1

 ずっと、故郷を出てずっと、放浪を続けてきた。


 ずっと、旅をしてきた。人四人分ほどの長い年月を、移り変わっていく美しい大地と共に生きてきた。荒廃した、乾いてしまった村も、ただそれは一つの景色にしか過ぎなかった。


 だから、見てみたかった。次は何処で、何が起きるのか。期待している自分は長く生きていてもまだまだ幼いのかもしれないと思えた。







 さて、古よりの記憶は果たして私のことを覚えているのだろうか?







 やっとのことで、彼は村に帰りついた。先に転移の術で逃げてしまった仲間の術士がまだ何日も何日も前の格好でいる彼を見つけて、謝りながら介抱してくれた。やせたヤギの乳がこんなに有り難いものだと思えたのは初めてかもしれない、などと考えながら、この目で確かに見た、木の沢山生えている中の狭い耕地のことをふと思い出す。瞳は術士の家の窓から見える広大な畑を見ていた。


「……ここも、終わりか」


 川が枯れ、水使いは愛想をつかしていなくなってしまった。動かなければ、ここで飢え死ぬしか道は残されていない。呟きを漏らせば、介抱していた術士がうんざりしたように言った。


「やめてくれ、縁起でもない。生きる、って決めたんだろ?」


 というか、死にたくなんてないだろう。術士は複雑な表情で付け足す。


「水と、今よりましな土地さえあればいいんだ。それ以上は望んでいない。何が悪いんだ、悪いわけない」


「……また仲間が死んだ」


 彼は術士にそう言った。この土使いは回復の術も使える優秀な者だが、水使いがここにいない以上、いる意味はあまりない。西へ行けばまだ食べていけるだろう、と一度言ってみたら、ここは他でもない自分の故郷だからと言って何処へ行こうともしなかった。


「……あっちは、あのドラゴン使いは……」


 彼の声はひとりでに震えた。術士は沈痛な面持ちで頷く。


「――言わなくていい」


「あの森の中のあの町をもっと探っておきたかったのに――」


「わかってる、わかってるから」


 目を見開いて狂ったように喋り出す彼を術士はなだめた。自分だって、あの氷の術を見た。肉体が透き通り、氷の彫像になってしまう死の呪い。生き地獄の果てに死ぬというが、あれを見て生きている方も地獄だ。


「……皆、生きて新天地を拝みたいと言っていたのに」


 十数人が北の村の小娘に、さらにもっと多くの仲間があの冷たい鳶色の瞳を持つドラゴン使いに殺された。仲の良かった友人が、何人もその中にいた。別れの言葉もなしに、皆消え失せた。


 悔しかった。そして、悲しかった。憎かった。ただ生きたかっただけなのに。


「……復讐、を?」


「ああ、する」


 術士が訊くと、彼はすぐさま答える。


「でも、あんな化物みたいな奴に太刀打ち出来ない」


「……応援を呼べばいい」


「えっ?」


 彼の青緑の瞳は、暗く光っていた。感情がその奥で渦巻いている。


「北東にはもっといい土地がある。その言葉だけで、西の連中は乗ってくるに違いない……北の村の連中を上手く説得すれば」


 彼は術士を見た。術士にも、彼が何を言わんとしているかが理解出来た。恐る恐る、予感を口にする。


「あの豊かな森で暮らせる、と」


「……そういうことだ。あの森はずっと向こうまで広がっている。こんな荒れた土地で暮らしていると、少しのものを大勢で争うことになる……なる前に、このまま大勢の人間の平和が約束されるなら」







 そこに立ち、その景色を、荒れた土地にまだ残る村を見る。


 恐らく枯れてしまった川なのだろう、飛び越えるにはいささか幅が広すぎる溝がそこに横たわり、石を積んだ家は味気なくそこにあるといった感じで、生気が宿っていない。砂の混じった風がそこにひゅう、と吹きつけ、思わず頭からマントをすっぽりかぶった。


 耕すことはもう恐らくないだろう、放置された畑が広がっている。ここに住む人々はどのようにして食い繋いでいるのだろうか? 恐らく、まだ人はいるようで微かに聞こえる話し声はすぐそこの石の壁の中からのものだ。自分にはわかる。


 と、ふいっと現れた男が急に話しかけてきた。


「お前さん、この村に何か用かね?」


 砂と乾いた土の匂いのする彼は、働き盛りなのだろう、しかし苦労の末に出来たと思われる顔のしわのせいで、何歳も老けて見えた。日に焼けてかさかさになった頬の皮膚が、彼が長年働いてきたことを証明している。


