どこかの船
潮風号の乗組員たちは、トリルが戻ると待ち構えていたように大騒ぎで迎えた。ユーシャたちが虹の山にいる間に、タイが彼らと会い、トリルのことを伝えていたのだ。中にはトリルと会ったことのない者もいたが、話には聞いていたらしく、皆一様にトリルの無事を喜んだ。
その日は船を出さず、トリルたちは甲板に集まって夜遅くまで話し込んでいた。これまでのことを報告し合っていたのだろう。
トリルは仲間たちと会えて、本当に嬉しそうだった。ただ、お頭と呼ばれていた女の人が船を下り、国に帰ったと聞いた時だけ、少し心配そうな顔になった。
「国に帰ったのか。どうして? 理由は言ってなかったか?」
仲間たちは揃って首を振った。
「スタッカート、君も聞いていないのか」
「聞いていません」
スタッカートと呼ばれた船員が答えた。
「ですが、いつまでも婚約者をほったらかしにしとくわけには行かないと考えたんじゃありませんか?」
「……ああ」
トリルは目を伏せ、ぼんやりと呟いた。
「それは……そうだな」
ロンも含め、ユーシャたちは全員潮風号に乗り込むことになり、再会した翌日、船は出発した。
「トリルって、王子様のくせに船長さんなんかやってたのねえ」
船室のベッドに横になったマズルカが、のんびりと言った。ユーシャとマズルカは船底に二人一緒の部屋をもらったのだ。
ユーシャは少し考えてから答えた。
「この船の人たちは、多分、トリルが王子様だってことは知らないんだと思うわ」
「あら、そうなの。秘密にしてるってわけ?」
じゃあ私たちも黙っていた方がいいのかしらとマズルカが聞くので、二人で話し合った結果、必要ならトリルが自分で話すだろうから、口にするのはやめて置こうということになった。
日が暮れると、スラーが食事の時間だと呼びに来た。
潮風号で生活を始めてもう三日になる。船は今、大海原の真っ只中を走っていた。
「あー、まだあるなあ、あの雲」
甲板に出たスラーが忌々しそうに言った。
彼の視線の先、船尾から見える空には、真っ黒な雲が広がっていた。
「嫌な感じだな。しかもだんだん近付いて来てるような……」
「……」
ユーシャも雲に目をやった。確かに、最初に見た時より、近い位置にある気がする。そして、最初に見た時より、ますます黒く、大きくなっていた。
スラーが船縁に頬杖を突いた。
「それにしても、何でお頭は急に国に帰っちまったんだろ。あんなにトリルさんと会いたがってたのに、無事も確かめずに……」
「無事も確かめずに……?」
ユーシャははっとして、スラーを見た。
「ねえ、スラー」
「ん? 何?」
――そうだ。お頭という人の話を聞く度に、何かもやもやしたのはこのせいだったのだ。
「スラー、お頭は、これと同じ貝殻を持っていたのよね?」
ユーシャは胸元から虹色の巻き貝を取り出してスラーに見せた。
彼女はこの巻き貝を持っていた。トリルは何度も巻き貝に呼び掛けたと言っていた。ならば、彼女はトリルの声を聞いたはずだ。声が変わっていたので、トリルだとはわからなかったのかもしれないが……。
スラーは巻き貝を手に取って眺めた。
「ああ、そうそう、こんな感じの。んー……でも、同じものではないと思うな。色合いがさ、ユーシャの貝殻は青い部分が多いだろ? お頭が持ってた貝殻は赤が目立ってたんだ。よく似てるけど、別物だよ。同じ店で買ったんじゃない?」
「よく似た別物……?」
そうなのか。だとしたら、何もおかしいことはない。だが――だとしたら、別の疑問が残る。トリルの貝殻を落としたのは誰だったのか、ということだ。
食事を済ませて船室に戻ると、マズルカはベッドに舞い降り、腕組みをした。
「あーあ、トリルはさっさと願いが叶ったっていうのに、私はちっとも叶わないわ」
ユーシャはマズルカの傍らに腰を下ろした。
「個人差があるのよ、きっと」
「そうよね。確かあの、夢が現実になる島で見た夢は、まだトリルは実現していないんだったわね」
「……ええ」
トリルの夢――追われる夢、と言っていた。そんなもの、むしろ実現しない方がいいのだろうが……。
「トリルったら、仲間を探し出すなんて言わずに、海賊を見つけてやっつけたいってお願いすれば良かったのに」
「トリルは仲間のことが何より気掛かりだったのよ」
「まあ、そういうところはトリルらしいわね」
それから十日ほど、何事もない航海が続いた。黒い雲は相変わらずぴったり船のあとを付いて来た。少しずつ、間隔を縮めながら……。
ユーシャとマズルカは船を離れて飛び回ることを禁じられ、甲板にもなるべく出ないようにと言われていた。トリル自身も船長室に閉じ籠っていることが多く、ここ二、三日は顔さえ合わせていない。
「退屈ねえ」
マズルカはベッドにごろんと転がっていた。他にすることがないのだ。
「この船、今はどこに向かってるの? 何か海賊の手掛かりでもあったのかしら」
「どこかに向かっているわけじゃないと思うわ」
ユーシャは船長室のある位置に目をやりながら言った。
「海賊を探しているのでもないと思う」
マズルカはベッドの上に腹這いになった。
「でも、動いてるわよ。目的もないなら、どうして?」
「多分……逃げているのよ。追い掛けて来る、あの雲から……」
ユーシャが答えた時、バリバリという音と共に船が大きく揺れた。ユーシャとマズルカは衝撃で床に投げ出された。何が起きたのだろう?
