どこかの山

 小さな舟が水面を渡って近付いて来る。乗っているのは一人。霧に霞んでいるため顔はわからない。舟はゆっくり、ゆっくり近付いて来る。

 ――これは、あの島で見た夢の光景だ。

 ユーシャは思わず身を乗り出し、舟の上の人物を見ようとした。その時……。

「何だ、お前たちか」

 その人物から、聞き覚えのある声が発せられた。

「あっ」とユーシャは叫んだ。

 続けてトリルとスラーも声を上げた。

「君は……」

「あの時の!」

 三人は同時に「え?」と言い、顔を見合わせた。

「何よ。私以外、みんなあの人を知ってるわけ?」

 マズルカがユーシャの膝から首を伸ばし、スラーに目を向けた。

「スラーが会ったなら、当然タイも一緒に会ってるのよね?」

「もちろん、タイも一緒にいたよ。あの夢の島で会ったんだ。島の秘密を教えてくれたのもあの人だよ!」

 スラーはトリルに目を向けた。

「トリルさんはどこで会ったの?」

「東の国だ。潮風号に乗る前に……」

 トリルはユーシャに目を向けた。

「ユーシャも会ったことがあるのか?」

「ええ、東の国の船で一緒に旅をしていたのよ。フォルテと船に戻ったものとばかり思っていた。どうしてこんなところにいるの? ロン」

 ユーシャは近付いて来る舟に目を向けた。

「あなたは、ダイヤモンドの道で迷っていたんでしょう? それとも、氷の道を行ったの?」

 全員の目が舟の上の人物に向いた。

「どっちも行ってない」

 ロンは舟を漕ぎ寄せて来た。

「どっちにも行かなかったなら、どこに行ったんだ?」

 トリルが首を傾げた。

「あの場所に、他に道なんかあったかな」

 ロンは眉を上げてトリルを見た。

「氷の道が見える場所までは行ったが……そこから引き返した」

「引き返した? 川を遡ったってことか?」

「舟の向きを変えたら、川も逆に流れ出したんだ」

「君は相当変わっているな。そんな無茶をするなんて」

 トリルは呆れた声を出した。

「わけのわからない道に踏み込む方がよっぽど無茶だろう」

「それはそうだが……それからずっと、この辺りをさまよっていたのか?」

「ああ」

「そうか……。それじゃ、今日が何日かなんて、わからないだろうな」

 トリルの問いに、ロンはあっさり言った。

「わかるよ」

「え、本当に?」

「ああ」

 ロンの告げた暦によると、ユーシャがトリルと会った日から十六日経っているらしい。つまり、トリルの計算が正しかったということだ。

「確かか?」

「ああ、間違いない」

「なぜわかる?」

「あの虹だよ」

 ロンは上を指差した。

「あの山の虹は、毎年同じ日に架かるんだ。一年に一度、その日一日だけな。虹が架かっている間に山のてっぺんまで行って、虹の橋を渡って雲に上ると、素晴らしい宝物が手に入るって言われてる」

