3
タチアナは真っ直ぐで長い髪をもう片方の手の指に巻きつけているだけで、喋らない。沈黙は次を促していた。
「今みたいに厳しい状況でも生きていく為だと思うの。確かに、入っちゃいけないって言われるぐらい、あの森は危険よ。だけど、生き残る為には、あの中に入って行かなくちゃならない時だって、あると思うの。そして」
カレンは立ち上がって、妹に向かって微笑みかけた。
「私が生きる為には母さんと父さんが必要なのよ。従って生きるんじゃなくて、お互いに助け合って行きたいの」
何処かに取り残されたような表情で、タチアナは右手をかざしたまま宙に水の造形物を浮かせていた。
「もちろん、あなたへの想いにも変わりはないわ、タチアナ」
妹はうつむいて、でも次の瞬間には真っ直ぐ姉の方を向いて言った。
「でも、もし離ればなれになって会えなくなったら、その時はどうやって助け合うの?
もし、皆がこの先いなくなったら、姉さんはどうやって生きていこうとするの?」
「……人は、変わっていくわ。何も、出会うのは家族だけじゃないもの」
カレンはそう言って、穏やかな表情で窓の外を見た。友人の正体は、今は明かさない方がいいだろう。
「大切なものを守る為に、私はこの力を使うわ。もちろん、私自身も守る為にね」
タチアナは宙に浮かせた水の造形物を自身の力で凍らせ、窓の外に放り投げた。そして、部屋の中を歩いて何処からかロウソクの太いのを一本持ってきて、姉に手渡す。
「――暗いわ。でも、姉さんは明るい」
カレンは小さく声を上げて笑い、言った。
「今の友達のおかげよ」
野蛮でも何でもない、同じものを共有出来る人達。彼女は今確かに、大切なものを増やしていた。
母さんは土で、父さんは風。木の上から、地面に座っているドラゴン使いの兄弟に向かってカレンは言った。森の中は昼間でも涼しくて、また沢山の発見があって、彼女にとってそこは何時間いても飽きない場所になっていた。
「だから、そなたは……ここの土地は母君が喜ぶだろうと言っていたのだな」
トレアンが地面のあちこちを見回しながら言った。そして何かを見つけたかと思えば、丸い葉の形をした草を根元から抜く。
「知っておくといい、これがリキュアラ=ハーブだ。そのままでもいい、食すれば大抵の毒を中和させることが出来る」
そして、とその後を続けたのはテレノスだ。少し乾き気味の土の上に、彼はいくつかの草を見つけて一本を引っこ抜いた。蔓がくるくると巻いている。
「マメの一種だよ。水がなくても、ある程度痩せている土地でも普通に育つし、食べられるんだ。まあ、肥えた土地の方がいいに越したことはないんだけど」
「母さんも村の皆も喜びそうね。幾つか持って帰ってもいいかしら?」
カレンがそう言うと、ドラゴン使いの兄弟は顔を見合わせた。何か問題でもあるのだろうか?
「うーん、いいと思うんだけど」
テレノスが自信なさげに呟いた。トレアンは少し考えてから弟の後を受けて言う。
「村の人間がそなたに訊くだろう、それは何処にあったのか、と。私達の存在があってもなくても、いずれ人間はドラゴンの森であるこの土地を欲して近いうちにレファントへと進出してくるだろう」
カレンは、木から降りた。兄の前に立って首を傾げる。
「つまり、あなた達が圧迫されるのね」
「レファント……この森は広い。だが、そのすぐ向こうには……」
人の村が既にある。トレアンはあえて最後を言わずに、目の前に立つ彼女から目をそらして、すぐ傍の大きな木の幹に触れた。生命の脈打つ音が今にも聞こえてきそうだ。
「じゃあ、やっぱりやめとくわ」
「……そうか」
さらりとした会話に、テレノスが割って入った。
「何で? 村の皆ももうちょっと助かるんじゃないのかい?」
その言葉に、カレンは少し笑って弟の方を向きながら、その場にしゃがみ込んだ。少し長い服の裾が地面に触れるが、気にすることはない。
「トレアンが今言ったみたいに、私達がそれを知ってしまえばあなた達を傷つけてしまうかもしれないわ。そこまでして豊かになりたいわけじゃないし」
「……そっか」
テレノスは少し照れくさそうにして、自分の座っている地面を見つめた。出てきたばかりの小さな草の芽を見つけて突きながら、呟く。
