9


 人間だ、魔法を使う人間の臭いがする。さらに別の一人が言った。


 彼もその方向を見た。何も見えないじゃないかと言おうとしたその時、それは現れた。







 ジアロディス=クロウも、こんな気持ちだったのだろうか。強い意志とエルフの堅固な守りの術を前にして、自らの破滅を悟ったのだろうか。それならばもう構わないかもしれないと思ったのだろうか。だがこの体は何もかもを打ち消す力を今や手に入れていた。


 名を呼びたかったが、出来なかった。自分にその資格はない。目の前の人はまた、よく知った者を連れてきていた。ドラゴンから人間の少女の姿に変わるかつての仲間を。


「トレアン」


 ラライの民に囲まれるように彼女は歩いてきた。気付いたら、彼は吼えていた。







 ――近付くな!







 同時に、死の術がカレンに向かって放たれた。しまった、と思った瞬間にはもう遅く、それは彼女を飲み込んで黒いもやで覆ってしまった。


 しかし再びあたりが明るくなった時、火術士はまだそこに立っていた。


 あのエルフの力だ。ラライの民の一人が言った。あの薬師の女と鍛冶の女の魔法だ。彼らはざわめき始め、それが紅の石の崩れかけた町に響き渡る。


「トレアン、やめて。私に攻撃したら、あなたの術があなた自身に撥ね返るのよ!」







 ――僕の体は何もかも打ち消すんだ、エルフは中和しているだけに過ぎない。







 彼女は胸を押さえた。シラクサが、後ろの方でこの町の人々に囲まれて怯え、動けずに固まっている。頭痛がしてきたが、それを撥ね付けるように口を開いた。


「それなら、大丈夫だわ。私は好きなだけ、ここにいられる」


 一歩ずつゆっくりと彼に近付いた。暗い雲がたち込めている空の下に光る、虹色の光沢を持つ白い鱗が美しい。しかしドラゴンは身を引いた。そこでカレンは、周囲で炎が焚かれていて、自分が助けようとしている人が何かを守るようにしているのに気付いた。


 目に飛び込んできたのは白く透き通った生気のない人の肌。それは最後にその人を見た時と全く同じ表情で、そしてそこに横たわっていた。まるで眠っているかのようで、でも揺り起こそうとしても起き上がることはないだろう、それは夢ではなかった。


「ああ……テレノス」


 もっともっと話したいことが沢山あったのに。彼女はその場に手も膝もついた。信じたくなくてもそれは現実で、認めなければいけないことだった。自分をあの時救ってくれた人は、もういない。いずれ別れなければいけない時が来るとわかっていたが、それはあまりにも残酷すぎた。彼は自分の唇に口付けの感触を残してそのままいなくなってしまったのだ。きちんとした自分の想いを伝える時間さえ与えてくれずに。


「どうしてあの時、言わせてくれなかったの……」


 火術士はもう一度泣き崩れた。そして今、兄は火を焚いて冷たい体を温めようとしていた。きっと他に何をすることもなく、食べることもなく、眠ることもなく、動くこともせずにここにいたのだろう。そしてラライの町の人々と共にいたのだろう。


 今、風が吹いても、その人々の黒い髪や服は微動だにせずに固まっている。







 ――もう一度と望み、混乱を起こすくらいなら僕はここで消えた方がいい。テレノスがもういないのはわかっているつもりだ、でも僕に戻る資格はない。迎えに来て貰う資格もない。悲しみをずっと癒されないまま孤独に生きるのなら、この地で消えた方がいい。誰も、きっとこの気持ちはわからないだろうから、自分の内に眠るこの力を抱えることの辛さなんて。







 たった一人しかいない、古代の竜の人。ドラゴンは言って、そして鋭い瞳でカレンを睨んだ。







 ――だから、帰れ。僕が傷付けようとする前に、帰れ。







 彼女はしかし、首を振った。立ち上がってしっかりと彼の多彩色の瞳を見据え、また一歩近付きながら言う。


「……いいえ、行かないわ。あなたにそんな資格がなくても、私はあなたを引っ張って連れて帰るんだから」


 ドラゴンが束の間呼吸を止めた。相手の言葉に驚いたのだろうか、だがすかさず彼は言い返した。







 ――僕は行かない。この姿で、ここで朽ちるべきなんだ!