 ロンの話を聞いて、嬉しそうに飛び上がったのはマズルカだった。

「面白そう。行ってみましょうよ。私、宝物を見てみたい」

 ロンはマズルカを見ても驚かず――顔に出ないだけかもしれないが――重々しく首を振った。

「無理だよ、険しい山なんだ。今日中に登るなんて出来っこない」

「私は飛べるから平気よ。ね、行って来ていいでしょう?」

「ちょっと前にもしたな、このやり取り」

 トリルは苦笑した。まるで小さい子のおねだりを聞いている父親のようだ。

「トリルだって、興味あるわよね?」

 マズルカがトリルをじっと見上げる。

「そうだな……。もしかしたら、海賊が関係しているかもしれないし……」

「そうよ。海賊もきっと、宝物を求めてやって来てるわよ」

 ロンが横から口を出した。

「だから、登るのは無理だって。飛んで行かない限り……」

「じゃあ飛んで行きましょう」

 ユーシャは絨毯を取り出した。

「冗談を言ってるのか?」

「ううん、本気よ」

「あ、俺も行っていい? 三人までなら乗れるよね、その絨毯」

 ロンは手を上げて進み出たスラーを見やったが、もう何も言わなかった。

 ユーシャは絨毯を広げ、トリルとスラーが乗り込むのを待ってから、自分も腰を下ろした。マズルカはユーシャの肩に座る。

「悪いな、タイ。ここで待っていてくれるか? すぐに戻るから」

 トリルが声を掛けると、タイは無言で頷いた。

「さ、行きましょ!」

 マズルカの号令を受け、絨毯は上昇を始めた。切り立った岩に沿って、垂直に上って行く。見上げるロンとタイの姿は霧に紛れ、あっと言う間に視界から消えた。

 上るにつれて霧は薄くなり、虹の七色がくっきりと見えて来た。既に日が落ちているのに、真昼かと思うほどの明るさだ。虹が太陽のように輝き、かなり下までまばゆい光を投げているのだ。

