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 その疑問に、ギルバートは勿論だと笑顔で頷いた。


「あの川に魚が沢山いるのを発見したのさ。下りて上がる手間も省きたいから丈夫なものにしなくてはな」


 彼はふむ、と唸って皆が作業をしている所を、目を凝らして観察する。セスと似ている顔の者が二人いるのを見つけた。また、おそらく南の方から来たのだろう、全く知らない顔の者が何となく覚えのあるこの村の者と話しながら石を運んでいるのも見えた。風術士が石を切っているのが確認出来る。まとわりついていた子供達が、わあっと歓声を上げて坂道を下って行った。何人かが、風の術なのだろう、ふわりと体を浮き上がらせてはしゃいでいる。


 左手に思わず力が入る。カレンの右手は、すぐに握り返してきた。すごいでしょ、と彼女がその力だけで訴えてきているのがわかる。肩の上でシラクサが言った。


「わたし達より、よっぽどしっかりしてるよ」


 トレアンも、竜の言葉で言った。


「……ああ。ドラゴン使いだの人間だのという下らない所で立ち止まっている此方とは似ても似つかない」


 彼は、空中に向かってほうっと短い溜め息をつく。それから右手で肩の上の仔ドラゴンをはがして、隣の人と繋いだ手をほどきながら差し出した。きょとんとした顔の彼女の前でぐっと腕を伸ばして肩の骨を鳴らし、さっきとは別の新しい気持ちで目の前に広がるなだらかな丘と草原の世界を眺める。


「私も、何か手伝ってくることにする」


 仔ドラゴンというお荷物を受け取った彼女は、ドラゴン使いと視線が合うと少し恥ずかしそうに笑ってから言った。


「わかったわ、ドラゴンは私が見ているから」


「ああ、頼む」


 足取りは軽かった。後ニ十日で全てが消えてしまうかもしれない、という恐れも、その時の為に何が出来るかとあれこれ考えることも、焦燥感もなかった。ここで楽しそうに働きながら笑っている人々を見ると、優しさと切なさ、愛しさが同時に込み上げてくる。


 でも、ただそれだけだった。ひょっとしたらどうにかなるかもしれない、とも思っていた。皆を、ドラゴン使いもドラゴンも人間も全てひっくるめて守る。長い年月がかかるかもしれない。しかし、それは実現しないことだとは考えられなかった。セナイの言っていた、レフィエールの第一子の持つこの強い術の力なら何かが出来るような気がした。


 トレアンは穏やかに顔を上げる。その先に久し振りに見る親しい姿があったので、思わずあっと声を上げた。それがすうっと吹いた風に乗って届いたのだろうか、カレンと同じ色の青い瞳がこちらを向いて、同じようにあっと声を上げて明るい笑顔を見せる。


「久し振り、トレアンさん」


 そう言ったタチアナの隣には、これまた自分が一度対峙したことのある男が立っていた。イスティルの少し驚いたような表情が何処か不安にさせて、頬が緊張しかけた時だ。


 かつて自分を睨み付けていた男が、快活な微笑みを見せた。


 驚いたのと同時に感動して嬉しくなった。ドラゴン使いも笑って、今は夫婦となっている二人に向かって口を開く。


「……どうやら上手く行っているようだな、タチアナもイスティルも」


 互いに視線を絡ませて幸せそうに笑うのを見て、幸福と安堵が心の中に道溢れてくるのがわかった。つるはしをかついでいる夫が言う。


「あんたの言った通りだ、タチアナはドラゴン使いと人間との間にはほとんど違いがないことを知っていた。考えてみりゃ、俺だって何度か人を傷つけたことがある。それを思い出させてくれる、そういう奴らに会えたと思った。初めてだ」


 青緑色の瞳の光は真っ直ぐに自分を捉えていた。穏やかだが力の篭ったその声にトレアンは胸が一杯になって、やっとこれだけを答えた。


「……光栄だ」


 目頭が熱くなり、眉間にしわを寄せた奇妙な笑顔を隠すようにうつむいて目をしばたかせる。今自身を取り囲んでいるありとあらゆるものに声を上げて感謝したいとまで思ったのは、これが初めてだった。


