2
「……こ、これ」
彼女は受け取りながらトレアンを見た。
「エル=シエル・ハーブの煎じ薬だよ。兄さんから君へのお土産」
テレノスが微笑みながら言って、カレンの右肩を軽く叩く。
「元気でね、カレン。機会があったら、また」
「うん」
二人がお互いに微笑むのを黙って眺めているトレアンの心に、何かが刺さった。自分を振り返って笑う彼女には、もう会えなくなる。
「家族って何人いるの?」
「両親と、妹のタチアナの四人よ。タチアナは水が好きで、私よりももっと賢くて、難しい術を使えるの」
名残惜しそうに新しい会話を始めるカレンとテレノス。また、心の何処かがちくりと痛んだ。自分が人の記憶を抜こうとしているから後ろめたいのだろう。トレアン自身はそう考えた。
「でも、ヴァリアントと対等に渡り合えるくらいの術を使う君もすごいと思うけど、俺は」
「まだまだ、よ……そろそろ行かなきゃ、村の皆がきっと私を探して大騒ぎしてるだろうから……トレアン」
呼ばれて、彼は今初めて気付いたかのようにはっと顔を上げた。知らず知らずのうちに下を向いていたらしい、彼女は不思議そうな表情だったが、直ぐに微笑みを浮かべた。
「薬、ありがとう」
テレノスも手当てありがとう、とカレンは言って、くるりと背を向けて歩いて行く。ちらりと弟を見れば、彼はこちらに注意を払っていない。トレアンは素早く唇を動かし、遠ざかっていく彼女の背中に向かって忘却の呪文を唱えた。
「――兄さん?」
テレノスがこっちを向いていた。
「何だ」
「カレン……とさ」
兄は、ためらいの色を含む弟のつっかえた言葉を聞きながら、歪んだ空間を閉じた。違う家が立ち並び、馴らされた土地が広がる風景がすっと消滅する。
「また会えるかな」
トレアンは中途半端な溜め息をついた。残りの何かは鼻腔の奥に流れていった。
「……さあ、どうだろうな」
さて、愚弟のドラゴンの様子も見てやらねばならない。それと同時にカレンがヴァリアントに負わせた傷の深刻さを思い出して、彼はほんの一瞬息を止め、考えた。
――私の術は意味がなかったのではないか、と。
かなりの日数が経って、トレアンはある日薬草を採りに出かけていた。木漏れ日であろうと差してくる陽の光は強く、頭に布を巻いておかないとくらくらするくらいだ。自分達の小さな町だって、同じようにいつもずっと暑い。たた、決まった時期に近くの川の水量が増えるので、その期間からは食料の栽培などがドラゴン使い達の間では古くからなされてきた。
それにしても暑いものだ。彼は籠に一杯の薬草を入れて森を抜ける。水が増える頃は心なしか湿気も増したような気がして、肌にじめじめと染み込んでくる。低い壁の町の中に入って太陽に手をかざしながら空を見ると、心なしか少し青さが増したような気がした。
次は、薬草を庭で育てようか。トレアンはそんなことを考えながら自分の家へと入り、靴を脱いだ。
「やあ、兄さん」
地面より高い板の床の上で胡坐をかく裸足のテレノスが、顔を上げて笑顔を見せた。
「早かったのだな、テレノス」
「思ったより早く終わってさ、届け物の仕事。もう太陽の光が強すぎたし、暑くて死にそうだったから向こうの人に適当に置いておくって言ってからさっさと放置してきたさ」
この時期の仲間の男は皆大抵上半身をさらけ出して日に焼かれるが、見ればテレノスは腰布一枚だけでそこに座っている。トレアンはぎょっとして一歩後ろに引いた。
「……テレノス、ふ、服ぐらい着ろ」
「いいじゃないか兄さん。どうせ自分の家なんだし」
「せめて下ぐらい着ろ! 私の術で浄化するぞ」
潔癖なんだから、と苦笑しながらも、弟は立ち上がって溜め息をつく兄の前でゆったりしたズボンを下着の上にはいて、再びその場にどっかりと座り込んだ。
「……腰ぐらい縛っておけ」
トレアンがそう言うのは、余りにもズボンの腰が広すぎて、立ち上がるとずれるからだ。
「いいじゃないか、こっちの方が涼しくて気持ちいいんだから。兄さんも縛るのはやめたらどうだい、立ち上がらなかったらずり落ちもしないんだし、俺が見ていて暑いんだよ」
「テレノス、そういう問題ではない――」
