6


 信じたいのだ。トレアンは言って、改めて彼らを見つめた。


「信じるか信じないかは、他人の……その場にいる一部の人々の尺度で決まるものではない。己の意志が決めることであり、それは自由だ。それはそなたらの自由であり、私やアドルフの言及するところではない。それと……」


 彼はそのまま、集会所の隅を通ってたった一つの扉に近付いた。おそらく作られてから百数十年は経っているであろう、黒ずんだその重い扉に彫られた模様は所々すり減っていてなめらかになっている。そこを指でなぞりながら口を開いた。


「そなたらも皆、西の町を訪れてみるべきだ。受け入れられなくても、彼らを……信じることが出来なくても、人々の姿を見ておいた方がいいと私は考えている。私に向けられてきた笑顔は、全て本物だった。あんなに皆苦労してきたのに、そして今も生きていく為に忙しく働き回っているのに……何の屈託もなく笑いかけてくれる。私は……私は」


 次に上げた顔には悲しみが、瞳には憂いが宿っていた。ドラゴン使い達は刃物で刺されたような痛みを心の何処かにそれぞれ感じる。皆がびくりと肩を震わせる中、トレアンは言う。


「私は、悔しい。何処かで彼らを信じていないのだと思うと、悔しい。何故、人の笑顔はあのように武器になる? えぐられているように何故、感じる? 私は、彼らが好きだ。そして、一人の娘を愛している。彼女が、私に信じることを教えてくれた」


「――トレアン」


 アドルフが呻くように彼の名を口にした。こんなに悲しみに満ちた集会所は初めてだった。







 テレノスはまだ帰って来ない。三十日をなかったことにしたあの集会の日から数日経っていた。


 西の町からドラゴン使いの仲間数人と転移の術の中を帰ってきたトレアンは、夕暮れの中を自分の家に戻って、ふうと息をついた。水路を掘り進めていくのはなかなか大変な作業だったが、ひたすら働いて汗をかくのは悪いことではなかったし、人々も新たに手伝いにきたドラゴン使い達を歓迎してくれた。笑い声の絶えないその中でひたすら土を掘るのは単純に楽しかった。


 皆が笑顔で帰ってきたのは嬉しかった。だが、自分の弟の声をまた聴きたいと思っていた。この大きな家の中に彼は一人だった。寂しさが突如体を襲い、誰も見ていない所で彼は顔を歪めてうつむく。空腹が、余計に気持ちを萎えさせた。


 無事でいてくれればそれでいい。そう思っていたのに、あの笑顔が見たかった。自分が、どうやってドラゴン使い達の集会で決まりかけていた方針を変えてやったのかも聞かせてやりたかった。思いやりのある優しい弟に早く会いたかった。


 だが、彼はテレノス=レフィエールのいる所を知らない。大きな溜め息が口をついて出た。転移の術で会いに行くことも出来ない。心配をかけているこてを怒鳴ってやりたかった。自分よりもずっと逞しい体を抱き締めてやりたかった。


「――テレノス」


 呟いてもどうにもならないことはわかっていた。


 彼はいつもより早く食事をとり、いつもより早くロウソクの火を消して眠りについた。すう、と窓から涼しい風が入ってくるので、これもまたいつもより早く目を閉じることが出来た。レフィエールの兄は普段、あまり寝つきがよくなかった。けれども今日の眠りは風よりも滑らかに彼を涼しい闇へと誘った。







 誰かが夢の世界で自分の名前を呼んでいた。


 誰の声かは、はっきりとわからなかった。ただその声は優しくて、誰かの胸に抱かれているような心地よさを覚える。男の声とも女の声ともつかないそれは、ずっと自分の心に向かって何かを伝えようとしていた。


 急に不安になって、思わず問うた。


「……どうしたの?」


 声は再び彼の名を呼んだ。


「トレアン、トレアン=レフィエール。ストラヴァスティンが貴方を呼んでいます」


「ストラヴァスティン……それは誰?」


「早く、お行きなさい。そして、会うのです」


 声が一体何処から自分を呼んでいるのか、彼にはわからなかった。ただ、言われるままに前へと滑るように進んだ。不思議とあっちだということがはっきりとわかっていた。自分でも何故かはわからなかった。ただ、知っていた。


 細く小さな川がすぐ傍を流れていた。進む方向にそれは伸びて、振り返ればそれは遥か向こうまで続いている。後ろでそれは次第に広くなっていった。しばらくそれを眺めていると、再びあの声が聞こえる。


