8
カリオポスと呼ばれた金髪に濃い青の瞳のきりっとした顔立ちのエルフは、何かを書き留めたくて仕方がないらしく羽根のペンでカツカツと木の幹を叩きながら返事をした。
「多分、この宮殿の、天辺の塔だろうね。ああ、人間かあ……」
カリオポスはそう言うと、すぐにあさっての方向へ視線をやって空想にふけり始めた。他の八人のエルフの男達も微笑んでカレンに手を振り、再び歩き出した時に振り返ってみれば彼らは皆ぼんやりとしていたり目を閉じていたり歌い始めたり、竪琴を弾き始めていたりしている。
「今のはこの都市・エルフィネレリアの最高の芸術家と称される九人ですよ。九つの部門で最も素晴らしかった者が、オリンピュアの広場の大会でムーシオスという称号を手に入れることが出来るのです。四百年に一回しかありませんけどね」
カリオポスの謳い上げる叙事詩、英雄譚は素晴らしかったのですよ、とセナイは言った。
「セルナイエス、ってあなたの名前よね?」
天辺の塔へと続く階段、というものを恐る恐る昇りながら、カレンは訊く。大丈夫ですか、と前を昇っていたエルフは振り返りながら答えた。
「ええ、でも長くて面倒でしょうし、セナイでいいですよ」
途中の窓から、ヒューロア・ラライナやドラゴン使いの町とは似ても似つかない、この美しく整えられた都市の景色を眺める。真っ白な壁の白い家は低く、その向こうには初めて見る青い海が広がっていた。同行者がその場所から見える木の種類を全て教えてくれる頃には、二人は党の天辺にいて木で作られた小さな戸の前に立っていた。
「アスクレピア、いますか」
戸を叩きながらエルフが大声を出すと、だあれ、と艶やかな声が言った。
「何年か振りの声がするわねえ、一体何処のどなたがあたくしを誘いに来て下さったのかしら?」
「セナイです、よろしいですか?」
戸の向こうで歓喜の声が聞こえた。一体どうしたのかと火術士が思った瞬間、凄まじい勢いで木の戸が開き、乱れた服のエルフの女がセナイに飛び付いて大声を上げた。
「セルナイエース! 嬉しいわ、とっても久し振りね! 貴方から来てくれるなんて大胆じゃないの、隅に置いておけない人!」
「うわああっ、ちょっと……! 誘いに来たわけではありませんから! ただ協力して欲しいことがあって……って、何でまた貴女はちゃんと服を着てないんですか! 隠してください、上、上!」
と、彼女が抱きついた人の背後にカレンがいるのに気付いた。彼にしがみ付いたままアスクレピアというらしい女は燃えるように赤いその瞳で人間の若い女を観察し、ややあってにっこりと妖しげな笑みを浮かべる。
「あら、まあ。可愛い子じゃないの、人間でしょう?」
「あの……カレン=ミストラルっていうの、必要なものがあるってセナイに案内されてここに来たんだけど」
「火使いなのね、貴女? 情熱的だわ、火使いじゃないけれど魔法使いのあたくしと一緒」
エルフの女はいい加減にして下さいと真っ赤な顔で訴えるセナイから離れて乱れたままの服装を直し、改めて火術士と向き合った。
「あたくし名はアスクレピア=フィルネア、セルナイエスとは双子なのよ。ここで薬を作って、お馬鹿なエルフの怪我の治療なんかもやっているわ」
「……要するに、医者ってところなの?」
「あら、人間のそれよりもあたくしはもっと色々なことが出来るわよ。そうね、恋愛成就の媚薬とか相手の体がみるみる緑になっていく呪いの薬草とかもあるけど、試してみる気はないかしら、カレン?」
「――アスクレピア!」
咎めるような鋭い双子の片方の声に、アスクレピアは下を出してカレンが思わず笑ってしまうのを待ってから言った。
「それでセルナイエス、必要なものってなあに? 西の方で大変なことでもあったの?」
「……ああ、中で話してもいいですかね。立っていると足が痛くなりますよ」
セナイはぶっきらぼうにそう答えた。
三人は戸の内側へ入った。薬師はここに住んでいるらしく、そしてその中は大量の服が散らかっていて足で踏める所を探す方が立ち話をするよりも難しいと思えたぐらいだった。ごめんなさいねえと言いながら薬師は手をさっと振り、何十着ものそれを一瞬で宙に浮かせて部屋の隅にそのまま投げ捨てるようにして固めた。