「ああ、いえ……私はただ、旅をしていまして」


「……ほお、そりゃまたご苦労なこって」


 男は額を掻きながら言った。


「でも、目的がないわけではありません。かの歴史に名を残すアルジョスタの指導者、アミリア=シルダ・レフィエールの子孫を探していまして……」


 何か、知りませんか? そう問うと、男は首を傾げて悩んでから、言った。


「聞いたことねえなあ、あの動乱の後にどっかに消えちまったことぐらいしか……エーランザ=シルダ女王の時代はよかったらしいが」


「エリー、ですか……アミリアの子供達は一体何処に行ったのやら」


「気になるのか? お前さん」


 ええ、と言って頷くと、相手はふむ、と唸って、何かを思い出すような仕草をしてからこう話し出す。


「最近、仲間が森の中に町を見つけたらしい。近々そっちの方へ移住する計画を立ててるんだが、それについてこりゃ何か手がかりが見つかるかもしれないぜ」


 移住か。建前だろう、本当は奪う計画であるに違いない、と思えた。自身は長い間時間をかけて西からきたが、この土地の方が荒れていて貧しい。昔はこんな場所ではなかった筈なのに。


「……そうですね、ついていきましょうか……」


 皮肉なものだ。これから、自分の子孫と戦わねばならないかもしれないのだ。


「おおっ、来るか! 助かるよ、お前さん……まだ若いが、色々旅してると聞きゃあ是非とも仲間になってもらいたいからなあ」


 なるほど、若い……か。心の中で苦笑いをして、今一度自分の歳を数える。男に向かって眉を上げてみせ、頭を覆うマントをすっとずらした。


「――私は若いどころか、既に千二百年以上生きているエルフですよ」


 男の目が長く突き出た耳を捉え、口がぽかんと開く。その反応が何だか可笑しくて、今度こそ本当に苦笑して言ってやった。


「――まあ、驚かれるのも無理はないですよね。セナイ=フィルネアと申します、以後お見知りおきを」


 それでも、そうしなければ彼らに会うことは出来ない。そう思えたから、探している人々の居場所を知っているなどとは言わず、純エルフの自分はこの哀れな村の人々についていってみようと決めたのだ。







 ふわり、と手に毛皮が触れる。次いで、生きた体温が指先から伝わってきた。夢かうつつかわからぬ所を彷徨っている中で、こんなものを身に纏っている獣達はさぞかし辛いだろう、と思う。大きなお世話だろうか?


 薄目を開けて、見えた景色に焦点をあてた。首筋を汗が雫となって伝っていく。涼しい風がそよそよと吹いてきても、暑いことは暑いのだ。


 家の板の壁にもたれるのをやめて、ずるずると地面に滑り、転がった。隣で毛皮がにゃあ、と鳴き、手の甲を舐める。仕方がないので、だるい手を動かしてその頭を撫でてやった。


「……どうした」


 ついでに顎の下も撫でてやると、相手はごろごろと喉を鳴らしてむき出しのままの上半身にすりよってきた。テレノスが腰布一枚でいたがる理由も、わからなくはない。靴をそこらに脱ぎ捨てても、いくら上半身をさらけ出していても、これはどうしようもない暑さだからだ。この猫を放り出してとっとと水浴びに行ってしまいたかったが、それはこの小さな甘えん坊が許してくれないだろう。


 毛皮が肌に触れると暑くてうんざりしたが、その顔を見るとまあいいかという気持ちになって、苦笑した。体が火照る。氷の術を一つ使って、冷気を放つそれの大きな塊を一つ、体の近くに置いた。猫が早速舐め始める。少し涼しくなって、これで昼寝が出来るかと思ったところに、客が来た。


