8
ふと顔を上げると、飛びつけそうな距離にテレノスがいて、何処か不思議そうな目で自分を見ていた。少しだけ息が荒いからだろうか、それとももしかすると自分はまだ険しい顔つきのままなのだろうか? いずれにしても、失敗したと思えるのは間違いなかった。そして、トレアンが傷付いているということも間違いではないだろう。今しがた、どれだけひどいことを言ったのかはわかっているつもりだった。
「カレン……顔色が悪い。一体何があったのか、嫌じゃなかったら教えて欲しいんだけど」
大きくて暖かい左手が、右肩の上に優しく置かれる。兄が突き放す手なら弟は差し伸べる手かもしれない、と彼女はちらりと思った。
「……いいのかな、その……」
森の中の木の根に座ってためらいがちにそうカレンが呟くと、テレノスは鼻だけで笑って言った。
「……どうせ、兄さんがまたやらかしたんだろう?」
素直じゃないんだから、と彼は苦笑してから、そこらに適当に腰を下して相手の青い瞳を見る。
「……ありゃ、大体つまんない嫉妬だよ。言っていたことの中に自分の知っている他人の名前が出てきたら、絶対に兄さんはそうなんだ」
「あっ……そういえば」
そういえば、とカレンはトレアンが言ったことを思い出していた。――セスは、私のような者と違って、素直で気配りの出来る立派な人間だと思う。
「セスのこと、言ってたわ」
「……何でまた彼が出てくるんだ?」
カレンは眉間にしわを寄せた。
「……二人だけで、喋ったことがあるのかしらね。セスは、一年以上前からずっと私に一緒にならないか、って言ってくるんだけど」
「……君にはその気はないんだ?」
「ええ、まだまだやりたいことは山のようにあるから」
テレノスはふむ、と唸ってから、しばらくしてまたこう言う。
「……兄さんには何を?」
言われて、彼女は溜め息をついた。あの時、トレアンは一体何を考えてあのようなことを言ったのだろう。
「そろそろ応えてやったらどうなんだ、人を何年も待たせるのは賢明だとは思えない……って」
「……ああ」
テレノスも沈痛な面持ちで溜め息をついた。
「――そりゃ特大の嫉妬だ」
「何で? 何に嫉妬する必要があるのかわからない」
今度は、膝の上の左手に彼の右手が慰めるように重なった。目の前の若いドラゴン使いは少し笑って、優しい声で言う。
「兄さんは、素直じゃない。素直じゃないから、あんまり本心を出そうとしないんだ。俺だって伊達にずっと一緒に生きてきたわけじゃないから、兄さんの気持ちはよくわかる。人に、色々話してしまうと、弱みなんか握られたりすることもあるし、また別の人からの重い話なんかも一緒に背負って悩んだりするんだよ、実際に。ずっと前に、色々とそういうことで苦しがっていた時期があったから……優しすぎるから」
話の繋がりがよくわからずに、カレンは数回まばたきする。見下ろすと、大きな手が自分を安心させようとして少し力が入るのがわかった。
「セスはきっと、兄さんに向かって、君に長いこと振られっ放しだって軽く言ったんだろうね。そんなに軽く言えたら、どれだけ自分も楽かって、いつか叫びたいんだと思うな……叫びたかったんだろうね」
「私……そうだったのなら、すごくひどいこと言ったわ」
テレノスは彼女の顔を覗き込んだ。空の色に見える瞳が、今は海の底のような光をたたえている。一度だけ見たことのあるサファイアのようだ、と彼は思った。
「教えてもらってもいないあなたの気持ちなんてわからない、って」
「そんなの、当たり前だ。君の言ったことは正しいよ。皆が皆、俺なわけじゃないんだから」
とにかく、と言って彼は少し口元を緩める。
「君のおかげで、兄さんもちょっとぐらいは素直になるべきだって気付いたと思うよ。多分きまりが悪くてしばらくの間出て来られないかもしれないけど……」
そう言いながらカレンの顔を見て、テレノスはあわてて付け加えた。
「ああ、でも来るのは拒まないから、大丈夫だよ。気が向いたならいつでも行ってやって、兄さんの所に」
顔には絶対出さないようにしているけど確実に喜ぶから、と言って、彼は人懐っこい笑みを見せた。
「……本当に大丈夫かしら?」
「俺が保証する。それに、カレンの話聞いてたら、兄さんの嫉妬の方向が何処に向いているのか何となくわかったしね」
カレンは、あれっと思った。トレアンの嫉妬はセスに向いているのではなかったのだろうか? 彼女はテレノスに訊こうかと一瞬思ったが、何となくやめておくことにした。今訊くべきではないと感じたからだ。彼は言った。
「だから、元気出して、カレン」
だから、彼女はうんと頷いて少し笑った。そうすることで元気になれたような気がした。
