どこかの谷Ⅱ
雨で水かさが増していたため、ロンは慎重に舟を進めた。
舟の上には積まれたままのものがまだたくさんあった。ロープに毛布が何枚か、薬、缶詰等々……。
「本当に色々用意してあったのねえ」
マズルカは小舟の中をつくづくと眺め回した。
「あら、このバスケット……」
「ああ」
ロンがちらっとバスケットに目をやった。
「ユーシャの荷物だと思ったから持って来たんだ。すっかり忘れていた」
「すごい! ロンって本当に有能ね!」
マズルカは嬉しそうにバスケットを持ち上げた。
「忘れていたのが有能なのか?」
「違うわよ。だって、これがあれば旅の間困らずに済むわ。ねえ、ユーシャ?」
「そうね」
ロンは肩をすくめた。
「そんな大事なものなら、普段から肌身離さず持ち歩けよ」
「ええ、これからはそうするわ」
ユーシャは答え、マズルカからバスケットを受け取って蓋を開けた。中には食べ物と一緒に、魔法の本が入っていた。
「……本当に有能ね、ロンは」
「見て。夜が明けるわ」
マズルカが白み始めた空を指差した。
「何か食べましょう。少しでも力を付けなきゃ」
ユーシャはバスケットを二人に差し出した。
「あらこれ、プリンテンポの谷にあった果物ね。本当に何でも出て来るのねえ」
食べ物があとからあとから湧いて来る様子を、ロンは黙ってじっと眺めていた。
「どうしたの? ロン」
マズルカが果物を口に運ぶ手を休めてロンを見た。
「……もうどんなに信じ難いものを目にしても、いちいち驚かないことにしたんだ」
「あら、私、ロンが驚いたところなんか見たことないわよ」
三人は食事をし、それから、この先どうするべきかを考えた。
「とにかく、まずはヴィントロの谷に着くことね」
ユーシャが言うと、マズルカがため息をついた。
「虹の橋のたもとに置いて、なくなってしまっていた空飛ぶ絨毯、あれがあれば楽だったのにね」
そういえば、あの絨毯はどこへ行ってしまったのだろう。
「もう一度出すことは出来ないの?」
「トリルが言うには、魔法の本の呪文は一つにつき一回しか使えないんですって」
「じゃあ、ヴィントロの谷まで一気に飛ぶ呪文とかないの?」
「うまく行くとは限らないし、失敗した場合何が起きるかわからないから試す気になれないわ」
「それじゃ、このまま下流へ下流へと、ひたすら進むしかないのね……」
その時、音を立てて水が跳ねた。まるで生き物のように二度、三度と舟の周りを飛んでいる。
「何?」
ユーシャが聞くと、マズルカが言った。
「ああ、大丈夫。あれは水の精よ」
「水の精……」
ユーシャはくるくると踊る水の動きを目で追った。
「そういえばカーポじいさんは、ヴィントロの谷にも妖精がたくさんいるって言ってたよね」
水の精はぱしゃぱしゃと波を起こしながら、舟のあとに付いて来る。
「私たちに言いたいことでもあるのかな?」
「そのバスケットの中身が欲しいみたいよ。甘いものに目がないんですって。何かあげたら?」
ユーシャは角砂糖を水の上に投げてやった。水の精は嬉しそうに跳ねて角砂糖を食べた。
「暢気だな」
ロンが前方に注意を向けたまま言った。
旅は順調に進んだ。ロンにばかり負担は掛けられないので、時々交代してユーシャも舟を漕いだ。
日が昇って沈み、また昇った。その日がまた沈もうとしている時だった。
突然川が波立ち、目の前に巨大な木が出現した。ユーシャたちに向かって狂暴に枝を伸ばして来る。
ロンがさっと立ち上がった。
「何だ、これは」
「私に聞かないで」
ユーシャの後ろに隠れながら、マズルカが言い返した。
「お前は妖精だろ、人ならざるものと話が出来るんだろう、この前だって水の精と……」
「ものによるわよ」
マズルカはユーシャのマントの中に逃げ込んでしまった。
木の化け物は、今にも襲い掛かろうとしている。ロンが剣を抜いた。夜の闇の中で光を放つ、透明な剣。
ユーシャも剣を抜き、化け物を正面から見て身構えた。
「どいてろ、ここは俺が……」
ロンが言い終わらないうちに、化け物が襲い掛かって来た。ロンはユーシャを庇うようにして化け物に向かって行った。一太刀浴びると化け物は激怒したように跳ね上がり、ロンを叩き飛ばした。
「ロン!」
ユーシャは川に落ちたロンの方へ走り掛けたが、巨大な木に行く手を阻まれた。咄嗟に止まることが出来ず、振り下ろされたユーシャの剣は火を噴いた。木は炎に焼かれ、根元からぽっきりと折れた。
ユーシャは鸚鵡になって飛び上がり、倒れて来る木をどうにか避けた。が、舟はまともに下敷きになり、盛大な音を立てて壊れた。
「何てことを……」
水面から浮かび上がったロンが、絶望的な声を出した。
「ロン、ダイジョウブ?」
近くまで飛んで行ったユーシャは、ロンにきっと睨まれた。
「どうするんだ、これから。舟もなしに」
「ユーシャのせいじゃないわ。やられるところだったくせに」
マズルカがぴしゃりと言っている間に、ユーシャは倒れた木に近寄って完全に息耐えていることを確認した。それから人間に戻り、ロンを木の上へ引っ張り上げた。
「怪我はしていない?」
「大丈夫だ」
ロンは壊れた舟に降りて自分の荷物を拾い上げ、ユーシャにはバスケットを投げて寄越した。
「ほら」
「ありがとう」
しかし、こんな川の真ん中に投げ出されて、これからどうすればいいのか。舟がなければ先へ進むことはおろか、戻ることも出来ないのだ。