「さあて、何だか沢山聞かなきゃいけないような予感がして仕方ないんだけど、一体どの話から聞けばいいのかしら? セルナイエス」
豊満な胸と尻を揺らして三つの椅子を用意し、その一つにさっさと座った炎使いのエルフに向かって、呼ばれた彼は至極呆れたという風に溜め息をついて言った。
「……もう、今のを見ていて長く話す気も失せたので、手短に行きますね。貴女もご存知でしょう、古代竜のこと……あれから二百年しか経っていないのに、今それが再び現れて、多分ラライの地にいるんです」
アスクレピアはしばらくの間、黙って自身の顎に手を当てて何か考えているようだった。それから彼女はおもむろに立ち上がり、円形の部屋の真ん中にある穴まで歩いて行って、梯子を下りて行った。ほどなくして戻ってきたその人は、手に大きめの二つの壺を抱えて再び椅子に座る。
カレンの心の中には急に不安がはびこり始め、それはどんどん大きく育ってきていた。今、目の前に座る明るい印象を自分に与えたこのエルフは、真剣な目つきをしている。
「さあて、そこでカレンは、当代のレフィエールの力の継承者……つまり愛しの人の為に、ラライの地へと行くわけね? で、そのレフィエールのお坊ちゃんは、何か大切なものを失った。前と同じく、さしずめ家族か兄弟あたりかしら?」
薬師のその言葉に、火術士は仰天した。
「ど、どうしてそこまで――」
「あーら、伊達に千二百年も生きているわけじゃあないのよ、あたくしは」
大きな窓から見えるエルフの家と海が、目の前で妖艶に微笑むその人を一層美しく際立たせて見せる。さらに彼女は言った。
「セルナイエスの言っている必要なものって、多分これよ。二百年前は大変だったわ、何せジアロディスとかいう人間の王が、こっちにまで来たんだから。それで、古代竜の姿で襲ってくるんだもの。あのアミリアがセルナイエスを通じてあたくしに要請してきた時にこれを作ったのよ。全身に塗りたくることね、へパイステアのとーっても固い防御と鋭い反射の魔法をこれでもかってぐらいにたっぷりかけて貰ったから。二百年間、使う人なんていなかったけど」
セナイは二人の女を見た。アスクレピアはこう見えて信頼の置ける薬師だ。大雑把な性格は薬にまで影響していない。彼は、双子の片方に向かって訊いた。
「……それはいいんですがアスクレピア。もう一つ壺があるのは何故です?」
「ああ、これ?」
と、彼女はよくぞ訊いてくれましたと言わんばかりにもう一つの壺をひょいと持ち上げた。真面目だった顔はたちまちにやける。
「是非試してみてちょうだいなカレン、面白いものが見られるわよ。一時的だけどね!」
「……また貴女は余計なものを調合していたのですか! いい加減薬草や獣素材の無駄遣いはやめた方が――」
「あら、そんなこと言っているともてないわよ、セルナイエス」
そういう問題ではありません、と普段その人に似合わないような強い口調で彼は言ってさっと壺を取り上げ、たちまち薬師の手の届かない所へやってしまった。
「もてなくてもいいんです。全く、カリオポスも貴女も揃って同じことを! 私はそっちの方面のことはもう満腹ですから!」
カレンは他愛のない話を聞きながら、考えていた。アミリアは自身より強力な古代竜の力に、この薬のおかげで勝った。ただ、自分は勝ちたいなどとは思わない。彼を助けることが出来ればそれでよかった。死の世界に浸りすぎた彼を、アミリアがしたように死なせてしまうのではなく生の世界へと連れ戻すことが出来るのなら。
……いや、これは“護り”なのだ。彼女は自らの心に強くいいきかせ、口を開いた。
「――ありがとう、アスクレピア」
ふざけていた筈のアスクレピアは、真面目な表情で人間の火術士を振り返る。真紅の瞳にふと笑みが浮かんだかと思えば、薬師はこんなことを言った。
「間違っても、少しでも舌の上に落としたり口に含んだりしちゃ、駄目よ。ラライの民の消えない霊力まで入れたから、肌からは直接染み込まないけど、もし体の中に取り込んだら、あそこの人達が安心して消えるまで、貴女はずーっと生き続けることになっちゃう。人間なのに、嫌でしょ?」