ユーシャはマズルカを手に乗せて甲板へ上がった。そして、息を呑んだ。中央のマストが真っ二つに割れ、今にも倒れそうになっている。
「えー? 何これ。嵐でも来たの?」
飛び出そうとするマズルカを、ユーシャは慌てて止めた。
「風が強いわ。飛ばされるといけないから、マズルカは船室に戻って」
乗組員の男たちが走り回っていたので、ユーシャは船縁に掴まりながら、大声で聞いた。
「何があったの?」
「あの雲にやられた」
船員の一人が答えた。確か、名前はスタッカートだったか。
「雲に?」
その時、マストが倒れ、船体が大きく揺れた。巨大な波が襲い掛かって来る。
バランスを崩し掛けたユーシャを、誰かの手が支えた。トリルだ。
「大丈夫か、ユーシャ!」
「ええ。他のみんなは……」
ユーシャは後ろを振り返った。
「みんな無事だよ。今のところはね」
トリルは答え、天を仰いだ。空は真っ暗だった。真上にあの黒い雲が広がり、ちらっと閃光が走るのが見えた。
「ユーシャ、鍵を出してくれ」
上空に視線を据えたまま、トリルが言った。
「鍵?」
「別の場所に繋がるドアを開く、あの金の鍵だ。早く」
「でも、あの鍵を使ったら……」
「船はあの黒い雲の雷にやられたんだ。前に潮風号が嵐に遭った時も、僕が波に飲まれた途端、雨も風も嘘のように収まり、海も穏やかになったと仲間たちが言っていた。だから……」
空が怒ったようにゴロゴロと唸り声を上げた。
「早く。潮風号が壊されてしまう」
「無茶よ。どこに出るかもわからないのに」
「海に飛び込むよりましだ」
ユーシャは渋々マントのポケットから鍵を取り出した。
「これを使ったら、また日を飛び越えることになるわ」
「やむを得ないよ」
トリルはユーシャから受け取った鍵を、空中に差し込んだ。そのままさっと回転させると、以前より大きめのドアが現れた。頭上から激しく風が吹き付けて来る。
「急がないと」
風に煽られそうになる体をどうにか立て直し、トリルはドアを開けた。ドアの向こうには轟々と流れる川があった。
「――どっちにしても、水に飛び込むことになるのか」
風に乗って、黒い靄がトリルめがけて下りて来た。
「ユーシャ、僕から離れて……」
「離れないわ」
ユーシャはトリルの手を握った。
「私も一緒に行く」
倒れ込むように、二人はドアの向こうの水に身を躍らせた。
トリルはユーシャを抱え、もう一方の手で水中から突き出ている岩にしがみついた。
「ユーシャ、鳥になれ」
ユーシャは鸚鵡に変身し、トリルの懐から飛び上がった。
「トリル、ダイジョウブ?」
「ああ」
トリルは水から顔を出して、周りを見ようとした。
「ドアの向こうはどうなってる?」
「ドアハミエナイワ。モウキエタミタイ。――ア!」
「どうした?」
ユーシャが答えるより早く、別の声がトリルに応じた。
「全く、無計画な奴らだな」
「私を置いて行くなんてひどいんじゃない?」
水面に小舟が浮かんでおり、ロンが艪を手にしてその上に立っていた。ロンの頭の上にはマズルカが座っている。
「どうでもいいが、もっと違うところに乗ってくれないか」
ロンがマズルカに言った。
「あら、ごめんなさい。あなたの髪ってふわふわしてて座り心地が良さそうだったから、つい」
「ロン。マズルカ……?」
トリルは舟の縁に手を掛け、呆然として二人を見上げた。
「どうして……」
「それはこっちの台詞だ。一人でどうするつもりだったんだ?」
ロンはトリルの手を掴んで舟の上に引っ張り上げた。
「幸い幅の広いドアだったから、この舟を押し込むことが出来たんだ。スラーとタイも来たがってたが、俺たちがどうしたか、潮風号の連中に事情を説明する人間が必要なんで残ってもらった。考えなしのリーダーを持つと仲間たちも苦労するな」
「……ごめん」
「で、ここはどこなんだ?」
「わからない」
「ワカラナイワ」
トリルとユーシャは同時に答えた。
「わからない? お前たちがあのドアを出したんだろう?」
「アノドアノイキサキハ、バショモニチジモジブンデハエラベナイノヨ」
「お前はまず人間に戻れ」
ユーシャは言われた通りにした。マズルカがロンの肩からユーシャの肩へ飛び移って来る。
「で、そんな不便なものをなぜ使ったんだ?」
「それは……」
ユーシャがトリルを見ると、ロンとマズルカの目もトリルに集中した。
「……あの雲は僕を狙っているんだ」
俯いたまま、絞り出すようにトリルは言った。
「あの雲が潮風号に雷を落とした。僕がいる限り、攻撃は止まない。やがて船はバラバラにされて沈められていただろう」
「じゃああの雲は、トリルを狙う海賊が寄越した刺客なのね」
髪に跳ねた水滴を払いながら、マズルカが唸った。
「あなたって大変な相手を敵に回してるのねえ」
「なぜなんだ?」
ロンが何気ない風に尋ねた。
「なぜお前が狙われる?」
「……わからない」
話している間に、川の流れはだんだん緩やかになって来た。
周りには、思いの外和やかな光景が広がっていた。両脇に木の生えた崖があり、ぽつんぽつんと花も咲いている。心なしか、海の底で見た川に似ているような……。
トリルがゆっくりと腰を浮かした。
「ここは……」
そこは山と山に囲まれた、小さな谷だった。
「……プリンテンポの谷だ」
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