「……カレンは優しいよな」
「え、そう?」
目をぱちくりさせた彼女に向かって、彼は顔を上げてうん、と頷いた。さあっと風が吹いて、木漏れ日が優しい音を立てて髪を揺らす。
「なあ、兄さん」
急に話を振られたので、トレアンは戸惑いながらも口を開いた。
「あ、ああ……そうだな。能天気なそなたと違ってな、テレノス」
「な……っ」
テレノスは口元を引きつらせたが、すぐに兄の気持ちが読めたらしい。その次にはにやりと笑って、あさっての方向を向いたままのトレアンに向かって勝ち誇ったように言う。
「……照れ隠しの材料に俺を使うのはちょっと酷いよな」
「う、うるさい」
顔を赤くしながら批難の目を弟に向けた兄を見て、カレンは思わず吹き出した。それを見てテレノスも笑い出し、トレアンは再び別の方へ顔を向ける。
「いつか時が来たら、私の家族に貴方達を紹介したいわ」
彼女がそう言えば、弟がすかさず添えた。
「出来るさ、絶対に。なあ、兄さん」
「……土と風の使い手か、是非会ってみたいものだ」
あっという間に調子の戻ったトレアンはそう呟いた。ふと思い付いて、カレンはその整った横顔に向かって尋ねる。
「ねえ、貴方達の両親のどちらかって、術使いの素質があるんじゃなかった?」
兄弟が同時に彼女を振り返った。その表情ががらりと変わっていたので何かまずいことを言ったのかと思ったが、テレノスが明るい口調で言う。
「ああ、うちは父さんがそうだったな」
「……だった、って」
「気にするな、カレン。流行り病で数年前に両親はいなくなったが、それはレファントの地で多くの者が経験したことだ」
トレアンはさらりと喋って、カレンがごめんなさいと言おうとするのを遮った。さらにこう付け足す。
「私の父は、闇使いだった。私自身は光使いだが」
「でも俺にはその力はないさ。もし俺より下に弟とか妹がいても、兄さんみたいに術は使えないし、他のドラゴン使いの家族もうちみたいなレフィエールの家柄とは違って、術は使えないんだ」
何でかはわからないけど、と言ってテレノスは立ち上がった。
「丁度いいや、兄さんも久し振りに父さんと母さんに会いに行こう」
「……それもいいだろう」
服に付いた土を払って、彼らはカレンを振り返る。彼女もその先を理解して、すっと立ち上がって歩き始めたトレアンとテレノスの横に並んで森から抜けて行った。
レファントに住むドラゴン使いの家は大きく、たまに木々に覆われた岩棚があったかと思えば、そこで何匹かのドラゴンが日向ぼっこをしている。彼らは、三人が傍を通り過ぎると大きな金色の目を片方だけ開けて、必ずジロリと観察してきた。そしてまた、昼寝に戻っていくのだ。ドラゴンの鱗の色はそれぞれ違ったが、日の光に反射して煌くのが美しかった。
家と家との間に広がる耕地は広くはなく、しかし耕した土の匂いと目に見える一面の緑は新鮮で、カレンはすう、と息を吸い込む。進む道は脇にそれて、行く向こうには木のない小高い丘が広がっていた。
「……結構見晴らしがいいだろう?」
立ち止まったトレアンを振り返ればそう言うので、視線を少し上げる。森が遠くまで広がっていて、ずっと向こうの山々が青空の下で緑色に燃えていた。
「すごい、綺麗」
「墓だけはいい所にたてたよなあ、皆」
テレノスが苦笑しながら歩いていく。二人はしばらくその景色を眺めてから、また振り返って先を行く弟の後についていった。腕くらいの厚さのある石の板には何やらカレンには読めない文字が彫られていて、それは沢山立っている。幾つもの石の横を通り過ぎて、やがて辿り着いたのは一番奥、他よりも一回り大きな石標の前だった。
「……八十日振りか」
トレアンが呟いて、手をかざした。光の玉が数個放たれ、石標の立つ墓の回りを駆け巡って空へと消える。
「人の念は強い。たまにこうしておかねば、溜まってきたものがレフィエールの何かを呼び起こして、嫌なことが起きる。数十年前にあったそうだ」
そう付け加えて、彼は静かに目を閉じた。テレノスもカレンもそれに従って、何も見ずに風の音を聴いた。鳥の歌う声が微かに森の向こうから聞こえて、丘の下からは誰かの声がまた聞こえる。きっと、ドラゴン使いが仲間を呼んでいるのだろう。ドラゴンの唸る声も、一回だけ聞こえた。
