2


 と、ドラゴンの首がこちらを向いて、返事が返ってきた。


「ああっと、失礼! 何も言われなかったと思ったものだから、ついつい嬉しくなっちまった! どうすればいい?」


 どうもこうもあるかとやけくそで叫んでやりたかったが、トレアンはその衝動を抑えて代わりにこう言ってやった。


「その人間を放せ、私が連れて行って蘇生させる」


 彼は矢のように泳ぎ、ドラゴンの巨体が包んでいたカレンの体を捕まえて、腰を片手で抱える。この際、色々気にしている場合ではなかった。ひたすら水の中を、岸を目指して出来る限りの全速力で泳いだ。


「すまんなあ、トレアンの旦那! 今度からはもうちょい耳を澄ましておくよ。魚に掃除させておくから、また遊んでおくれ! その代わり、お主には協力するからさ!」


 謝っているのか嬉しいのかよくわからない台詞を聞きながら、やっとの思いで岸に辿り着いたトレアンは彼女の体を陸に押し上げた。再び水中で呪文を唱え、空気中に顔を出す。体を拭きたくて持ってきた数枚の布のうちの一枚を、カレンの体に見とれる前に掛けた。そして自分も急いで一枚を腰に巻く。黒髪を耳にかけ、彼女の傍にひざまずいて蒼白な顔にかかる巻き毛をどけた。


 ためらう暇はなかった。彼女の頭の位置を変え、呼びかける。


「カレン、聞こえるか!」


 返事はない。胸を数回押した。少し残念だったが、彼女の形の良い鼻をつまんで、唇から息を吹き込む。何度もやってきた蘇生術が、この時は恨めしく思えた。二回、三回と繰り返す。四回目に息を吹き込んだ時に彼女の喉が揺れ、咳と共に水を吐き出した。


 彼は、ほうっと溜め息をついた。気が抜けて座り込み、その場で頭を抱える。カレンは咳をしながら起き上がってきて、はずみで布がずり落ちた。


「トレアン、私――わっ」


 トレアンは彼女に布を一枚投げつけ、怒鳴った。


「馬鹿者っ! 真ん中へ行くなと一度言っただろう!」


「ご、ごめんなさい……」


 睨んでいるその鳶色の瞳に宿る光に射殺されるのではないかと感じて、彼女は布を抱き締めながら縮こまった。


「――そなたは、いつも! どれだけ人を心配させれば気が済むのか、いい加減に……いい加減にわかったらどうだ!」


「……ごめんなさい」


 彼はふいっと後ろを向いてしまった。服のしわを伸ばしているのを見て、遂に愛想をつかされたのか、と悲しくなる。カレンは泣きたくなった。


 と、沈黙の下りた中でぼそぼそと声が聞こえる。


「頼むから――二度と、寿命が縮むような思いはさせるな。もしそなたに死なれでもしたら――」


 顔を上げて、彼女は思わずその背中を見つめた。この人はきっと振り返らないだろう。しかし、すねた声は明らかに火術士の方へ向かっている。


「――トレアン」


「肩をつらぬかれる、腹に攻撃を食らう、湖で溺れかける……私はもう沢山だ。守ると誓った筈の人間が自ら危険の中に飛び込んでゆくのだから……私は一度死んだつもりでいた方がいいようだ」


「……違うの、今日のは……違うのよ」


 トレアンは相変わらず後ろを向いたまま、黒髪を絞った。その声は不機嫌そのものだった。


「――何が違う、と言いたい。それより早く服を着ろ」


 湖岸に水がはねて、パシャパシャと音を立てる。二人以外に、そこには誰もいなかった。岩陰から覗き見をする気配も感じられなかった。互いの息遣いさえ聞き取れるほどにそこは静まり返っていて、空気は危うい均衡を保っている。相手の顔が知りたくて、一人はとても振り返りたかった。後ろを向いたままの背中に向かって、一人は無性に飛びつきたかった。どちらかが動けば、崩れてしまうようで。