「何てきれい」

 マズルカが感嘆の声を漏らした。

「大きな虹……」

 山のてっぺんまで来ると、急に絨毯は止まり、動かなくなった。

「どうしたんだろう」

 トリルが心配そうに見下ろした。

「やっぱり三人は無理だったのかな」

「でも、さっきまでは元気に飛んでたよ。燃料切れ?」

 スラーが言い、絨毯の裏側を覗き込んだ。

「もしかしたら、この絨毯はここから先には行けないのかもしれない。降りて歩こう」

「ええ? 絨毯が行けないなら、俺たちだって行けないよ。大体虹の橋を渡って雲に上るなんて……虹や雲の上を歩くなんてこと、出来るのか?」

「とにかく、やってみよう」

 絨毯をその場に残し、四人は虹の橋のたもとまで行った。七色に輝く美しい橋だ。

 トリルは迷わず虹の先端に足を乗せ、渡り始めた。すぐにユーシャとマズルカが続く。

「何ぐずぐずしてるの、置いてっちゃうわよ」

 マズルカが振り返って急かすと、スラーは一瞬左右に目を走らせてから、決心したように三人のあとを追った。

 虹を渡りきった先は、虹と同じ七色をした雲だった。

 全員が雲に乗った時、どこからか声が響いた。

「七色の虹が輝く今日、虹の橋を渡って雲の城に足を踏み入れし者たちよ。そなたたちにはそれぞれ一つずつ、願い事が許される。降り立った順に申すが良い」

「トリルさんからだ」

 言いながら、スラーは落ち着かなげに辺りを見回した。

「なあ、この声、どこから聞こえるんだ? 誰もいないよ。それに、宝物が手に入るって話だったのに、どこにもないじゃないか」

「欲しいと願えば手に入るってことだろう」

 トリルが呟くと、また雲の上から声が響いた。

「宝を望むか?」

「いや、僕の願いは一つだ。はぐれた仲間たちを見つけ出したい」

「次はユーシャよ」

 マズルカが促した。

 ユーシャはためらったが、次の瞬間、今まで考えてもみなかった、けれどずっと心の隅にあったことが口を衝いて出た。

「私は一体どこの誰なのか、なぜ記憶がないのか教えて下さい」

 トリルが驚いたようにユーシャを見た。

 僅かな沈黙のあと、マズルカが口を開いた。

「私は早く人間になりたいわ」

 最後はスラーだ。

「うーん……俺はいつでも、何でもタイと分け合って来たから……二人が同時に願っていることを叶えてもらおうかな」

 全員の願いを聞くと、雲の上の声は厳かに告げた。

「近いうちに叶えられるであろう。さあ、戻りなさい。虹が消えてしまう」

 四人は虹の橋を引き返した。が、困ったことになった。山の頂上にあったはずの絨毯がなくなっていたのだ。

「おかしいわね。確かそのへんに浮かんでたのに」

 マズルカがそのへんを飛んで行ったり来たりした。

「参ったな。歩いて降りるしかないか」

「ええ? でも、霧で下が見えないよ」

 スラーが不安そうにトリルを振り返った。

「大丈夫。足場はしっかりしてるし、慎重に進めば問題ないよ」

 トリルの言う通り、傾斜は急だが、岩と岩の間に道らしきものが見えた。

「私が鸚鵡になって誘導するわ。マズルカ、行けそうなら先に下りて、タイに帰りが遅くなるって伝えてくれない?」

 ユーシャが言うと、マズルカは頷き、眼下の霧の中へ消えて行った。

「ユーシャも先に下りてくれ。僕たちは足場の良さそうなところを探してゆっくり下りるから」

「ううん、一緒に行く」

 ユーシャは鸚鵡に変身した。

「アナタタチガオチソウニナッタラ、オオキナタカニナッテササエルワ」

 こうして三人は山を下り始めた。トリルもスラーも身が軽く、危なげない足取りで歩を進めて行く。

 かなり歩いた頃、どこからか声が聞こえて来た。

「助けてくれー」

 見回すと、道の先に横たわる大きな岩が目に入った。

「助けてくれー」

「雲の次は喋る岩か!」

 スラーが怯えてトリルの後ろに隠れた。

「助けてくれー」

「いや、喋ってるのは岩じゃないよ。誰かが下敷きになっているんだ」

 トリルが駆け寄り、岩に手を掛けた。

「スラー、そっちを持ってくれ」

 ユーシャも人間に戻って二人を手伝った。岩が少しずつ持ち上がる。

「ふう。死ぬかと思ったわい。どこの誰だか知らんが、礼を言うぞ」

 岩の下から這い出して来たのは、白い髭を生やした小さな老人だった。

「おじいさん、こんなところで何をしてるの?」

 何となくただの老人ではない気がしたが、敢えてそこには触れずにユーシャは聞いた。

「虹の雲の城へ行こうと思ってな」

 老人は汗を拭き拭き言った。

「願い事をしたかったんじゃが、もう間に合わんかのう」

「ちょうど日付が変わるらしいぜ。ほら」

 スラーが山の上を指差した。輝く虹が、下の方からゆっくりと消えて行く。

「残念じゃな。また来年来るとするか」

 老人は肩を落としたが、すぐに立ち直ってトリルを見た。

「助けてもらった礼をせねばの。何か欲しい物はないか?」

「いえ、お気持ちだけで……」

 トリルは首を振った。

「欲がないのう。まあ良い、わしはカーポじいさんじゃ。お前さんたちが困った時は、この名を呼んでくれ。いつでも飛んで行くぞ」

 そう言い残し、老人はぱっと姿を消した。ほぼ同時に虹の橋も完全に消え去り、辺りは真っ暗になった。

 しばらく誰も口を利けなかったが、やがてスラーがぽつりと言った。

「こんなことが出来るなら、虹の上までひとっ飛びで行けば良かったのに。変な奴」

「それより、この暗さじゃ先へ進むのは無理だな。日が昇るまで休むか」

 トリルはユーシャの手を引き、さっきどかした岩に並んで寄り掛かった。スラーも横に来て座る。それだけ近付いても、互いの顔も見えないほどの闇夜だった。

「あーあ、ついてないなあ!」

 スラーはぶつぶつ文句を言っていたが、そのうちに眠ってしまった。

「ユーシャも寝ていいよ」

「トリルこそ、休んだら? 危険があったら起こしてあげるわ」

「いや、僕は眠らなくても大丈夫だ」

 少しの間言い合いになった。

「トリルが眠らないなら、私も眠らないわ」

「君には敵わないな」

 ついにトリルが折れた。

「じゃあ、順番に眠ろう。僕が起きたら交替だよ。いいね」

「わかったわ」

 三人は山の上で一夜を過ごし、充分明るくなるまで待って再び出発した。

 やっと下に着いた頃には、すっかり日が高くなっていた。微かに霧が残る海面に、ロンとタイの姿は見当たらない。代わりに、二つの小舟と並んで一隻の帆船が停泊していた。

「潮風号だ!」

 スラーが叫び、嬉しそうに駆け出して行ったが、トリルは立ち尽くしたまま、船の後方を見上げていた。

 ユーシャは鸚鵡から人間に戻り、トリルの視線を追って空を仰いだ。そして、そこに不吉を予感させる大きな暗雲を見たのだった。

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