7
……こいつか。トレアンはそれには答えずに黙って木の葉の間から微かに覗く青空を見た。カレンの、あれか。何だかもやっとしたものが心の中を通り過ぎたような気がした。
「もてる男は辛いのだな、そこら辺は」
「うん、まあね……一年以上振られ続けてるよ」
嫌味さえ、通じなかった。同時に諦めの悪さに呆れて、彼は力なく笑って、足元に転がる薬壺を少し蹴った。
トレアンが、カレンに対して妙によそよそしい態度を取るようになった、とカレン本人は感じ始めていた。
「――私、何かまずい事でもしたかな」
「どうしたの、姉さん」
ある日、家族と囲む食卓の席で、気付いたら彼女は呟いていた。タチアナが怪訝な顔で自分を覗き込む。はっと顔を上げれば、両親もこちらを見つめていた。相変わらず、料理は口に運んでいるけれど。
「喧嘩か? カレン」
父親がもごもごと言った。食べ物が口の中に入ったままだ。知る人は皆が、食べながら話をする。食べるか話すかどちらかにするべきなのだろうが、自分達の身の上のことも外からの危険のこともあり、余裕がないのだ。カレンもあまり行儀が良くないなと思いつつ、食べながら答えた。
「ううん、心当たりはないの。だけど、最近友達のうちの一人が妙によそよそしくなっちゃって」
何でかしらね、とまたもごもご言って、口の中のものを飲み込む。タチアナがなるほど、という顔になった。妹も、姉に対するドラゴン使いの兄の割り切れない態度を見ているからだ。
と、母親のエミリアが突然にやりと笑って父親を見た。
「ははあん、そりゃあれだね、もしかしたら、もしかしてってやつだあね。ねえ、ギルバート」
「……あれか、セス=アンデリーが敵を作ったか」
父親――ギルバートはまたもごもご言った。夜だというのに、何処かで昼の鳥が鳴いている。
「カレンも隅に置いておけないねえ。流石、あたしの子」
エミリアはにやにやしながら、大鍋の中のシチューをもう一杯自分の椀に注ぎ足した。この人は、よく食べる。それでいてあまり太っていないのは何故だろう、とカレンは一瞬思った。
「……何で勝手に男って想像するのかな、まあ性別は当たってるんだけどさ。彼は普段からよそよそしい感じの人なんだけど――」
「――輪をかけて、姉さんだけに妙に変な態度」
タチアナがあさっての方向を見ながら、もごもごと言った。母親が目を輝かせて妹に訊く。
「ねえ、どんな人なんだい?」
妹は意味ありげな目付きで母親を見つめ返した。
「すっごい、男前。セスさんだって追いつけない」
「名前は? 知ってるんでしょ、タチアナ」
「落ち着いてよ、母さん」
諭すようにタチアナを横目で見ながら、カレンはエミリアをなだめた。ギルバートが咎めるような視線を伴侶に送る。
「……あの当時きっての村の人気者だった俺では、もう物足りないと言うのか」
「あらやだ、何を言ってるんだいこの人は。娘の将来のパートナーになるかもしれない人だもの、気になるのは当たり前だあね」
「無理よ、母さん」
軽い溜め息をつき、彼女は言った。父親がふんと鼻を鳴らす。
「あの人にはもう立派なパートナーがいるわ。私が彼らと知り合うずっと前から、ね」
本当のことを話すべきかどうか、カレンは迷った。タチアナがちらりと自分を横目で盗み見たのがわかる。エミリアは少し残念そうに言った。
「なあんだ、もう予約済みだったのかい。つまんないねえ」
そんなことを何となく聞いていたギルバートだったが、ややあって少しばかり訪れた沈黙の中でとんでもないことを呟いた。
「――欲しくなれば、奪えばいい」
「ちょっと、父さんまで――ただの友達なんだから――」
「俺だってちょっとは見てみたいさ。お前の相手がしっかり務まるような骨のある奴かどうか」
カレンは憤慨して、微妙な顔つきで父を見た。
「何考えてるの。そんなことしたら殺されるわよ、確実に」
「……確かに、姉さんの言う通りかもね」
二人の頭の中に、オーガスタの鋭い牙が浮かび上がった。腕の半分もあるあれに挟まれでもしたら、どうなるかを想像して、二人とも身震いした。
「そんなに手ごわいのか、敵は。俺の風魔法が必要なら――」
「――争うつもりはありません」