「あのね」


 あられもない格好のままにカレンは言った。


「トレアン、あなた……わかりやすいの。気持ちが、あなた自身は隠そうと思ってても、顔とか喋る時とかに、出てるのよ。私はずうっと気付かなかった。だけど」


 ドラゴン使いの動きは今や止まっていた。大きく息を吸ったのがはっきりと聞こえる。


「気付いたの。私から、セスが一歩離れたから。改めてちゃんと考えてみたから、わかったのよ」


「……何がだ」


 返ってきた声に、動揺が混じっていた。少し肩がこわばったのがわかる。彼女は布を抱き締めたまま立ち上がった。覚悟はもう出来ていた。


 祈るように固く目をつむってから、言う。


「私は……あなたなら、構わない。いや、あなだからこそ……だから、無理しないで」


 トレアンはすぐ後ろにカレンの気配を感じ取っていた。今の言葉に、期待を膨らませている自分がいる。体が火照り、己が再び疼き、腹の奥から何かが溢れ出してくるような感覚がした。温かくて、切ない何かが身体を一瞬で支配する。彼女の手が自分の肌に触れるのが待ち遠しかった。待ち遠しかっただけに、その温もりが肩全体と腹に回ってきた時には、息を呑んだ。


「――っ、カレン?」


「我慢しないでトレアン」


「……はっ?」


 思わず振り返った。すると、そこには切なげな光を抱いた青の瞳があって、あまりの近さと美しさに彼は何を考えることもやめた。吐いた息が震えたのはわかっても、何をどうすることも出来ない。ただ口を半開きにして彼女を見つめていた。


 初めて、何かに負けた、と思った。同時に彼女の右手が自分の左頬に軽く添えられたのがわかって、思わず目を見開いた。そこで、自分が今何をされているのかを悟った。よくよく考えれば目の前の人の格好は――


 これが、おびえというやつか?


「――っ、あ」


 呻いた途端、何処かで叫び声が聞こえた。


 二人とも、今までのことを忘れたかのようにその方向を見た。怒鳴る声がして、何かが光っているのが確認出来る。まさかと思って、互いに顔を見合わせ、同時に眉をひそめた。


「ねえ、まさか――」


「南の奴らだ、行くぞ――」


 恥じらいもなしに急いで服を着る。トレアンは一足先に走り出して、町の中心部へと向かった。大きな光の空間が開けられていて、見ている前でドラゴンが数頭出て行った。何処からかテレノスが走ってきて、上着を兄のその手に押し付ける。そして、言った。


「南西の村の人間だ。前よりも多い……俺達も行こう」


 弟の言葉に、彼は強く頷いた。先程まで感じていた己の疼きと腹の底にある妙な温もりは冷めたが、まだ微かにくすぶっている。しかし、そんなことを考えている暇はなかった。兄は帯を外し次いで上着を身に付け、腰を縛り直した。


「――何が来ようが、私は行く」


 弟が力強く微笑む。レフィエールの兄弟は、そのまま光の中へと走り抜けて行った。息切れしながらカレンが辿り着いた時には、怪我人を運ぶドラゴン使いの友人達がてきぱきと動いていて、さっきまで一緒にいた人の姿は見えなかった。


 転移の術は光り輝き、もう歪んだ空間には見えなかった。こんな強固な術を張ったのは誰だろう? そう思いながら、彼女も仲間を助けようと光の中をくぐった。自分の知り合い以外に転移の術を熟達している人間でもいたのだろうか?


 セスが、相手方に召喚されないように枷をつけられた闇の精霊と共に戦っていた。タチアナが水と踊り舞い、エミリアの術は相手に攻撃をさせる暇がないほどの地震を生み出していた。ギルバートが、休む間もなく風の刃を放ち、飛んでくる術を片っ端から切っている。青灰色のヴァリアントの上にテレノスが騎乗しているのが目に入った。

トレアンは? 無意識に探しながら、カレンは前衛にいる味方に向けて盾の術をかける。次に、術を使えない者の武器に炎を纏わせた。飛んできた氷の塊を炎で溶かしながら、彼女はそこら中を探し回った。彼は一体何処だろう。


 と、視界の端に一人のドラゴン使いが映った。数人の南の村のヒュムノメイジと戦っている。しなやかに強い筋肉が踊るように動き、相手の懐に飛び込んでは引いてを繰り返して鮮やかな攻撃を仕掛けていた。ただ、相手が複数なだけあって、誰にも傷をつけることが出来ないでいる。


 彼女は隙をついて、腹ががら空きになった所に炎の術を叩き込んでやった。悲鳴を聞きながら、助太刀に気付いてこちらを向いたドラゴン使いの細かい傷を、自分でも何とか使える初歩的な癒しの術で治してやる。


「ああ、君は――」


 短槍を持った相手が、こちらに気付いて明るい表情を見せた。


「アドルフ!」


「ありがとう、カレン。借りが出来たな」


 ついでに、彼女はアドルフの短槍にも炎を纏わせた。これで少しは戦いやすくなるだろう。向こうの方では、怒声が絶え間なく飛び交っている。


「もともと借りているのはこっちよ、気にしないで」


「いやいや、助かった」


 頭領は炎の短槍を構え直し、再び敵の中へと突っ込んでいった。彼のパートナーのカイザーの姿は何処だろうとふと思って上を見れば、赤金色の巨体が太陽よりも眩しく空を舞い、炎を吐いている。それは美しく、雄々しくもあった。


