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テレノスは再び黙りこくった。だが、しばらくするとまた口を開いてこう呟く。
「誤解なんざしないように、上手く付き合っていくのが本来の道だとは思わないのかよ」
本当に、その通りだ。しかし、それには自分の時間は足りなさすぎる、とトレアンは口に出さずに思った。それに、慎重に積み重ねてきたものは脆く、壊れやすい。そのような努力は初めからしないという人々の方が多いだろう。全く、難しいことだ。
正しいことは、いつだって難しい。兄はまた溜め息を漏らした。
「皆がそなたのような者ではない」
「でも、少なくとも俺と同じようなことは考えると思うけど」
「一体、問題にぶつかった時に果たして何人が、そのような考えに行き着くのだろうな」
それは嫌味か、とテレノスは兄の方に向き直って言ってやろうかと口を開きかけたが、兄の横顔を見た時点でその感情はかき消えた。眉間にしわが寄り、唇を噛んでいる。
「……私は思いつきもしない」
思い出したように付け加えて、トレアンは自分よりも少しだけ背の低い弟を見る。
「……兄さん」
「……そなたは、私のような術士でなくてよかったと思う」
「兄さんはひねくれ者でもわからず屋でもないさ」
テレノスは笑って、そう答えた。兄の方は少し意外だという表情で再び前を向いたが、ややあって口元を緩める。弟の短い髪をぐしゃぐしゃと左手でかきまぜてやった。
「……助かる、テレノス」
“アルジョスタ”の主導者であった少女、アミリア=レフィエール。カレンは再び歴史を読んでいた。黒髪に、エメラルドのような瞳。ずっと北のラライという地に住んでいた独特の人々の血を受け継いでおり、その髪は黒かったのだとか。そこでトレアンとテレノスを思い出して、彼らもアミリアの子孫だということを改めて感じた。
元々ドラゴンと言葉が交わせたラライの町の人々。だが、何らかの理由でどんどん数は減り、ある時術使いのレフィエールの家系に生まれたのが男女の双子であった。血は二分化して、力を持つ家系がこれまでの一つから二つに増え、勢力争いが始まった。始祖であるアズベルダ=レフィエールが造り手に入れた、四つの力を持つ伝統のペンダントも二分化され、片方は火と水、もう片方は光と闇を司っていた。
ラライの人々はまた、その瞳に全ての色を映しているような虹色の両眼を持っていた。アミリアは元の名をアミリア=シルダといい、祖母がレフィエール家にあたる。母は、人間達の城の王の妾であった。その王を倒し実権を掌握したのがジアロディス=クロウ、双子の片方の血を受け継ぐラライの民であった。
カレンは何故だろう、とここで思った。ジアロディスは長男で、ペンダントの光と闇の力を受け継ぐ筈だった。彼には弟がいてその名はレシフェル、ペンダントの力はあろうことかここで弟を選んだのである。クロウ家の断絶の予兆だったのだろうか? 彼女は思った。
ジアロディスは、弟に継承権が行ったのも理由の一つだったのだろうが、ある時ペガサスがラライの地に飛来した際に足を折られたのもあって、物心がついた折には何かに対し屈折した思いを持ったという。ペンダントは、継承者以外が首にかけると、その人を変死させたらしい。
故に、ジアロディスはそれを持てない。
彼は玉座を手に入れ、町の発展の為にと力を注ぎ込もうとしたが、街道や建築の整備に伴う税の上昇とアルジョスタのこともあり、先進的であったが改革には失敗し、やがて失脚した。弟のレシフェルはアミリアと行動を共にしていたのだが、兄が野放しにしておいた兵からレフィエールの少女を守ろうとして、自ら槍を受けた。
クロウ家は断たれ、アミリアが四つの力を自身の体に取り込んだ。それと同時に、風の力と土の力が解放され、彼女の瞳の色は鳶色となったのだという。
ロウソクの光が、ちらちらと揺れている。ドラゴン使い達は、昔から苦労してきた民族なのだ。
「ただ……うーん」
その背に純白の翼を持つ白馬、ペガサス。カレン自身は見たことがないのだが、ジアロディス=クロウは秩序の象徴であるペガサスからあのような仕打ちを受けて、彼らがいなくとも秩序ある平和な国を作ろうと強く思ったのではないか? 秩序らしからぬその行為に、絶望を見出したのではないだろうか。