 頑なな愛しい人の為に火術士はまた新たな涙を流し、さらに近付く。手を差し伸べ、触れることの出来なかったそのうろこに指先だけでも届かせたかった。自分を一瞬で飲み込んでしまえるぐらいのその顎の先だけでもいい、触れたかった。


「あなたは、生きているの。テレノスや……ここの町の人と違って、生きているのよ! 吐く息が、私にだってわかるわ、あったかいじゃない」


 その指先が触れようとした時、ドラゴンは目の前で大きな口を開け、牙を剥いた。







 ――来るな、来るな、来るなあああっ!







「いいえ」


 カレンは叫ぶ。


「例え私がどうなっても、行くわ!」


 そのまま多彩色に輝く顎に、彼女は触れた。彼の動きがぴったりと止まり、周りの全ての音が消える。ゆっくり、ゆっくりと鋭い牙の並ぶ口が閉じ、全ての色を持つ瞳が大きく見開かれた。


 何も音を立てなくなった中で、言った。


「……お願い、戻ってきて、トレアン。これは私の身勝手かもしれないけど、あなたがいなかったらきっと、これから先私は生きていけない。いなくても生きていけるかもしれないけど、私は今のあなたを放っておくことは出来ない。放っておいてそのままだったら、私は絶対にあなたの所へと向かわなかった自分を責めて、後悔するわ。それに、あなた自身、こんなにあったかいじゃない。こんな悲しい場所でも、あなたはちゃんと生きてるのよ。ドラゴンの力とか、そんなの関係ないわ。トレアン、ねえ、トレアン」


 動けなくなったその頭に手を回し、巨大な顎に口付ける。すると、美しい多彩色の巨大な瞳から涙が零れ落ちた。


「愛してる、トレアン。どんな姿でも構わない、だから私の近くにいて。私もあなたの近くにいるわ、約束する。ねえ、お願い、だから戻ってきて。私はあなたと一緒に生きたい、皆に囲まれて生きたい」







 突如光が満ち溢れ、触れていた鱗の感触が消えた。


 カレンは思わず目をつぶって、光の中をまさぐった。彼が消えてしまうのではないか、その恐怖にかられて名前を呼ぶ。すると、声がした。







 ――何で、どうして!







「ねえ、行かないで、ねえ!」


 叫んだ瞬間、ふっと光が消える。巨大なドラゴンの姿は跡形もなく消えていた。しかし、聞き慣れた懐かしい声が代わりに答える。


「……何処にも行っていない、ここにいる」


 一人のドラゴン使いが目の前にうずくまっていた。こちらを見上げているその顔は最後に見た時よりもやせていて、それでも相変わらず美しかった。無表情な彼の瞳は今、彼女だけを視界の中心に据え、その姿を映している。


 もう一回、トレアン、とその名を呼んだ。形の良い唇が動いてかすれた声がカレンと呟く。やがてその表情が揺らぎ始め、ふっと崩れた時にカレンはその体に飛び付いた。

どん、と伝わってくるその衝撃が、トレアンは嬉しかった。そして彼女は本当に温かかった。レフィエールの兄がしなやかで柔らかい体に手を回そうとすれば両手で頬を包まれ、唇を奪われた。


 君はどんな時でも、決して一人ではない。トレアンは口付けの嵐を受けながらいつか夢見たストラヴァスティンの言葉を思い出していた。だから彼は彼女の後頭部に右手を回し、与えられてきたものに応えた。とめどなく涙が溢れ、二人の頬を濡らす。


 唇が離れた時、ドラゴン使いは青く光る生きた瞳を見つめ、それからその体にしっかりと両手を回してぎゅっと力を入れた。


「……ああ、あったかい。生きてる」


 しゃくり上げながら言えば、火術士はそうね、と呟いて強く抱き締め返してきた。







 それから二人は立ち上がった。もうふらつかなかった。


 トレアンは自分の弟にかけていた術を解いた。次に炎も消した。ラライの町に燃えていた光はなくなったが、その時空を厚く覆っていた雲の切れ間から光が差し込んできて紅の石を照らした。何もかもをずっと見守ってきたラライの人々は天を振り仰ぎ、シラクサも我に返ってあたりを見回す。