「トレアン、こちらです。貴方の行くべき所はこちらです」


 ドラゴン使いの森とは似ても似つかない森の中を、彼は声に誘われてまた進み出した。進みながら、訊く。


「その……その人は一体全体何で僕を呼んでいるの?」


「貴方に話をする、その時が訪れたからです」


「話って?」


「聞けば、わかります。行くのです、ストラヴァスティンの元へ」


 彼は進みながら、ストラヴァスティンという言葉の意味を辿っていた。試しにその言葉を口にしてみると、身体中が締めつけられて鋭い痛みが何かを思い出させるように胸を突いた。小川は遡るにつれてどんどん細くなっていき、彼は不安と痛みに喘ぎながら、それでも進んでいった。


 ああ、今から自分が会いに行こうとしているのは痛みなのか?


「ねえ、どうしても会わなくちゃいけないの?」


 苦しみの中で訊けば、こんな答えが返ってきた。


「貴方だけではありません。トレアン、貴方の父親のイダスも、またかのアミリアも、アズベルダもエレフィリックも会いました。貴方一人ではありませんよ」


 父も会ったということを聞いて、彼は少しだけ安心した。優しい声は背中を押すように響き、自身はひたすら進み続ける。生きているようで全く風の吹かない、呼吸を止めたような深い緑の森の中は、美しいようで完全に死んだ永遠だった。


 そして、進む先に泉が見えた。さして高くない崖の上から、水が滝となってその中に注ぎ込んでいる。これだけが唯一、今自分がいる場所で生きているものだった。


 彼はぶるっと身を震わせる。


「トレアン、トレアン。継承者よ、守護者の子よ」


 突然今までとは全く違う別の者の声が聞こえ、咄嗟にその方向を振り返った。そこにいるものを見て、思わず息を呑む。


「私が珍しいか?」


 蛇のような頭に、ドラゴンに似た翼。鳥のような胴体と足、そして肉食獣のような尾。時折チロチロと出てくる炎のような舌と、金色の瞳が彼をそこから全く動けなくした。動けない代わりに、口が動いた。


「……あ、あなたは誰?」


「私か? 私の名は――」







 ――痛み。

 それは、心と全身に響き、まるで地面に打ちつけられたかのような衝撃が彼を襲った。







「ストラヴァスティン……」


 わかっていたのに、訊いた自分を恥ずかしく思った。両腕で自身の体を抱き締めながら彼は“痛み”の前にひざまずく。


「大丈夫だ、トレアン。私は君に害を成すものではない。君が私を造り、君自身が私を育てているのだから……私は君の心に巣食う闇かもしれないが、闇にはいつも光が伴うものだ」


「……あなたが、僕の造ったものだって?」


 ストラヴァスティンは頷いた。


「私はただ、君に言うべきことがある。それだけさ」


 痛みの囁くような声は至極優しいものだった。彼は顔を上げて、その金色の瞳を今一度しっかりと見つめる。


「僕に……?」


 独りでに震える体を抱き締めるのをやめると、その大きな頭が動いた。


「トレアン、愛しき私の兄弟よ。一つだけ、一つだけだ――」


 ストラヴァスティンが言った時、突然死んだ森にさあっと強い風が吹き渡って生命を揺らし始めた。彼は思わず、目をつぶった。







「いいかい、決して変わることを、変化を怖がるんじゃない。何故なら、君や君の大切な人にとって、それは必然だからだ。それはいつかやってくる、思いもしなかった方向から思ってもみない時にやってくる。