「あら、こんな所にいた、トレアン」


「ん……ああ、そなたか」


 どうした、と訊きながらぐだぐだと起き上がると、カレンは苦笑して、木漏れ日の踊る日陰の中で言った。


「……遂にあなたもやられたみたいね」


「ああ、もうこの暑さときたら、たまらん。この猫の面倒を頼んでもいいか」


「また、どうして?」


「湖に行きたい。限界だ」


 そう言ってトレアンが立ち上がると、彼女は猫をひょいと抱き上げながら言った。


「あ、じゃあ私も行くわ。暑いし」


「そ……っ、それは幾ら何でも――」


 まずいだろう。猫が氷を求めて鳴く。自分の周りだけ急に焼かれるぐらい暑くなったような気がして、彼は慌てた。


「――私は、男だから」


「別に気にしないわよ?」


 そういう問題ではないというのに。とてつもなく走って水の中に飛び込みたい気分になったので、彼はふいっとカレンに背を向けて早口でまくし立てた。


「……こっちが気にするから、遠慮してくれ。私は行く、猫を頼んだ」


 涼しい所を見つけるのが得意な生き物の後をついていったのに、逆にもっと暑くなってしまった。体も頭も早く冷やしたい。彼は早足で湖へと急ぐ。


 真ん中へ行くなというのが、この湖での掟だった。帯をほどきながら、トレアンはヴァリアントよりも巨大な水中のドラゴンのことを思い出す。額の角が長いことが特徴的で、時には浅瀬にいる人を見つけて遊びたいのだろう、湖の中に引きずり込む。ドラゴン使いは対話が出来るので大丈夫なのだが、人間の方は大抵が溺れてしまう。実際、この光術士は誤って引きずり込まれた哀れな人間達を数人救ってきた。


 全部服を脱ぎ捨て、仕上げに髪もほどいてやった。左手に髪をくくっていた紐を結び、我慢出来なくなって派手な水飛沫を上げ、飛び込んだ。


 冷えた水が身体を撫で、蒼い光が浅瀬を揺らしている。魚の群れが目の前を通り過ぎていくのは涼しげで、身も心も透き通っていくような気がした。そのまま立てなくなる所まで泳ぎ、息継ぎがしたくなったので彼は水面上に顔を出して、顔にかかる髪を払いのける。


「やっぱり気持ちいいわね、水は」


「うわあああっ」


 ふいと横を向けば放置してきた筈のカレンが、自分と同じように生まれたままの姿で、目の前で立ち泳ぎをしていた。慌てて彼はあさっての方向を向き、さらに片手で目を覆う。


「――ね、猫はどうした!」


「ああ、テレノスが丁度いい所に帰ってきたから預けたの」


 無邪気にそういい放つ彼女に、トレアンは恥ずかしいを通り越して呆れた気持ちになった。目の前にいるのが異性であることを何とも思っていないのだろうか? だとしたら、よっぽど何も知らないか、はたまた開き直っているかのどちらかだ。


「わ……私は言った筈だ、遠慮しろと」


「だから気にしなくていいのに。火の玉なんて飛ばさないし」


 だから、違う。それを言うことすら不可能になってきたので、彼はやっとの思いで口を開く。


「放っておいても気になるのだから――」


 そのまま、再び彼は水の中に潜った。再び火照ってしまった顔を早く冷やしたくて、すうっと深みまで一気に行く。水中の岩に両足を置き、勢いよく蹴って先程とはまた別の場所に顔を出した。


「何でー? この間、ここで家族皆で水浴びしたんだけど。父さんだって普通にいたし」


 あまり離れていない所からカレンの声が聞こえ、彼はまた慌てて言い返した。


「違う、そなたの父親と私では勝手が違う! 頼むから上がれ、色々な意味で限界だ!


 あと、真ん中の方へは行くな!」


「えーっ、トレアーン?」


 呼びかけにも答えず、疼く己を心の中で宥めながらまた水の中へ潜る。逃げているようで馬鹿みたいだったが、町での体裁もあるし、何よりも自分に抑制がきかなくなることが怖かった。望んでいることであるのは間違いない筈なのに、一歩踏み込んだら何かが終わる、といつの間にかわかっているのは何故なのだろうか?


 大きな影が湖底を動く。頼むから襲ってくれるな、また私が一人で来た時に相手をしてやるから。この湖の主に向かって、トレアンは水中で言った。いくつもの泡が上へと昇っていく。


 大丈夫だろうと思い、彼は岸を目指した。もういい、自分から先に退出するとしよう。これ以上心と体を乱すのはよくない。大分浅くなってきた所で足をついて、水の上にまた顔を出した時だった。


 変則的でやかましい水音が聞こえ、彼は反射的にそちらの方向を振り返った。大きな長い角が見えて、その代わりにカレンの姿が見えない。


 ウォーテルドラゴンには届かなかったのだ。


 一瞬で状況を悟り、彼はぶつぶつ何かを呟きながら頬を叩いた。その次の瞬間から、耳の下あたりが痛みだし、水から頭を出していることが苦痛となってくる。耐えきれなくなったところで、水の中に飛び込んだ。


 水の中が嬉しかった。がぶりとそれを飲み、体をくねらせて前へと進む。ウォーテルドラゴンの巨体が、何か白いものと戯れているのがわかった……駄目だ、彼女に力が残っていない。


 彼はありったけの声を身体中から集めて、叫んだ。


「聞こえなかったのか! その人間は溺れているぞ、放さなければそなたのせいで死んでしまう!」

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