、現実離れした麗しさだった。さすればその手に抱えている籠の中身はさしずめ楽園の果実と言ったところか。

 けれどもこの青年はその手のことにはてんで興味がなく、その外見から彼女が吸血鬼だと判断した。

「…あんたがこの森に棲む吸血鬼か?」

「そうねぇ、私以外に棲んでないのか解らないけれど、私もこの森に棲む吸血鬼ね」

 質問に対しきょとんとした顔をした女性だったが、彼女は自分の存在を思いのほかあっさりと吸血鬼だと肯定した。

「そうか…なら悪いが」

「あなたは?」

「は?」

 言葉を途中で遮られた上に、質問まで投げかけられ青年は思わずぽかんとした。すると女性は彼の殺気に臆することなく、ちょこちょこと歩み寄って自分より背の高い青年を覗き込んだ。

「私は吸血鬼よ。あなたは?」

「…人間だ」

「この森に棲んでいるの?仲間かしら?」

「聞いてたのかあんた。俺は人間だ」

「この森には棲んでいないの?」

「棲んでいるわけがないだろう」

「じゃあなんでここにいるのかしら?」

 可愛らしく小首をかしげる女性に、青年はコートの下から拳銃を取り出しその額に銃口を突き付けた。

「俺は吸血鬼ハンターだ。あんたを殺しに来た」

「まあ怖い」

 女性は果物の入った籠を落として見せたが、その顔はそれほど怯えていないのが出会って数秒でも感じ取れる。少し拍子抜けしながらもその拳銃の引き金を引こうと指に力を込めた時、彼女は言葉を続けた。

「でも私、まだ死にたいと思えないの」

 その一言に、青年は思わず指の力を緩めた。

「…は?」

「だって何も悪いことしてないのよ?人を襲う吸血鬼がいるのは知っているけれど、私は襲ったことはないし、何ならほら、何もしていない私は今人間から襲われてるわ?」

 なんだこいつ。青年がそう思ったのはもう言うまでもないだろう。ただ、彼女はとても楽しそうににこりと笑った。

「それに私ね、血を飲むのが嫌いなの。菜食主義っていうのかしら?」

「何を言っている?吸血鬼は血を飲まないと死ぬものだろう」

「そうねぇ、不思議」

 くすくすと笑う顔は女性と言うより少女のそれに近く、青年の殺意をまた削いでいく。吸血鬼ハンターとして何人もの吸血鬼と対面したことはあるが、実際相互理解が可能だったことは一度もない。そのため彼女に対しても理解しようとも理解してもらえるだろうとも青年は思っていなかった。けれども彼女は違うようである。

「ねぇ、ハンターさん」

「まだ何かあるのか」

「一つ、お願いがあるの」

「あんたはこれから死ぬんだぞ」

「そうね。貴方になら殺されてもいいわ」

 けろりと殺害を許可された青年は、今までぶれなかった精悍な面立ちを呆けさせた。けれども少女にとってはそれは些末なことで。

「…何が願いだ」

「あら、やっぱり顔に似合わず優しいんだわ」

「一言余計だ」

 ふぅと大きくため息をつくと、青年は拳銃を下した。吸血鬼を信用するなど馬鹿げているとは思うが、このまま何も聞かずにこの無邪気な女性を殺すのはなんとなく気がひけた。それほどまでに彼女は「人間」だった。

「私が吸血鬼になったら、殺してほしいの」


 眉目秀麗な吸血鬼の願いは、とてもいびつなものだった。

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