どこかの谷Ⅰ

「まさか、ここに出るなんて……」

 トリルは戸惑ったようにまばたきした。

「プリンテンポの谷? トリルはここに来たことがあるの?」

 マズルカがユーシャの肩の上から聞いた。

「我が国の……」

 一瞬言い淀んでから、トリルは続けた。

「……王族が、身を隠す必要がある時に使っている谷だ」

 舟が岸にぶつかったので、四人は陸に上がった。

「じゃあ、ここはトリルの国なの?」

「いや、僕の国はまだ遠い。海を越えたずっと先だ。でも、ここからじゃ西の海も同じくらい遠いな。どうするか……」

 トリルは暗い声を出した。

「潮風号の仲間たちには悪いことをしてしまった。みんな無事ならいいんだけど……。スラーとタイも、せっかく船に戻れたのに」

「あの二人なら大丈夫よ」

 不安げなトリルの言葉に、ユーシャは明るく答えた。

「虹の雲の上でした願い事を覚えてるでしょ」

「願い事って……スラーの? タイと二人同時に願っていることを願うって言ってたな」

「そうよ。あの二人なら、どんな困難に遭っても力を合わせて切り抜けて行けるってことよ」

「ああ……そうか」

 トリルはようやく笑顔になった。

「そうだな。あの二人なら、きっと……」

 全員で歩き回った結果、谷間には風雨を凌げそうな洞穴がいくつかあり、果物や野菜もたくさん実っているということがわかった。

「隠れ住むには持って来いの場所だな」

 言ってから、ロンは空を見上げた。

「やっと日が暮れるのか。向こうは夜だったのに」

「あの鍵を使ってドアを開けると、時間を飛び越えちゃうのよ」

 ユーシャが説明した。

「ああ、そうだ。鍵を……」

 トリルが手を広げ、まだ握っていたことに自分で驚きながら、ユーシャに金の鍵を差し出した。

「落とさずに持っていたのは奇跡だな。でも、なくしてしまわなくて良かったよ」

「ねえ、疲れたし、今日はもう寝ちゃわない? あとのことは明日考えましょうよ」

 マズルカがそう言ってあくびを一つした。

「そうだね。どこで寝る?」

「さっき二つ並んだ洞穴があったじゃない。あそこを寝室にしましょうよ。向かって右側がロンとトリルの部屋、左が私とユーシャね」

「わかった」

 トリルは頷き、手を振った。

「それじゃ、お休み」

「お休みなさい」

 ユーシャとマズルカは洞穴の中に入り、とりあえず横になった。明日、住み心地が良くなるように整えよう。

「願い事かー。あーあ、私の願い事は、一体いつになったら叶うのかしら」

 マズルカがぼやいた。

「近いうちに叶うって言われたじゃない。マズルカのピアス、最初に見た時より色が薄くなってるわ」

「本当?」

「ええ」

 マズルカは満足した様子で眠りについたが、朝になってもまだぶつぶつ言っていた。

「願い事に頼るだけじゃだめよね。自分で努力しないと。今日から善い行い、たくさん出来るように頑張るわ」

「いいことをたくさんすると、ピアスの色が薄くなって、完全に真っ白になった時、人間に生まれ変われるんだったよね」

「そうよ。さあ、トリルとロンにも色々言い付けてもらってばりばり働くわよ」

 話しながら洞穴の外に出ると、トリルが一人で川岸に立っていた。そばには一艘の船がもやってある。潮風号より一回り小さいが、ちゃんとした帆船だ。

「やあ」

 トリルがユーシャたちに気付いて振り返った。

「おはよう。二人共、よく眠れたかい?」

「おはよう、トリル。この船、どうしたの?」

「洞穴の奥で見つけたんだ。古い船だけど、直せば海に出られるだろう」

「直すの?」

「ロンが小舟に道具を積んで来てくれたから、何とかなりそうだ」

 万一に備え、事前に色々載せてあったらしい。

「へえー、ロンって有能なのね」

 マズルカが感心したように言った。

「それで、ロンは?」

「魚を捕りに行ってる。昨夜寝る前に罠を仕掛けて置いたらしいんだ。昼は魚料理でいいだろう?」

「本当に有能ね。じゃあ私、ロンのお手伝いをして来るわ」

「ああ。気を付けて……」

 トリルが答えている間に、マズルカはひらひらと飛んで行ってしまった。

「マズルカは随分張り切ってるね。何かあったのかな?」

 マズルカを見送りながら、トリルが言った。

「願い事が早く叶うように頑張ってるのよ」

「へえ」

「西の海に戻るのね?」

「ああ、潮風号のみんなが心配だ。どうやらあの雲はこっちには付いて来なかったみたいだしね。僕以外の人間を傷付けることはないとは思うけど……」