弟の死後、彼は古代竜の姿をとって絶望のうちに暴れ、アミリアによって倒される。そして人間の城では新しい王にアミリアの腹違いの姉であるエーランザ=シルダが就いた。以後長く彼女とその子孫の治世は続き、今はその家系の男の王がこの小さな村よりもずっと西にある城下町やその周囲の町を統治している。そのずっと西の向こうに住むエルフとの間にも、協定が結ばれたのだとか。
カレンは本の表紙を見た。いつか父親が短命エルフという、人間と同じくらいの時を生きる種族の商人から取り寄せてくれたものである。著者の名はセナイ=フィルネア、まだ何処かで生きているらしい。
それにしても何故、アミリアの子孫達は森の奥に移り住んだのだろうか? 英雄として称えられた者がその後隠居したという話は、今までにも何度か聞いたことがある。二百年前に闇の狭間から生まれ出た異形の者を浄化した光使いも、百年前に暴れまわる火の化け物を退治して鎮火した水使いの魔剣士も。でも、彼女は違う。アルジョスタという大所帯をかつて引き連れていた少女が、何故。
物思いに耽っていると、誰かが物音を立てた。
「――誰かいるの?」
咄嗟に振り返って短剣に手を伸ばしながら見れば、相手が慌てたように大声を上げた。
「待った待った、カレン! 僕だよ、セスだよ」
「何で家に入って来ているのよ」
短剣を持ったままカレンはセスと名乗った人物を睨みつける。
「いや何、ちゃんと戸は叩いたよ? 返事がないのに押してみたら開いたから、少し失礼してきたんだよ。一人でいる時はカレン、棒は立てておくべきだと思うけどね」
「大きなお世話かもね」
それでも彼女は、戸口まで行ってつっかえ棒を立てておいた。
「何しに来たの?」
勝手にそこら辺の椅子に座ったセスに向かって、カレンは茶の入ったカップを差し出しながら言った。とりあえず来た客はもてなしておくのがここらの村では普通なのだ。
「いや何、最近ずっと君に会いに行ってもいつも居なくてね。雨が降っていない今日に来てみたら、当たりだったわけ」
何処に行っているんだい、とセスは呑気そうな顔で言った。特に何が悪いわけでもない、少しお節介で普通なこの男が自分の周りをうろちょろしているのは少しうっとうしかったが、別に悪い気がしないでもないのでカレンは至極あっさりとした付き合いで済ませていた。でも、何だかつまらなくて物足りないのは事実だ。
「私も色々忙しいのよ」
音を立てて書物を閉じて、小さな本棚にしまう。その本棚には、家族の扱うそれぞれの力の引導書があった。火も水も、風も土も。
「まさか、僕の他にもっといい奴を見つけたなんてことはまさか、ないだろうね?」
その台詞に彼女は呆れ、苦い顔で溜め息をつく。
「……私は今も恋人なんていないつもりなんだけど」
悪い奴ではないのだが。自分達と同じような年頃の娘達の間では、何故か知らないがセスは結構評価が高い。カレンは何となく目の前の青年の顔を観察していた。暗い荒地の砂のような色の髪に、とても薄い灰色の瞳。トレアンやテレノスとは大違いだ。顔立ちも、きりっと引き締まったドラゴン使いの友人達に比べて、普段肉体を酷使しない術士らしい柔らかさが何処となく備わっている。体つきだって、仲間のうちでは一番細身なトレアンよりも更にしなやかで細い。
セスは少し不満げに彼女を見つめ返した。
「僕の気持ちは、どうやら君にはまだ届いていないみたいだねえ……そんなに嫌いかい?」
「別に嫌いじゃないけど」
自分の茶を淹れながら、カレンは曖昧な返事をした。そう、別に嫌いではないのだ。ただ、物足りないだけで。
「……僕と一緒になる気はないのかい?」
「まだそんなこと考えてもないわ。そんなに急ぐことじゃないし」
そう言うと、相手は少し残念そうな表情をしてカップの中を見つめて小さく溜め息をついた。
「……十分すぎるほど待ったつもりなんだけど」
「たったの一年と少ししか経ってないわよ、あなたがそれを言い出してから。それに、私にはまだやりたいことがあるもの」