説教をしようと大声を出した時だった。何だか、聞き慣れない誰かの声がする。兄が突然喋るのをやめてあさっての方向に顔をやったので、テレノスも兄を見て、次いでその声に気付いた。
「……歌?」
「……そのようだ」
「俺の知らない歌だ」
首を傾げた弟と違って、トレアンは動きを止めたまま歌に聞き入っている。やがて、思い出したようにその唇は言葉を旋律として紡ぎ始めた。
「――数多の砂の粒 天馬の翼よりも速く乗り越え 竜達の告げし新しき刻 今来たらん」
「――兄さん?」
トレアンが薬草の籠を置いて、でもその顔は歌い手がいるであろうその方向に向けたまま、そして彼は戸口へと歩いていく。
「――風に生まれし新たなる力 大地をあがめ操りし力 ここに与えられん 我が愛する長の子よ」
「兄さん、知ってるのか? この歌」
先回りしようとして兄の顔を見たテレノスは、一瞬驚いた。いつもはしっかりとしていて鋭い瞳が、今は懐かしさと優しさに満ち溢れている。開け放たれた戸口からそのままトレアンは出て行き、それについて自分も行った。兄は歌い続ける。
「――与えるその名 レフィエールの下に あなたは私の後を」
しかも、自分達しか知らない筈のドラゴンとの会話の言葉で歌っているとは。兄が足を止めたその先にいるのは、何処か見覚えのある色の薄い巻き毛の若い女だった。
「――私は向こうへの道を」
若い女は、兄弟を見る。二人とも、息を呑んだ。
「勉強したのよ。あなた達のことについて、色々な所から聞いて。ちゃんと転移の術も覚えたの」
彼女はにっこり笑って、付け足した。
「盾の術は、覚えておいて損はないわね……忘却の術も防げるから」
その言葉に、トレアンはごくりと喉を鳴らした。
「――カレン、まさか」
この娘に、自分の術は通用しなかった。ヴァリアントの傷を一番初めに見た時に気付いておくべきだった、盾の術に弾かれたのだ。
「もっと知りたいと思ったの、お互いの心の中に流れているものがどう違うのか、ってこと。直系のレフィエールの人でも、第一子しかトレアンみたいな力が備わらないのは何でか、ってことも。歌の意味はわからないんだけどね」
カレンは兄に近付き、力強い笑顔のままで自分よりずっと高い背丈を見上げた。
「俯いていたあなたを見た時に気付いたのよ……私をどうしたいのか。でも、私を助けてくれた人を、忘れるわけにはいかないわ。トレアン、テレノス」
トレアンは何も言えなくなって、自分を見上げる人間の娘を見つめる。と、すぐ後ろで嬉しそうな声が上がった。テレノスだ。
「カレン! 覚えててくれて嬉しいよ、俺」
そう言いながら、彼は前に出ようとする。
「まだ一年の三分の一も経ってないから当たり前よ。そんなことよりテレノス、その格好――」
カレン自身も笑顔で弟に近付こうとしたが、突然布がずれる音がしたので、三人ともその音の方向を見て、そして我に返った。
「……テ、テレノスーっ!」
「おっと、これは失礼」
「だから言ったのだ、縛れと! 全身ぐるぐる巻きにして木から吊るすぞ、阿呆!」
ズボンが地面に落ちたテレノスに向かってトレアンが大声で怒鳴る。あまりにも滑稽な兄の慌てっぷりに、カレンは吹き出して彼に溜め息をつかせた。
「――仕方ないわ、じめじめしてて暑いもの、ここも私の村も」
腰を縛ると言ってズボンを両手で引っ張り上げながら家の奥へと引っ込んだテレノスを見送ってから、彼女は言った。
「……そんなに近くまで来ているのか」
兄が独り言のように言うと、カレンがこちらを覗き込んできた。その瞳が澄んだ青であることに初めて気が付く。
「どうかしたの?」
「いや……オーガスタと空を飛んでいると、半日の半分もしないうちに人間の家や集落が見られるのでな」
昔は一日中飛んでいても森しか見えなかったらしい。トレアンはそう呟いて、そのまま空を見上げた。カレンの瞳の色と同じだ。
「貧しいと、人は働き手を増やそうとしてどうしても人が多くなるの。住む所も食べる物も足りなくなってきて、今じゃ一番森に近くてましな筈の私の村でも、生きていくので精一杯よ」
だから、生きていく為に術を扱える人は勉強するの。彼女はそう言って、そのまま地面を見た。
「ここの土、いい土ね。母さんが喜びそうだわ」