 トリルは考え込みながら、額の汗を拭った。

「私もお手伝いするわ」

 ユーシャはのこぎりを手に取った。

「今はいいよ。ちょうど一段落したところだから。それより……」

 トリルは何か言いたげにユーシャを見上げた。

「これきりこの話はしない。でも一度だけ聞いて置きたかったんだ。なかなか二人きりになるチャンスがなかったから……」

 トリルは岩に腰を下ろし、ユーシャにも座るように促した。

「君は言ったね。自分がどこの誰か知りたいって。それで、もし記憶が戻ったら、君はどうするんだ? 君のいるべき場所へ帰るのか?」

「あ……」

 ユーシャは不意を衝かれて口ごもった。そこまで考えていなかったのだ。

「わからないわ……」

 やっと、ユーシャは言った。

「今はわからない」

 トリルは、そうか、と呟いた。そして、最初に口にした通り、二度とその話は持ち出さなかった。

 それから毎日、トリルとロンは一日の大半を船の修理に費やすようになった。ユーシャとマズルカも出来る限り手伝った。合間に食事の支度や洗濯もする。

「ねえトリル、私のピアスの色、変わったと思う?」

 マズルカに聞かれると、トリルは微笑んで答えた。

「ああ、前より白に近くなってるよ」

 そんな風にして、日は流れた。

 ある日の午後、ユーシャは鷹の姿に変身して空高く舞い上がり、谷を遙か上から眺めてみた。川はうねうねと長く、谷間のずっと向こうまで伸びている。下流の方は崖が覆い被さっていて、何があるのかわからない。

 川に近い岩の上に、ロンの姿が見えた。

 ユーシャは下りて行って声を掛けた。

「何をしているの?」

「……ちょっと休んでるだけだよ」

 ロンは相変わらず素っ気ない。

「船は直りそう?」

「まだ大分掛かる」

 しばらく沈黙が続いた。風が顔に吹き付けて来る。

「フォルテは、今頃どうしてるかな……」

「さあな」

 ロンは興味なさそうに言い、立ち上がってトリルのところへ戻って行った。

 その晩は雨になり、風が木々を揺する音が洞穴の中まで響いて来た。

 藁の上に横になっていたユーシャは、トリルの声を聞いた気がして起き上がった。

 洞穴の入り口に、トリルの付けた印がある。数えてみて、もうこの谷に七日いるのだということがわかった。だが、ドアを通ったため、正確な日にちははっきりしなかった。

 ユーシャは外に出て、暗がりに目を凝らした。雨も風もいつの間にか止んでいる。

 不意に、草の間で何かがきらりと光った。近付いて見てみると、十字架のペンダントだった。

 嫌な予感がした。トリルが持っているはずの十字架が、なぜこんなところに……。何かあったのだろうか。

「トリル! トリル、いる?」

 隣の洞穴に呼び掛けると、ロンが顔を出した。

「トリルは?」

 わからない、という答えが返って来た。

「さっきふらっと出て行ったんだが……」

 ユーシャは鸚鵡になって飛び上がり、トリルを探した。川辺に彼の姿は見えない。

「トリル!」

 叫んで別の方向に飛ぼうとして、眼下の木が何本か倒れていることに気が付いた。その間に、横たわる人影が見えた。ユーシャは慌てて急降下した。

 傷だらけのトリルが、そこに倒れていた。

「トリル! どうしたの」

 ユーシャが駆け寄ると、トリルはうっすらと目を開けた。

「……追って来た……。こんな所まで……」

「追って来たって、何のこと? 何があったの、トリル!」

 ――まさか、またあの雲が?

 トリルはそのままぐったりと目を閉じてしまった。血に染まった腕を確認すると、かなり深い傷があった。

 それを見た途端、情けないことだが、ユーシャは気が動転してしまった。どうすることも出来ず、なぜか心に浮かんだのは、虹の山で会った老人のことだった。何かあったら呼べと言って去って行ったあの老人……。確かカーポじいさんと名乗っていた。ユーシャは声を張り上げてその名を呼んだ。

「カーポじいさん! カーポじいさん! すぐに来て!」

「ユーシャ!」

 カーポじいさんより先に、駆け付けたのはロンだった。

「ロン、トリルが……」

「怪我をしてるのか」

「ええ、ひどい怪我なの」

「とりあえず傷口を縛って、洞穴に連れて行こう」

 ユーシャはロンと協力してトリルを洞穴まで運んだ。それから、手にしていたペンダントを見下ろした。今までトリルを守っていたのは、この十字架の力だったのだ。それを手放したために、これほどの傷を負ってしまったのだろう。