 帰るのですね。一人が、言った。


「……ああ」


 他に言うことがなくて、ドラゴン使いはそれだけを言った。彼らに実体はなく、その言葉はただ風のように心を撫で、耳に入ることなく肌をかすめて何処かへ飛んでいく。


 また、いつか会いましょう。男が言った。


「……まだここに残るのか?」


 ええ、だってあなたの生はこれからですしね。その人は優しく微笑んだ。それは誰かに似ていて、何だかとても懐かしくて、彼は首を傾げる。そして、はっと気がついた。


 今はこれで、我が愛する息子。瞬きをしたその後に、その人はいなくなっていた。


「――父さん?」


 くすくすと今度は女が笑う声が聞こえた。流石、あたしの後継者ね。見れば、長い黒髪を二つに分けて括っている気の強そうな女だ。その瞳は、他の者とは違う森のような、緑。


「……アミリア?」


 あーら、どうかしら。彼女もまた、消えてしまった。


 見回しても、もう一人も見当たらなかった。しかしくすくす笑う声はまだ聞こえていて、それは一人だけではなかった。トレアンは呟く。


「……森だ」


「トレアン?」


「ドラゴンは生きている」


 カレンがその肩に触れると、鳶色の優しい瞳が振り返った。


「帰ろう、カレン。テレノスも、シラクサも一緒に。生きていても、いなくても共に」


 弟を体の前に抱え上げた。シラクサはドラゴンの姿に戻った。さよならではなく、今はこれで、と言う声が何度も何度も聞こえる。火術士は転移の術を完成させ、光り輝く空間を大きく作り出す。


 彼らは向こうの世界へと抜けて行った。少し後に、空間がふっと消えた。


 ラライの地の空がだんだんと青さを取り戻してくる。







「思うのだがね、ポリュムノン」


「何かあったのか、カリオポス」


 ポリュムノンと呼ばれたエルフは分厚い本の中に木の葉の栞を挟み、良い音を立てて閉じてからカリオポスを見る。どうやら、本の内容は物語らしい。


 濃い青の瞳はやっぱり遠くを見ている。


「あの人間の娘は面白いと思うのだけどね」


「……アスクレピアのあの薬を口に含んだとでも言いたいのか?」


「ちょっと、それは危なくないかい?」


 と、とても悲しそうな顔をしてまた別のエルフが割り込んできた。


「あの薬はあのラライの人々の……継承者の霊気を込めてあるんだ。あのカレンっていう子、そんなことしたら……もしかしたら、ずっと、ずーっと」


「落ち着けよメルポメノン。アスクレピアが言うには、それでもいい、ってその子は言っていたらしいぜ。何だよ、俺達だって似たようなものじゃないか」


「でも、タレイオス……」


「こら、泣くな馬鹿。まだそうと決まったわけじゃないだろ!」


 メルポメノンが泣き出して、タレイオスが仕方ない奴だなあと言って笑い出した。カリオポスは溜め息をついて、また別の男の方を向いた。


「ウラノス、星はどうなっているのか教えておくれ」


「赤いやつですか? ああ、前と変わりないですよ。結局、あの星はずーっと同じままあそこに存在していますし、いい加減関係ないでしょうねえ」


 ウラノスは何処かおどけた顔で溜め息をついた。


「……歴史には星は関係ない、ということか」


「いや、でもずーっと東の方の石畳の町では、エルフィネレリアや南の方で見えていた月が見えるようになりましたよ、クレイオス。ジアロディスはあのイリス……レファントで命を落としましたから、その付近徒歩八十日ぐらいの範囲ではあの古代竜の影響で何にもなしだったのでしょうねえ。それが、今回のことで全部破られた、と」


 クレイオスと呼ばれた短髪のエルフは、広げていた巻物から星読みのエルフへと視線を移す。


「……月だけ、か? お前は何か見通しがついたのか」


「いいえ、あんまりよくわかんないです。あ、エウテルペスが笛を吹いている」


 カリオポスはつられて、笛を吹くエルフを見た。その付近で一人が歌い始め、間の手を入れるようにもう一人が踊りながら控え目に別の旋律をさりげなく入れ始める。


「ああ、いつ見てもエウテルペスの笛とエラトスの恋の歌とテレプシコロンの舞はいいなあ……人間かあ、面白い」

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