「――そんなに」
「ひどいの、私達の村の土地」
トレアンは表情を変えずに、今度は違うことを訊いた。
「転移の術を使ったのか、そなた」
カレンが自分を見上げて、にやりと笑った。
「ええ、そうよ」
テレノスが腰を縛ってやっと出てきた。二人ともそれを振り返って、兄は軽い溜め息をつき、訪問者は少し笑って向き直る。三人は日の当たる場所から離れて、涼しい森の中へと入っていった。
それを、ふと歩く足を止めて見た者がいた。
「人間……?」
彼は眉間にしわをよせた。レフィエールの兄弟と関わりがあるような人間など、いただろうか。唯一思い当たるのは、季節の半分以上前に迷い込んできた怪我人くらいである……会いに来たとしても、森の中は危険が多く、人間が抜けて来られるような所ではない。
「アドルフーっ、アドルフーっ!」
誰かが自分の名前を呼んでいる。では、人間以外の何かだとしたならば? トレアン=レフィエールの使えるような転移の術を知るような者。
「まさか……でも、忘れさせて帰した筈……」
もしも、忘却の術を跳ね返すような者だとしたならば。
この森は深かった、今までは。しかし今は違うらしい。レフィエールの一番目の子が持つ大きな力を撥ね退ける術士が閉ざされていた森の中の小さな町に来るかもしれない、などということは今まで誰も夢見てはいなかった。
「アドルフーっ! ちょいとこっち来て手伝ってくれーっ!」
「わかった、今行くーっ」
あの娘は何者だ。アドルフの心臓は音が聞こえるぐらい強く、そして速く打ち始めていた。
「姉さん、最近何処に行ってるの?」
外は雨が降っている。タチアナは石造りの家の小さな窓から両手を伸ばして雨水を弄びながら、近くにいる姉に問うた。見える空は灰色に曇っていて、当分青い空は拝めないだろうと思ってしまう。
「友達のところよ」
カレンは読んでいる本から目を離さずに答えた。数百年前の歴史が文字になって、自分の前に小さくなって存在している。彼女は今、アミリア=レフィエールの生い立ちを辿っていた。秩序の象徴であるペガサスを捕らえ、私怨からその姿を黒く変えて人に危害を加えさせる生き物にしてしまっていた、当時の若き王に対抗する組織である“アルジョスタ”の主導者。まだ自分よりも若かった頃に人々を率いた、少女。
「……どんな友達なの?」
タチアナの声には、好奇心と猜疑心が入り交じっていた。友達……アミリアにもそのような存在はいたのだろうか、と思って、カレンは再び本に目を落としたまま喋った。
「父さんと母さんが倒れた時にね、私が薬草を探しに行って、たまたま助けてくれて、よく効く薬をくれた人達なの。あの薬は確かエル=シエル・ハーブを煎じたもの、だったかな」
妹は右手の中に溜めた雨水で形を作りながら、ふうんと言った。
「前の、姉さんの肩の傷もその人達が?」
「ドラゴンにやられたのを手当てしてくれたわ」
それを言った途端、タチアナが息を呑むのが聞こえた。
「どうかしたの?」
「姉さん、そんなに森の奥まで入ったのね……」
母さんや父さんの言いつけに背いて。その声には批難の色が混じっている。そこでカレンはやっと顔を上げた。
「タチアナ」
自分と同じ青い瞳に向かって、彼女はよく通る透き通った声で言う。
「タチアナは、母さんや父さんの言いつけと、母さんや父さんの命と、どっちが大切だと思うの?」
タチアナは悔しそうに押し黙ってしまったが、ややあって挑戦するかのように再び口を開いた。
「……母さんや父さんがああ言うのは、第一に、あたしや姉さんを守る為だと思うのよ。あたしが母さんだったら、もし熱病にかかってても、自分の為になんて理由で自分の子供にそんな所に行ってほしくない」
「……そっか」
じゃあ、とカレンは本にしおりをはさんで閉じながら言った。昼間で窓から光が入ってくる時間帯なのだが、いかんせん雨のせいで空が暗すぎて家の中も暗くなってきたからだ。空の雲の黒さはさっきよりも増している。
「私達は何の為に術を使うのか、不思議ね。生きていく為に、皆は使っているんだと思うんだけど」
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