壁にもたれて溜め息をつく。あと少しすれば、雨の多い湿った時期が去って、乾いた時期が半年間続く。そのちょうど中間の日が、新しい年の始まりの収穫の日だ。結局二杯淹れた茶の一杯を、一口すすった。
薬草の種の蒔き時もその頃だったなあと考えながらぼうっとしていると、戸口から聞き慣れた声がした。
「やあ、兄さん」
「……ああ、帰ったか」
努めて、冷静に。何も顔に出さぬように。本当は、全てこの心優しい自分の弟に打ち明けてしまいたかったが、これは自分と彼女の間の問題であって、弟の問題ではない。
「……そなたも茶を飲め、テレノス。沸かしすぎた上に淹れすぎた」
「……またか、兄さん」
テレノスは苦笑した。兄の癖だ、責められている時や居心地の悪い時になると、必ず茶に手が伸びて、大量に沸かす。その後で、二人一緒に腹が満たされるくらい茶を飲んだものだ。今はましになったが、まだその癖は抜けてはいないし、これからも抜けないだろう。
「……うん、まあ美味しいからいいんだけど」
弟が一口飲んで、言った。
「……当たり前だ、湖の水の量ほどを今まで沸かしてきたからな」
この近くのさほど大きくない湖のことを言っているのだろう。兄は表情一つ変えなかった。テレノスは言ってやった。
「で、今度は何だい?」
「……そなたの問題ではない、案ずるな」
トレアンの眉がぴくりと動いた。
「ふうん、そう……ああ、さっきカレンを見かけたから少し喋っていたんだ」
今度は、一瞬顔に緊張が走ったのが見えた。横目でそれを確認してから、わかりやすすぎる反応を必死で隠そうとする兄を笑ってやった。少し腹を立てた抗議の声が上がる。
「……何がおかしい」
「だって、わかりやすすぎ。カレンに会って喋ったって言っただけでそれなんだから」
兄は微妙な顔つきになってあさっての方向を向き、茶をまた一口すすった。板壁にぽっかり穴を開けただけの窓から、朱色の混じった光が差し込んでくる。いつの間にか、夕暮れになっていた。
「――兄さん」
呼ばれて、トレアンはためらったが、弟の鳶色の瞳を見た。不安が顔に出ていると感じていたが、引っ込める必要などないとテレノスの表情が無言で語りかけていた。
「無理、しすぎ。一応さ、俺だって身内なんだから。でも、ちゃんと言わないと俺だってわからないんだ」
鼻の奥がツンと痛くなって、彼はごまかすように喉をごくりと鳴らした。これ以上喋らないでほしい、弟に向かってそう訴えたかったが、今喋れば自分が崩れてしまいそうで、トレアンは唇を噛んだ。
「カレンだって同じさ」
この弟は、自分が彼女に言ったことを聞いたのだろうか? おそらく何があったのか知っているだろう。
「自分がどうしたい、って、どう思っているかって、ありのまま言わなきゃ伝わらないんだから。兄さんは、考えすぎ、思い込みすぎ――」
テレノスがすぐ隣に来た。まだ幼いと思っていた弟が、静かな眼差しを兄に向けてそこに座っている。喉の痛みがさらに増して、トレアンは茶のカップを置いてそこに左手をやった。
「――優しすぎ。遠回しに言い過ぎるから、誤解されるんだ。もうちょっと自分のこと、考えてもいいんじゃないか?」
「――私は、優しくなんかない。考えるのも自分のことばかりで――」
掠れて、裏返った声が喉の奥から出た。奇妙に歪んだ表情を見られたくなくて、右手で顔を覆う格好になる。
「違う、兄さんは考えているんじゃなくて、責めているんだ、自分を」
大きくて暖かい手が、右の手首を掴んだ。見せたくなかった涙が、こらえきれずに左頬を伝う。トレアンは、悲しいのではなかった。ただ、色々なことを後悔していた。
――もう少し、自分が強ければ。
「……辛いんだ、テレノス。そなたのような者ばかりが、こんな私の傍にいるのだから……」
涙は止まらなかった。右目からも溢れて、視界を歪ませる。その向こうで、テレノスが微笑んだ。手の甲に、手の平に、弟の優しすぎる手の温もりが伝わってくる。まるで、氷を溶かすかのように。
「……うん、もう少し兄さんも楽にしたらいいんだよ。こんなことぐらいで誰も兄さんのこと嫌いになったりしないし、カレンだったらなおさら」
こらえていた筈の嗚咽が漏れる。右手がぎゅっと握られるのがわかって、左肩に手が置かれた。生温かい水に歪んだ世界が美しく濃い朱色に染め上げられて、窓から夕暮れの涼しい風がさあっと吹き込んでくる。
「俺も、皆も、兄さんのことが大好きだから」
今日だけ、いや、今だけでいい。嬉しくて、泣けてくるもんだから、ひどい顔だと自分で思いながらも、トレアンは左手で顔をぬぐいながら弟に向かって笑って見せた。
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