「……もうすぐ夜が明けるわね」
マズルカが遠くの空を見やりながら呟いた。
ユーシャが鍵を使うべきかと迷っていると、ロンが言った。
「いつまでもこうしてはいられない。方法は一つだな」
「何?」とマズルカ。
「出発する時、お前が言っていた空飛ぶ絨毯だよ。あれを使うんだ」
ユーシャは首を振った。
「無理よ。あの絨毯はもう出せないわ。一度使った呪文は二度と使えないって言ったでしょ」
「それは絨毯を出す呪文だろう。出すんじゃなくて、呼び戻すんだ」
「呼び戻す?」
ユーシャとマズルカは同時に声を上げた。呼び戻す……そんなことが出来るだろうか。
「試してみるだけ、試してもいいだろう」
ずぶ濡れで木の上に座ったロンは不機嫌だ。
ユーシャは魔法の本を開いた。
「絨毯を呼び戻す呪文を探せばいいのね? 私も手伝うわ」
マズルカが身を乗り出したが、すぐにまた身を引いた。
「だめ、私にはこの本の文字は読めないわ。ユーシャは読めるの? すごいわね!」
ユーシャは苦笑いを浮かべた。
「実は私も読めないの」
「えっ? じゃあどうやって目当ての呪文を見つけてるの?」
「こうしたいなと思うことを念じながら本を開くと、言葉が心に浮かんで来て、それをそのまま唱えているだけなのよ」
「だったら今度もそうすればいい」
こともなげにロンは言った。
「……そうよね」
よし、一か八かやってみよう。空飛ぶ絨毯を呼び戻すのだ。
空飛ぶ絨毯を、呼び戻す――頭の中で繰り返しながらページをめくり、ユーシャは呪文を読んだ。
すぐには何も起こらなかった。彼方の山の上に、ゆっくりと太陽が顔を出す。その向こうから、こちらに飛んで来る黒い点が見えた。
近付いて来るにつれて、それは絨毯であることがわかった。成功したのだ。しかし、やって来たのは絨毯だけではなかった。
「誰かが乗っている」
ロンが立ち上がり、剣を構えた。
逆光で、その人物の顔は見分けることが出来なかった。だが、相手もこちらに気付いたらしく、先に口を開いた。
「そこにいるのは……ユーシャですか?」
「ラルゴ!」
ユーシャとロンが同時に叫んだ。
「ロン、無事だったのか。二人でなぜこんなところにいる?」
ラルゴは絨毯から木の上に、ひょいっと降りた。
「あなたこそなぜ……。その絨毯は……」
ああ、とラルゴは言った。
「これに乗って国へ帰ろうとしていたんです」
「じゃあ、あなたがここに来たのは……」
「偶然ですね。あの時別れたあなたと、またこんなところで再会するなんて。……こんな、川の真ん中で。一体どうしたんです?」
ラルゴはずぶ濡れのロンを見やった。ロンは押し黙っている。代わりにマズルカが聞いた。
「その絨毯、あなたのなの?」
「ええ、僕の持っている魔法の本の呪文で出した絨毯ですが……あなたは誰ですか?」
「マズルカよ。あなたこそ、どこの誰なのよ」
「トリルのお兄さんよ」
マズルカに答えてから、ユーシャはラルゴの方を向いた。
「魔法の本って言ってたけど、それって……」
「おばあさまが下さった三つのお守りの一つです。トレモロも、同じものを持っているはずですが……」
ラルゴはユーシャの手にしている本を見やった。
「……トレモロは?」
「そうだわ。ラルゴ、トリルが大変なのよ」
ユーシャはラルゴに事情を説明した。
「その絨毯で、ヴィントロの谷まで連れて行ってもらえる?」
「わかりました。今、何日経っているんですか?」
「二日……今日で三日目だ」
ロンが答えた。
「では、急ぎましょう」
ラルゴが絨毯に飛び乗り、ロンも続いた。ユーシャもラルゴとロンの後ろに乗り、絨毯は飛び立った。川下へ、川下へ――。魔法の絨毯は一気に飛び、あっと言う間に目的地に着いた。
そこは見渡す限り青白い氷の世界だった。
ラルゴは雪の積もった地面に絨毯を着陸させた。
ロンが真っ先に絨毯から降りた。
「見事にどこもかしこも凍り付いているな。ここがヴィントロの谷か」
「この谷のどこかに、その……光の花があるんですね」
ラルゴが確認する。
「カーポじいさんはそう言ってたわ」
ユーシャは答え、ラルゴに続いて絨毯を降りた。
「でも、どうやって……どこを探したらいいのかしら」
マズルカがユーシャの肩から離れて、うろうろと飛び回った。そして、ぶるっと体を震わせた。
「ううっ、さ、寒いわね。このままじゃ光の花を見つける前に凍え死んじゃうわ。ロン! 防寒着か何かないの?」
「一応、毛皮は持って来たが……」
「上等じゃない! さすがね!」
全員が毛皮を着込み、装備を整えてから、ラルゴが言った。
「それで、この谷のどこを探せばいいんですか?」
「それが……カーポじいさんは、ヴィントロの谷のどこかにあるとしか言わなかったの」
「目印とか、ないんですか? 光の花とはどんなものなんですか」
「わからないわ。わかっているのは、このヴィントロの谷でただ一つ、凍ることなく咲いている花だってことだけ」
「他には何も教えてくれなかったんですか? 失礼だが、その、カーポじいさんという人は、本当に信用出来る人なんですか?」
「それは確かよ」
「ユーシャが言うのなら、確かなんでしょうが……」
とにかく進んでみようということになり、彼らは歩き始めた。
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