ラライの民の霊力がどんなものかはわからなかった。セナイがはっとしたのであまり良いものではないようだと思い、薬師の手から大きめの壺を受け取る。カレンは言った。
「出来るだけ気をつけるわ。でも、私がどんなことになっても、生きてトレアンを連れ戻せたなら、私はそれでいい」
美しい海を塔の上でしばし眺めてから、二人は再び九人のムーシオス達の傍を通り過ぎた。カリオポスは再び人間かあ、と呟いたし、悲しそうな顔をした一人は悲しそうな表情をした仮面を手でくるくる回しながらエルフと人間の悲恋を歌っていた。その横で羊とたわむれながら蔦の冠を被って大笑いしている一人は印象的だったが。
セナイは、悲しそうなのはメルポメノンで笑いまくっているのはタレイオスだと言った。
「正反対の性格ですけど、彼らは親友なんですよ」
爆笑するエルフを見ながら、不思議ね、とカレンはそれに返す。
色々なことが夢のようで、ただ不安だけが現実であるかのような気がしていた。トレアンの所へ行かなければならないというのははっきりとわかっていたのに、テレノスがもういないということは全く信じられない。あの大きなドラゴンの印象が強烈過ぎて、実感としてそれは沸いてこなかった。代わりに、エルフと色々な話をした。
あのレフィエールの家に行けば、あの戸を叩けば、最初に出会ったドラゴン使いがひょっこりと顔を出して挨拶してくれるのではないか、と思えた。それに、どうしても伝えなければならないこともあった。
すう、と目の前でエルフの転移の術が立ち上がる。
「大丈夫ですか貴女、カレン?」
「……ええ」
火術士は壺を抱え、しっかりと答えた。
今は、自分がここにいて立っていることを考えよう。この体は温かく、大地を歩いているというのも感じ取ることが出来る。死を吟味するのは後だ、と実感の沸いてこない心が言った。今は、生に触れていたい。陽光を照り返す鮮やかなエルフィネレリアの白い石と億万の宝珠をちりばめたような青い海の景色は、とても美しかった。
何日か経った。
このまま消えてしまいたかった。このまま、ここにずっと存在している人々の中に紛れてしまいたかった。しかし、その想いに反するかの如く、自身に宿る何かの力はどんどん強くなり今や全身にみなぎっていた。
弟が綺麗なままでいて欲しくて、彼は人々に頼んでその体を綺麗にして貰ってから、自ら息を吹きかけた。そして、森の木を何本も引っこ抜いて、すぐ傍で炎を焚いた。そうすればもっと温かくなるだろう。自身の体が消えてしまうまでそうしていようと思った。
力なんて、必要がなかった。何かに怒りをぶつけても、この悲しみが晴れることなどないとわかっていた。だから、彼はそこに留まって要らぬ力を蓄え続けている。
貴方はやっぱり、クロウの悲しみを受け継いでいませんね。いつか歌っていた男が、こんなことを言う。
――どんな悲しみなんだ?
優しい、優しい人。男は多彩色の瞳で見上げてきて、言った。悲しみを怒りに変えて他人にぶつけることをしない、悲しくて優しい人。貴方はやはり秩序たるその人なのですね。
男は、決して名を告げようとしなかった。訊いても、ただ悲しそうに微笑んで首を振るだけで何も言わなかった。
空はずっと、曇っている。ここに来た時からそうだった。ラライの民は空に浮かぶその雲のように、実体がなく名前も言うことが出来ない。
実体があるのは目の前の弟だけだった。しかし、彼はものを言うことが出来ない。
声が聞きたかった。もう一度笑顔を見たかった。温かい体をぎゅっと抱き締めてやりたかった。何故、もっともっと話を聞いて、笑わせて、抱き締めてやらなかったのだろう?
彼は吼えた。吼えることしか、出来ることはなかった。
一人がとある方向に首を向けた。それがまるでさざなみのように他の人々にも伝わり、やがてラライの民は皆同じ一点を見つめる。それに気付き、彼は問うた。
――どうしたんだ、皆?
エルフの臭いがする。一人が言った。ジーンの時と同じ、撥ね返す力の臭いがする。
ドラゴンであってドラゴンではない、そんな臭いがする。別の一人が言った。
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