 術で縛られた無力な敵がたまに転がっているのが、走っていると目についた。それは放っておいて、カレンはひたすら炎の術と盾の術を唱え続けた。トレアンを探すどころではなく、容赦なく術が自身と仲間を襲ってくる。その攻撃から、上空のドラゴンも守らねばならなかった。


「エィル ラ スカルラティ ブレィジア――飲み込め!」


 取って置きの術を、向かってくる数十人にめがけて放つ。炎の渦が敵を飲み込み、成功したと確信した直後のことだった。


 彼女は、圧倒的な気配に凍りついた。違う、これはトレアンとは別の誰かのものだ。自身の炎がすう、と消えたその向こうを見て、思わず息を呑む。相手方は皆、ぴんぴんしてそこに立っていた。


「――盾の術だ、気を付けろ」


 聞き慣れた声とともに、人の身長ほどもある氷柱が何本も敵に向かって飛んだ。術が割れる音がして、その次の瞬間には、数十人いた相手は皆術で縛られ、地面に転がる。


「トレアン!」


「無事だったようだな、安心した」


 トレアンはこちらを振り返らずに言って、新たな光を右手の中に生み出した。何処からか飛んできた風の刃を左手でいとも簡単に受け止め、潰すと同時に容赦なく岩の塊を落とし始める。


 彼は、片っ端から相手の人間や術士達を縛り上げているようだった。殺そうとしないのは、何か他のことを考えているからだろうか? カレンがそう思いながら走っていると、その気持ちを読んだかのように、彼は振り返って言う。


「……場は違えど、攻撃してこようとも、彼らもそなたらの仲間であることに気付いた……愚かだろうか?」


「いいえ」


 盾の術を唱え、彼女は答えた。


「それでこそあなたよ。私もたった今気付いたわ」


 そうよね、仲間なのよね。そう呟いて、彼の後を追う。自分にかけた盾の術に当たって砕けた岩の音を聞きながら、相手の術士に攻撃を仕掛けてやった。それは盾の術を破り、術士の表情に動揺が走ったのを見たトレアンが、すかさず右手の一振りで縛り上げる。ドラゴン使いや味方のヒュムノメイジが敵を押さえ込み、立っている者は大分減ってきた。


「……あれが最後の一人の術使いだ」


 レフィエールの兄は言った。ドラゴン達が咆哮を上げ、手出しするのをやめて残った集団を金色の瞳で睨み付ける。一人、頭からマントを被っている者がその中にいて、杖を手に構えていた。


「……邪道ね、杖なんて」


 思わずカレンは呟いた。隣に立っていたドラゴン使いの術士も、彼を見る。すっとマントを頭から払ったのを、皆が見た。


 人間よりも長い、ぴんと尖った耳。柔和な顔つきは厳しさをたたえていて、誰も及ばないような力の圧力が感じ取れた。トレアン以外の全員が思わず一歩後ずさりして、ごくりと唾を飲む。


「……そなた、エルフか」


 先程の寒気のするような気配と同じものを感じ取って、ドラゴン使いの傍で火術士は目を見開いた。やはり、只者ではないと思えば。彼が言った言葉だけで十分だったのに、エルフは口を開く。長めの髪は括られていて、うなじで揺れた。


「……ええ、いかにも。やっと会えましたね」


 対峙していた光術士は眉根を寄せた。


「やっと会えた?」


「私は、ずっと探していました」


 エルフは集団の中を歩いて、こちらへと向かってきた。アドルフが短槍を構えてさっと飛び出し、鋭い鳶色の瞳で睨み付ける。


「――我々の友を襲う輩は、許さん」


 突然のことにエルフは少し驚き、次の瞬間には短槍がカァン、という音を立てて咄嗟に出した杖とぶつかり合い、火花を散らした。ドラゴン使いが、叫ぶ。


「カイザー!」


 同時に上空から咆哮が聞こえ、赤金色のドラゴンの巨体が矢のように突っ込んでくるのが見えた。地響きが大地を揺るがし、敵味方関係なく誰もがよろめく。その隙に、トレアンが最後に残った集団に向けて縛りの術をかけたので、残るのはエルフ一人だけとなった。


 カイザーの炎と牙が、同時にエルフを襲った。短槍を杖で受け止めたままの彼ではひとたまりもない筈だった――


「なっ……何だと!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る