カレンは苦笑しながら言って、茶を一口飲んだ。葉の香りがすっと喉の奥に馴染む。開け放した木枠の窓からすっと風が入ってきて、部屋の中の二人の前髪を揺らす。
セスも一口茶を飲んだ。悔しいけど美味しい。一体いつになったら彼女は自分をまともに見てくれるのだろうと思いながら、彼は窓の外を眺めているその人を見つめた。巻き癖の強い明るい色の髪は肩より少し下まで伸びていて、青い空を連想させる瞳は透き通っている。ほどほどに整った体の線はとても魅力的に思えた。これが、自分にまとわりついて甘えてくるような性格の女だったら、間違いなく離れようと試みるだろう。カレンはいつも、何処か別の場所を見ている。それが何なのか知りたかった。
無性に彼女に触れたくなったが、やめた。相手はそれを望んでいないだろう。その代わりに彼はまた茶をすすった。
「やりたいこと、か……」
セスが呟くと、目の前の人は自分に向き直った。
「あなたにだってあるでしょう?」
「そりゃあ、君と一緒になれればそれで――」
「それより他にはないの?」
言われて、少し考えて適当に思い付いたことを返してみる。
「……自分の術を磨くとか」
「あるじゃないの」
「でも、強力な術が使えたからって、普段食べてる野菜が手に入るってわけじゃないし……せいぜい他の村からふっかけられる戦でしか能力も発揮できないしね。それも滅多に来ないけど」
カレンは少し黙っていたが、ややあってこう言った。
「でも、何か目的を持つのはいいことだと思うわ。タチアナにはまだまだ追いつけないけど、私だってもっと火の術も頑張りたいし、いざという時の為に役に立ちたいし」
そうだ、こんな前向きなところが自分は気に入ったんだ。いつか、ひどい傷を肩に負いながら、カレンは両親の為にと誰かから薬を貰ってきていたっけ。ドラゴンと互角に渡りあえたと言っていたが、それも前向きなものが作る自信のもたらした結果なのだろう。セスはしみじみとそう感じた。
だけど、体が邪魔をした。気付けば、全く逆のことを彼は言っていた。
「でも、いざという時なんて全然やってこないのが現状なんだよね。結局僕は悲しくなってくるんだ……」
なのに、彼女は笑ってこう答える。
「まあ、それもそうだけど」
そうだ、この態度だ。自分のことを好きなのか嫌いなのかはっきりしてくれ、と彼は思った。いつまでも馬鹿な期待を寄せているように見えてしまう自分が、少し嫌になった。嫌味を言ったつもりが笑って返されると、居心地が悪くなってしまう。相手が何とも思っていなくても、セス自身が自分の非に気付いてしまうのだ。
だから、カレンが好きなんだ。茶を飲み干して彼は思う。舌の奥に苦くて甘い味が残っていた。
セスは、それ以上何を誘うわけでもなく、彼女に別れを告げて外に出た。蒸し暑くて、太陽の光が腕に刺さるように照りつけてくる。思わず服を脱いで上半身をさらけ出した。それでも眩暈がしそうになるので、近くの小さな木立に入ることにする。
「ふう……暑いや」
木の根元に座り込んで、木の葉の隙間から少し白く濁った空を眺める。風はほとんどなく、彼は手で顔をあおいでいたが、全く意味をなさなかった。こういう時に自分が風使いだったらよかったのに、あるいは水使いだったらよかったのに、などと思ってしまう。生憎、セスは闇使いだった。
「……敵わないよなあ」
呟いた言葉が誰に対してのものなのかは、わかっている。じりじりと何もかもを焼きつくしてしまうような太陽に、焦がされていくような気がした。
「エミリアさん、カレンは何処ですか?」
その家の戸口で、ある日セスはカレンの母親と会っていた。ミストラル家の姉妹とそっくりな顔立ちに同じ色で癖のついた髪、人懐っこい笑み。
「さあねえ……友達の所へ行くって言っていたけれど」
「友達……どんな人か、ご存知ですか?」
「あたしも訊いてみたんだけどねえ。そのうち教えてあげる、って言われたっきり、なあーんもなしだね」
エミリアはおおらかな口調でそう言って、首を傾げた。はっと何か気付いたように、前を向く。
「もしかして、男じゃないだろうね」
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