しばらくして、目を開けたテレノスが言った。
「兄さんみたいなドラゴン使いの術士は、代々こういった穢れを取り除く力も持ってるんだ」
それは小声で、しかしとてもよく聞こえて、カレンは答える代わりにもう一度目を閉じる。たった二人で仲間に支えられてきたこの兄弟に向かって、小さな祈りをささげた。
「さて、説明してもらおうか。兄弟」
アドルフは無表情で、そこに座らせたレフィエールの兄弟を見る。テレノスは少し首を傾げてから、兄をちらりと見た。こちらも同じく無表情で、目の前に座る人生の盛り真只中の男を見つめている。自分の兄が、自分と同じ立場で頭領のこれから始まるであろう説教を聞くことになるのかと思うと、少し可笑しかった。
「君達は理解していないらしい、我々ドラゴン使いが人間や術士からどのような評価を受けているか」
トレアンが眉間にしわを寄せる。だが、テレノスはさっきと同じ表情のままだ。アドルフは弟をじろりと見やってから、また話し出した。
「幾年か前に、レファントの地に迷い込んだある人間は大怪我を負った。気を失って倒れていた彼の人を助けた我々の仲間とそのパートナーのドラゴンが、意識が戻る時にちょうど居合わせたんだ。人間の方がドラゴンを見て、逃げ出した」
早とちりというやつだ、と彼は言って、短い溜め息をつく。テレノスを再びじろりと見て、口を開いた。
「その他多くの誤解が生まれ、我々に対する妙な考え方が生まれているんだとか。君が集会に来た時に、人間にはあまり深く関わらないように君の兄上にも伝えてくれと頼んだ筈なんだがね、テレノス」
「……ごめん、アドルフ。どうしても俺の考えにそぐわなかったから……」
「そういう重要なことを私に言わずに黙っていたのだな、そなた」
トレアンにまで睨まれて、テレノスは肩をすくめて小さくなった。ごめんなさいと数回呟いたが、理不尽だと言わんばかりの表情で、次の瞬間にはアドルフの方を見ていた。
「でも、何か間違っているとは思わなかったのかい? その話に出てきたそのような浅はかな人間には教えてやればいいんだ、俺達はよほどのことがない限り誰にも危害は加えない、ってさ。それに、カレンはそこらの勘違いしているドラゴン使いよりずっと賢いさ。勿論、俺達のことはちゃんと口止めしてあるし」
頭領は眉間にしわを寄せた。今日は、彼は自分の小さな息子のユーリヒを連れてきていない。人を叱責するところを見せたくないのだろう。アドルフの伴侶は流行り病のせいで既にいない。いざという時ドラゴン達に乗って戦う騎乗兵、それを引退した老使い達が住んでいる、森の一番奥の大きな家に息子を預けているのだろうか。その人はまた短い溜め息をつく。
「……それを君は言ったのか、あの娘に?」
「いいや。でも、カレンはわかってくれてるさ」
でなければ、あんな風にしょっちゅう来たりしない。テレノスは相手のものわかりの悪さに苛立ち、口をとがらせた。この弟はもう正式な騎乗兵となってもいい年である筈なのだが、いかんせんまだ子供っぽさが抜け切っていない。同じ年頃の女ならばもっと大人びてしっかりしているのに、とトレアンは心の中で呆れた。
「――いずれにしても」
苦々しい口調でアドルフは言う。今度は弟だけではなく、兄の方もしっかりと見た。
「距離をとるように。欲深い者や早合点をするような者には、近寄らぬことだ。最も……君達の友人のことを言っているわけではないが、その娘の周りにいる人間の動向を聞いて、注意しておいた方がいい。噂に聞く西の大凶作のこともある、彼らがいつ森の境界線を破ってくるかわからないからな」
それを最後に、二人は頭領から解放された。今日カレンは来ていない。昼を大分過ぎているし、来ることはないだろう。アドルフの家を後にしながら、黙りこくっていたテレノスが誰にというわけでもなく、不満そうに言った。
「ありゃ、人間のことを殆ど知らない人の言うことだ」
トレアンが、ふんと鼻を鳴らす。弟にしか聞こえない声で、彼は言った。
「私達とて、人間のことなど言うほど知っているわけでもないだろう。アドルフとそう変わりはない」
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