「あたし、胸を張って言える。トレアンさんやテレノスと、ドラゴン使いの皆と会えて本当によかった。イスティルとも会えたし……何だか、わかったような気がするの。もやもやしてずっとすっきりしなかったものがなくなって、ただ単に幸せだなあって、今思ってるんだ。姉さんがいなかったら、皆がいなかったら、絶対にこんなことはありえなかったから」


 ありがとう、タチアナはそう言ってまた笑う。ドラゴン使いは感極まって洟をすすりながら微笑み返し、答えた。


「……さて、何か手伝えることがないか探しているのだが、よければ仕事を与えてくれ」







 彼はずっと西の町へ通い続けた。テレノスは何処へ行ったのだろうか、ずっと帰って来なかった。それと同時にヴァリアントの姿もずっと見ていない。彼らは共にいるのだろうか? 兄はそう思っていた。だとすれば、あまり心配はいらないのかもしれない。


 トレアンがドラゴン使いの町の者と接する時間はどんどん減っていった。朝起きて食事を取り、そのまま家の中で転移の術を使って西へと移動する。それが当たり前になって、シラクサが肩の上に乗るには大き過ぎるぐらいに成長し彼の後を歩いてついて来るようになる頃には、ヒュムノメイジの子供達ともすっかり顔馴染みとなって、水路の橋の建設をしながら相手をしてやるようにもなっていた。毎日が充実していて、飽きなかった。今まで以上にカレンとも話し、笑い、一緒に時を過ごした。ただ、相変わらず二人の間には何の進展もなかったけれど。


 ただ、ドラゴン使いの町で今話されていることと、自分の弟がずっと姿を見せていないことだけは彼女には言えなかった。忙しくても幸せそうな彼らにそれを伝えるのは自分にとっても彼らにとっても酷なことだった。それだけははっきりとわかっていた。


 そうこうしているうちに、あの三十日目がドラゴン使いの町を訪れた。


 西の町で造っている石の橋は半分まで完成していた。砂が大分入り込んでいた井戸は人々の手で埋められていた。ラインラントのドラゴンは早いものでもう一回り大きくなり、テレジアが羽ばたきの練習をさせるようになっていた。


 トレアン=レフィエールは、何も恐くなかった。彼の胸の内には一つの信念が宿っていた。自分は人間と全く同じではなく、同化したつもりもない。ただ、今日の集まりにおいてどうしても伝えたいことがあった。おそらくこの町で人間との付き合いが最も長いのはレフィエール家の兄弟だ。彼は、自分達こそがドラゴン使いの町で一番人間のことを知っていると、口に出すことこそはしなかったが心の内では思っていた。そして、彼らと分かりあうには彼らに直接手を伸ばすことしか方法がないとも思っていた。


 一つ、考えがあった。


 だから、レフィエールの兄はアドルフがいつも座っている一段高い所の、すぐ傍の一段下がった場所に向き合う形ではなく横向きに陣取った。家長も、その代理の者も一家全員が苦労してまとめ上げた結論を持ってきたのだろう、それぞれの表情には決意が表れている。そして同時に、それは不安をかもし出していた。その中にはハインツもいた。


「……揃ったのか」


 頭領がいつにも増して険しい顔つきで姿を現した。直接見たわけではないが、皆の顔にさっと緊張が走ったので、しばらく動けなかったとラインラントのドラゴン使いが言った理由もわかるような気がした。トレアンはリーベル家のドラゴン使いを見つめる。


「さて、今すぐに問う。三十日が経った、信じたいという意志を持ってきた者はその場に立て」


 立ったまま頭領が言う。そして、次の瞬間には大半の者が起立していた。


 しかし、レフィエールの兄は起立していなかった。


「……トレアン?」


 ただ腕組みをして宙を静かに睨んでいる彼に向かって、立ち上がっていたハインツが驚きの混じった声で訊く。この壮年のドラゴン使いはシラクサの言葉に押されて立っているのか、と座ったままの光術士には思えた。


「トレアン=レフィエール、信じないというのか」


 怪訝な表情でアドルフも訊いた。


 ほんの短い間、彼は目を閉じる。次に目を開いた時に、彼はゆっくりと言った。


「……何の話をしているのだ、皆」


 全員が息を呑む音がはっきりと聞こえた。その中で、トレアンはゆっくりとドラゴン使い達の顔を、頭を上げて眺め回す。


「ト、トレアン――」


「信じるとは、何のことだ。私は何も聞いていない」


 これは一種の賭けだった。賭けではあったが、理屈をこねて勝つ自信は十分にあった。彼は呆然と自分を見つめている仲間達の表情を見ていて何となく可笑しくなり、ここで笑ってやってもいいかもしれないとも思った。だが、相手の反応を待つのが、そして自身の言うべきことを言う方が先だ。