 しかし、心配するな、愛しき子よ。


 君はどんな時も、決して一人ではない。変化はすれども、一人でいることはありえない。君が君だからだ。君が考える者だからだ。愛を知る者だからだ。


 忘れることのないように、私はいつも君と共にいるから――」







 心臓が、全速力で走った時よりも速く胸を打っていた。


「大丈夫かい、兄さん?」


 全身が苦しかった。トレアンは優しい声を聞きながら、自分の胸に左手を当てて呼吸を整える。温かい腕が肩の上にあった。


 慣れない暗闇を潤んだ目で見つめると、久し振りに見る顔がそこにはあった。彼は、掠れた声で言う。


「――テレノス、テレノスなのか」


 テレノス=レフィエールは帰ってきていた。


 ずっと心配していた相手に、自分は今こうして心配されていた。それが何処か悔しくて、兄は込み上げてくるものを必死で押さえ込みながら、精一杯の声で言った。


「馬鹿……何処をふらついていたんだ……こちらがどれだけ心配していたか……阿呆」


「兄さん、ごめん――」


「僕の気も知らずにこんな真夜中に帰って来るなど……っ、愚か者が――」


 目の前の暗闇の中で光る、色のない鳶色の瞳がぶれて滲んだ。相手の腕を掴み、ぐっと引き寄せてその頬を撫でる。兄は嗚咽を漏らし、口を開いた。


「何処にも怪我はないのか? テレノス……ヴァリアントは元気なのか?」


「……俺は大丈夫さ、ヴァリアントも前より食べるようになっているくらい、腹が太ったよ」


 弟の声も震えていた。撫でる頬についっと涙が曲線を描いて滑り落ちる。安堵に歪むその顔は窓から降り注いでくる星の光に照らされ、トレアンは逞しい体を力一杯抱き締めた。願いが叶った、などと心の何処かで思えたのが可笑しかった。だが、今は血を分けた一人の青年が無事であったことの方が嬉しかった。


 兄は咽び泣きながら言った。


「無事で……よかった、テレノス……お帰り、テレノス」


「……心配かけてごめん、兄さん……ただいま」







 久し振りに二人並んで手を繋ぎ、仰向けになって眠ることにした。


「そなた、髭を剃る暇もないくらいだったのか」


 この三十日以上、テレノスは髪も髭も伸ばすだけ伸ばして放置していたようだった。今の暑い時期にそのようなむさ苦しい格好をする者は滅多にいない。弟は、顎を触りながら苦笑する。


「ああ、うん……いい石も見つからなくてさ、明日早速剃るよ。帰って来たら暑苦しい」


「確かに、暑苦しい……暑苦しい?」


 兄はふいっと弟の方へ頭を向けた。


「そなた、一体何処へ行っていたのだ。涼しい所か?」


 トレアンのその言葉を聞いて、彼はああ、と言ってから楽しそうに口元に笑みを浮かべる。


「ギルバートが言っていた、海ってのを見に行こうと思ったんだ」


「ああ、ギルバートが……そういえばそなたにも言っていたな、ミストラルの家を訪れた時に。それで、見つけたのか?」


 その時、繋いだ手にぎゅっと力が入るのがわかった。テレノスの間延びした声は、心の隙間に染み込むように温かく、水のように届く。兄もその手を優しく握り返した。


「俺とヴァリアントは、ずっとずっと北の方に行ったんだ。西はずっと遠いし危険かもしれないから……十四日間寝ながら飛んで行ったら、いきなり森がなくなった。びっくりして、下を見たんだ。そしたら、水があった。前を見たら、ずっとずっと水しか見えなかったんだ。考えられるかい? 俺のパートナーよりも鮮やかな青が、果てしなく向こうで空の青と混じっている。息するのも忘れていたくらい」


 兄は目を閉じて、それを想像した。濃い鮮やかな青い水が、湖よりも広いそれが広がっている。空とその“海”との境界線があるのかどうかはわからなかった。弟の声は子守唄のように彼を誘い、眠りの中へと引きずり込む。普段接している青とは違う世界の中へ、トレアンは潜っていく。


 やがて誰も喋らなくなった。レフィエールの兄弟は穏やかな青の世界へと何処までも入っていった。


 緑の包み込む家の中に、二人の寝息だけがやわらかく響いていた。







「どうやら元通りみたいだな」


 ヴァリアントが言って、鼻から水蒸気をふしゅん、と噴き出した。


 星空の下、レファントのドラゴン達およそ五十頭余りはとある場所に集まって、彼らだけの集会を行っていた。人がこの光景を見たら、その壮大さに言葉を失って立ち尽くすことしか出来なくなってしまうかもしれない。だが、ドラゴン達はこれまで誰にもこの集まりを見られたことはなかった。


「いや、君がテレノスと何処かに行っている間に、我がパートナー達も人間も互いに成長している。敵と和解し理解しあうのは難しいが、彼らはそれをやってのけた」


 ラクスが長い首を左右に振りながら言った。それに同調するように、他のドラゴン達も口々に言う。


「オーガスタが言っていた厄介事もなくなったと見ていい筈だ」


「これで向こう百年は戦わなくていいわね、安心だこと」


「あたし達もゆっくり出来るじゃない」


 星の光にきらきらと光るうろこが、反射して美しい。カイザーは、ドラゴン達を統べる者であったのだが、尻尾をゆっくりと振りながらそれに合わせてまるで歌うように言った。


「我々も期待しようではないか、我がパートナー達に。やっと我々を見るようになった人間達に。そして、そうと決めたトレアン=レフィエールに」

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