 マズルカが飛んで来て、トリルの首に縋り付いた。

「トリル、どうしたの? どうしてこんなことに……」

 トリルは目を固く閉じ、荒い息をしている。顔色は蒼白だ。

「ロン、何とかしてよ! ロンなら何とか出来るでしょ!」

「無茶言うな。俺は医者じゃないし、こんな深い傷、どうしようもねえよ」

「そんな……。私、ロンは有能で何でも出来る人だと思ってたのに」

「その認識は改めてくれ」

 マズルカが尚も言い返そうと口を開いた時、何の前触れもなく、ユーシャの隣にカーポじいさんの姿がぱっと現れた。

「わしを呼んだかね?」

「カーポじいさん!」

「どうしたね、娘さん」

 カーポじいさんはユーシャを見、トリルに目を移すと顔をしかめた。

「これはひどい怪我じゃ」

 マズルカはびっくりした拍子に言おうとしていたことを忘れてしまい、目を丸くしてカーポじいさんを見つめた。

「誰? この人」

「虹の山で会ったのよ。不思議な力を持っているの」

「じゃあトリルを助けてくれるのね」

 皆が固唾を飲んで見守る中、カーポじいさんは白い瓶を取り出し、中の液体をトリルの口に一滴垂らした。

「これは怪我を治す薬じゃが……これで怪我が治ってもこの人は助からん。わしに出来るのは死を先に延ばすことだけじゃ」

「嘘でしょ?」

 マズルカが青くなり、さっきロンに詰め寄ったように、今度はカーポじいさんに詰め寄った。

「まさか、トリルがこのまま死んじゃうって言うの? そんなの嫌よ! 何とかしてよ」

「威勢のいい娘さんじゃのー」

 カーポじいさんは一歩後退した。

「まあ、落ち着け。助ける方法がないわけではない」

「何よ、早く言ってよ」

「闇の力に受けた呪いは、光の力でなければ打ち消すことが出来んのじゃ」

「光の力?」

「そう……光の花なら、この人の命を救えるじゃろう」

「光の花って、どこにあるのよ?」

「ヴィントロの谷のどこかにある。わしは行くことが出来んが」

「私が行くわ。おじいさん、行き方を教えて」

 ユーシャが聞くと、カーポじいさんは立ち上がって川の方を指差した。

「あの川をどんどん下って行くと、氷に閉ざされた谷に出る。そこがヴィントロの谷じゃ。土も水も、草木さえ凍った極寒の地じゃが、ただ一つ、光の花だけはそこでも寒さの影響を受けずに咲くことが出来るのじゃ」

 ユーシャも洞穴の入り口に立ち、暗い川の向こうを見やった。

「その花を探せばいいのね!」

 マズルカが勢いよく飛んで来て、ユーシャの肩に止まった。

「今度は置いて行ったりしないでね。私もトリルを助けたいんだから、連れてってよ」

「そうじゃな。お前さんがおれば役に立つかもしれん」

 カーポじいさんは咳払いをして続けた。

「ヴィントロの谷にはお前さんのような妖精がたくさん住んでおってな、わしはそ奴らに嫌われておるから谷に入れてもらえんのじゃが、悪い連中ではない。真っ正直で決して嘘をつかんのじゃ。光の花の在処を知っておるかもしれんから、出会ったら尋ねてみると良いじゃろう」

「わかりました」とユーシャは言った。

「留守の間、この人のことはわしに任せなさい」

 カーポじいさんはトリルの傍らに立った。

「トリル……」

 ユーシャはトリルの首に十字架を掛けてやると、目を閉じたまま動かないその顔をじっと見つめた。今は薬が効いているのか、さっきほど苦しそうではなく、昏々と眠っているようだった。

「必ず助けるから、待っていてね」

 ロンが小舟を川に浮かべ、呟いた。

「これでどこまで行けるかだな」

 マズルカがまたカーポじいさんを睨み付けた。

「ヴィントロの谷まではどれくらい掛かるの? すぐに着く?」

「すぐには着かんのう。ずっと行かねばならん」

「ずっとって、どれくらい?」

「ずっとずっと、遥か彼方じゃ。その小舟では何日も掛かるじゃろう。早く出発した方がいいぞ」

 カーポじいさんは空を見上げた。雲が晴れ、輝く星の間に細い月が掛かっている。

「わしの薬の効き目は十五日じゃ。あの月が完全に満ちるまでにヴィントロの谷へ行き、光の花を見つけて帰って来なければならん」

 カーポじいさんの言葉に、ユーシャは頷いた。

「おじいさん、トリルをお願いします」

 ユーシャとロン、そしてマズルカが舟に乗った。

 そうして、夜の闇の中、三人は川に漕ぎ出した。

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