「お前、トレアン、何故……わしとあの時話した筈ではないのか。人間のことだ、本当に覚えていないのか? それとも――」


「集会であったこと、話し合われたことは」


 光術士は、ハインツの言葉を遮って言った。再び静寂が訪れる。


「家の長から直に聞くように。私は、以前の集会に行っていない」


「……テレノスが来た。俺はこの目で見たぞ」


 アドルフが厳しい口調で言う。その両手に力が入っているのがわかった。


「だが、私はテレノスから何も聞いていない」


「おい、トレアン!」


 クラウスの声がラインラントのドラゴン使いの背後から聞こえた。リンドブルムのドラゴン使いも起立していて、しかし納得いかないといった表情でこちらを見ている。


「三十日もあったんだ、テレノスから聞くぐらいは出来た筈じゃねえのか」


「そんなものはなかった」


 毅然とした態度でいるトレアンに、立っている者も座っている者も関係なく皆がいよいよ不信感を抱き始めているようだった。猜疑の視線が沢山投げかけられているのを感じ取ることが出来る。だが、彼は屈しない。それどころか、言い放った。


「ずっと前から、テレノスには会っていない。私の弟はパートナーと共に何処かへ消えてしまったのだから。その三十日とやらの、最初の数日しか姿を見なかった。弟は私と言葉を交わそうともしなかった。あの、テレノスが、だ」


 レフィエールのドラゴン使いはすっと立ち上がる。誰も喋らない。


「弟は何も言わなかった、それが事実だ。そして、今ここにいるのは弟ではなく、この私だ。テレノスではなく、トレアンだ。何も知らぬ兄だ。従って、私は何も知らない。集会では、一人でも……一つの家でも、例えそれが二人しかいない家であっても、前回の話がわからぬ者が存在すれば、その話は破棄される」


 何人かがあっと息を呑んだのが聞こえた。おそらく、自分のやろうとしていることに、自分が下そうとしている決断に気付いたのだろう。しかし、アドルフは食い下がった。


「しかし、先程のハインツの言葉からすると、君は……人間に対する態度をどうするかについて彼から少なくとも聞いていたんだろう? だとしたら、もうこのことは十分知っている筈では――」


「もう一度言う。アドルフ=リーベル、一族で最も気高き者よ。そなたは私の言ったことを聴いていたのか?」


 リーベルのドラゴン使いは怒りの表情をあらわにしてトレアンを睨み付けた。レフィエールの兄は、しかしそれには動じない。彼の心の中には、それ以上の強い意志が宿っていた。


「私は、この話を直接聞いていない。そして、集会の掟は、その時のことを直接家の者に言わなければならないことだ。従って、私は何も知らない」


 頭領の鋭い鳶色の瞳を真正面から見つめる。心は凪いでいた。


「どんな内容だったかはわからんが、なし、ということだ」


 二人はそのまま、しばらく視線を合わせて互いに固まっていた。アドルフの両手に入っていた力がすっと抜けたのが気配でわかって、トレアンは首の角度を少しだけ変える。眉を上げてやると、相手が突如目を見開いた。そして口が半分開く。


 誰も、何も言わなかった。ただ、その場の空気にはごくわずかにほっとしたものが含まれているのが皆には感じ取れた。光術士は先程からずっと同じ姿勢で固まっているままの仲間達を振り返り、全ての感情を抑え込んだような顔で言った。


「……他に何か話し合うべきことは?」


 すると、一人のドラゴン使いが手を挙げて彼に訊いた。


「トレアン……その、テレノスは何故いなくなったんだ?」


 レフィエールの兄の表情に影が差す。視線が下向きになった。


「私にも、わからない。テレノスがたまに何処かへ行くことはあったが、今までこんなに長い間帰って来なかったことはなかった。だが、まだ弟は無事だと、不思議とそう感じるのだ。いつか帰ってくる、そう信じていればよいと私は思っている……きっと無事だ、ヴァリアントもおそらく共にいることだろう」

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