この話はおしまい、と言わんばかりの勢いでカレンは断言し、空になった大鍋を椅子から立ち上がって両手で持ち上げた。
まだ、言うべきではない。トレアンやテレノスがドラゴン使いだと、友人達の正体が、自分達の仲間が野蛮だと決めてかかっている種族だと教えてしまうと、一体どんな反応を、両親はするのだろうか。批難する姿が容易に想像出来て、彼女は胸がむかむかしてなかなか夜も寝つけなかった。
翌日、カレンは転移の術でもう見慣れてしまったレファントの森の出口の手前に空間を開いた。セスも、タチアナも今日は誘っていない。何だか自分一人で行きたい気分だった。
どうしてだろう。トレアンがよそよそしくなった理由を考えながら、彼らの家へと人に見られないようにこっそり移動する。何かまずい事をした覚えなど全くないのに、いきなりどうしてしまったのだろうか? 自分に対する何かわだかまりがあるのなら、尚更言ってもらわねばならない。
何処かしら、トレアン。彼女はきょろきょろとあたりを見回した。
「――人間、そこで何をしている」
語気の荒い言葉が刃物のように背中と耳に突き刺さって、カレンは飛び上がって声の主のいる方を咄嗟に向いた――また、黒い髪に鳶色の瞳。でも、トレアンでもテレノスでもない。
「――ああ、びっくりした」
「我々の土地に何の用だ」
男は、その手に短槍を構えていた。年の頃は三十を過ぎたあたりだろうか、その体は見事に鍛え上げられていて、一分の隙も見えない。彼女はごくりと唾を飲み込んで、言った。
「あ……怪しい人間じゃ、ないわ。私はただ、人を探していて――」
「――それは、誰だ」
男の表情は崩れることなく固いままで、短槍はまだ構えられていてぴくりとも動かない。鋭い眼光に気圧されそうになりながらも、カレンは何とか口を動かした。
「……トレアン、トレアン=レフィエールよ。私の友達なの」
そう言うと、男は何か気になることでもあったのか、眉間にしわを寄せてつかの間硬直した。やがて、彼はふっと表情を緩めて、さっきよりも幾分か柔らかな口調となって言う。
「……ふむ。とすると、君がカレンという娘か」
「えっ、何で……知って?」
男は、短槍を握った手を下ろした。
「アドルフ=リーベルという。君のことはテレノスからも聞いた、自分はドラゴン使い一族をまとめ上げる頭領だ。やっぱり、我々を見て逃げる者共とは違って、肝が座っている」
「……は、はあ」
誉められているのかけなされているのかよくわからなくて、カレンは間の抜けた返事をした。
「それで、トレアンを探しているんだろう?」
「……あっ」
そうだ、思い出した。トレアンを何となく探していたのだ。アドルフが言う。
「彼なら、家だよ」
「ありがとう、えっと……アドルフ」
親切にも教えてくれた頭領に微笑んで言うと、相手もそれまでの厳しい表情とは打って変わった気さくな笑みを返してくれた。
「あんまり他のドラゴン使いに見つからないよう、気をつけて」
最初に会った時はびっくりしたが、こちらも思ったよりいい人だったと感じながら、カレンは森の中に再び消えていくドラゴン使いを見送った。そして、この一族の人々が人間をどれだけ信用していないかということも、同時に感じさせられた。
残念ね、と呟いて、兄弟の家へと向かう。初めて来た時よりもまわりの景色に溶け込んだように見えるそれには、既に植物の蔓が何本も絡まり始めていた。戸を数回叩いて、二人の名を呼びながら引いて中に入った。
「あら、返事がなかったから誰もいないのかと思ったけど」
ひょいと一方の部屋を見れば、そこではトレアンが薬草を何やら煮詰めながら、猫のようにゆっくりとカレンの方を向いた。
「……ちょうど手が込んでいた」
「テレノスは?」
彼女がきょろきょろしながら言うと、レフィエールの兄は煎じ用の鍋から目を話さずに答えた。暑いのだろう、彼は今日も上半身むき出しである。
「仕事だ」
いつもと何ら変わりはない。彼女はそう思った。だけど、何かが違うような気がしてもう少し尋ねてみる。
「へえ、どんな仕事なの?」
「運び屋」
「それって、やっぱりドラゴンで運ぶのよね。あ、そうだトレアン、何か私に手伝えること、ないかしら?」
「……静けさを保つのを手伝ってくれ」
やっぱり、トレアンは顔を上げなかった。その鳶色の瞳は、ずっと手元を見つめている。カレンはしばらく作業を見守っていた。
互いに一言も喋らなかった。ドラゴン使いは煮え立つ鍋を火から下ろし、傍の桶の水を手ですくって火にかけ、消した。それから長い溜め息を一つついて、首と肩をぐるぐると回す。骨の何処かがコキリと鳴った。
「あ、肩ぐらいなら揉んであげられるわよ」
「……いや、必要ない」
差し出したカレンの手を見ずに、トレアンは鍋の両端を持って立ち上がった。丈夫な棚の上に鈍い音を立てながら安定させる。
「でも、相当凝り固まってる音してたわよ?」
両手を下ろした彼の、少し日に焼けたむき出しの肩に、彼女は無造作に手を置いた――途端、その体がびくりと大きく揺れ、おびえに似たような表情と動揺した鳶色の瞳が、自分を振り返る。
思わず、カレンはぱっと手を上にやった。ひとりでに声が震える。
「――トレアン?」
「――気安く、触らないでくれ」
背中を向けて、トレアンは言った。カレンは雷に撃たれたような顔をしてつかの間そこに立ち尽くしていたが、やがて納得いかないといった口調で、言葉を投げつけた。
「……最近、どうかしてるんじゃないの? トレアン」
「……至って普通だ」
彼は早口で呟いて、カップを二つ取った。どうやら茶を淹れるつもりらしいが、この人が飲みたくてやっているわけではないことが見え見えだった。
今度は茶葉の入っている水差しに伸びたしなやかな右腕を、カレンは捕らえる。トレアンが腕の筋肉に瞬時に力を入れたが、振りほどく勇気が持てなかったのだろう、緊張はすぐに消えた。
彼は、やっぱり目を合わさない。
「ねえ、ちゃんと言って。何かあったの?」
ドラゴン使いは口を引き結んだ。視線が斜め下に逃げている。一体何を隠しているのだろうか? そう思っていると、彼がやがてぼそぼそと呟いた。
「……そろそろ応えてやったらどうなんだ」
「……何を?」
トレアンが何だか覚悟を決めたような表情でカレンを振り返る。
「……人を、何年も待たせるのは――賢明だとは思えない」
その一言で、彼女は目の前の男が何を言いたいのかわかったような気がした。でも、それは自分が望んでいることではない。例え、相手が望んでいたとしても。
「あのね、私は前も今も恋人なんていないつもりなの。いいなって思う人はいたけど、いつも私からは遠かったわ……いつだって、そうだったんだから」
いつになく鋭い瞳の光と、きつい口調。周りの空気にまで圧迫されているような気がした。トレアンは自嘲気味に、心から思っていることを口に出す。
「セスは、私のような者と違って、素直で気配りの出来る立派な人間だと思う……私のような」
彼は再び顔をそらした。その眉間にしわが寄って下唇が噛まれるのを、カレンは見た。
「私のような不器用な――」
「あなたはあなたでしょう」
その言葉に、彼ははっとした。はっとしたのだが、すぐさままた別のどす黒い何かが、心の隅からねっとりと流れ込んで来た。気付けば、トレアンは大声を出していた。
「――私の気持ちなど知らぬくせに!」
息を吸い込む音がして、それっきり静かになった。カレンの手を振りほどき、彼は言った。
「……今日は帰れ」
彼女がはっと息を呑んで言う。
「トレアン、私まだ――」
「いいから帰れ」
その言い草に、彼女はむっとした。やっぱり、何処かおかしい。それに何故、ここにセスの話を持ち出してくる必要があるのだろう? 気付けば、彼女も大声を出していた。
「教えられてもいないあなたの気持ちなんてわかるわけない!」
それっきり、彼女は出て行って戻って来なかった。立ち尽くしていたトレアンは溜め息をつく。部屋の中央に行って、音もなく座り込んだ。
そして、小さく呟いた。
「……やってしまった、やって……」
右手で頭を抱え、ぎゅっと目を閉じる。唇を噛み締め、素直でない自分を呪った。
――何故あのようなことを口走ったのだろうか、と。
「あれ……カレン、どうしたんだい?」
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